古代史コラム No.6 『翰苑』 あれこれ
第1項 はじめに 『翰苑』の不可思議
『翰苑』を知ったのは、次の第2項でも述べるように古田武彦氏の『邪馬一国の道標』を読むことによってである。
『翰苑』は張楚金によって書かれたもので、その最後に彼が孔子の夢を見たことが書かれている。唐の顕慶五年660年のことだという。660年に『翰苑』は完成したとも、執筆中ともとれる。完成はその前後であろうか。しかし当初、『翰苑』の史料価値について私はいくらかの疑念を持っていたというのが正直なところである。
『翰苑』は巻三十の蕃夷部しか残されていない。全巻がそろっていれば「本紀」「志」「列伝」などの順に並ぶはずであった。「蕃夷部」などは「列伝」の中でも最終の項目であっただろう。「蕃」とは、古代中国で「異民族、夷狄」を指す言葉である。その先頭に「匈奴」、「鮮卑」とある。私の頭は混乱するとともに疑念が起こった。隋・唐の時代、鮮卑系の北朝が中国を統一した時代である。なぜ、「蕃夷部」に鮮卑がある。さらにこの時代は、匈奴系の独孤部が貴族として権力の中枢に存在していた。北朝系の后妃には独孤信の娘が並ぶ名家になっていた(注1)。北朝系の史書の中では488年完成の『(北)魏書』を最後に鮮卑の名は消える。匈奴・鮮卑を北狄として位置づけてきた南朝系の史書でも、559年完成の『宋書』列伝を最後に匈奴、鮮卑の名は姿を消す。
しかるに、『翰苑』ではその「蕃夷部」の、しかも先頭に匈奴・鮮卑の名がある。張楚金は反(あるいは非)唐勢力の一翼を担った人物、ないし政治状況に無知な人物ではないかと疑ったものである。
ところが、『旧唐書』列伝 忠臣上 張楚金伝を読む。盛唐の時代に生きた人物、そして唐の役人、しかも「忠臣」でもあったとされる張楚金。『翰苑』全三十巻の作者であるという紹介もある。
この謎は、私の心の中に沈潜したままである。『翰苑』の全三十巻が残っていてくれたなら状況はより明確になったのでは、という思いである。とはいっても、『翰苑』によって私の古代史探求において幾つかの点で励まされ、また考える上での刺激剤になってもいる。これらの点について述べてみたい。
なお、以下に書かれた頁だけ書かれたものは『翰苑』武内理三 校訂・解説 吉川弘文館のものである。
古田武彦氏の『邪馬一国の道標』(注2)における、「倭の都が移動していない根拠としての『翰苑』。」これに興味を持ったことが『翰苑』と向き合う契機となった。氏の著作と『翰苑』を最初に読んだのがいつかは忘れたが、不勉強のため両著書を真剣に読み始めたのは比較的に最近のことである。
拙稿:「万二千里考」(注1)でも述べたように、倭国は白村江戦まではその中心の都の移動はなかった、つまり卑弥呼は九州、倭国の首都は動かず、私はこの点に賛同して東京古田会に入会したといういきさつもある。倭国の首都、邪馬壹(臺)国は、『魏志』倭人伝、『後漢書』東夷伝、『梁書』、『隋書』俀国伝。いずれも朝鮮半島、帯方郡・楽浪郡・百済・新羅から万二千余里。出発地が変わったため距離に若干の変化があったが、『旧唐書』倭国伝では万四千余里。いわゆる「邪馬台国東遷説」は成り立たないと考えていた。
古田氏が『翰苑』から読み取ったもの。新羅、百済は三韓の時代から国の形態が変わり、都もそれに伴い移り変わっていった。高句麗は、国は変わらなかったが都は遷り変っている。倭国については、都の変化は記されていない。
繰り返すが、古田氏の『邪馬一国の道標』を読み、朝鮮半島の国々とは対照的に倭の都が移動していなかったことを『翰苑』もまた示していることにより、私は『翰苑』という書物に興味をもつことになった次第である。
張楚金、古田、両氏に感謝。
第3項 倭国は北朝系の魏・斉・周には遣使せず
『翰苑』には記されていないことをもって根拠にするという点で、このテーマでも同様である。倭国は隋より前の時代の北朝系王朝には遣使していない。『翰苑』の「倭国」の項の引用には南北朝時代の北朝系、北魏・北斉・北周の史書はない。『漢書』地理志、『後漢書』、『魏略』、晋の時代の『広志』、『宋書』から引用がある(119~122頁)。『宋書』からは「倭王讃」の名も記されている。いずれも、引用は南北朝時代の南朝側を構成する漢民族の史書である。しかし、南北朝の統一後では様子が変わる。『隋書』を思わせる「阿輩雞弥」、官位の「徳・仁・義・礼・智・信」。唐初の『括地志』が典拠となる。以上のように『翰苑』は、倭国が漢民族系、南朝の時代には北朝とは没交渉であったことを記すことなく表明している。
「なぜ倭国は南北分裂時代に北朝には遣使しなかったのか」については、正解か否かは別として、拙稿:「倭国の遣使先とその遣使姿勢(注3)」で述べている。この問題は古代史上の重大テーマの一つにならなければならないのではないだろうか。
これに対して、高句麗、新羅、百済は、南朝だけでなく北朝への遣使があることが、『翰苑』によっても確認できる。
・高句麗の遣使記事は十六国春秋前燕(106頁)、北斉書東夷伝(109頁)、魏牧の後魏書(北魏書)東夷伝(110頁)に載る。
・新羅の遣使記事については、北斉書(112頁)に載る。
・百濟の遣使記事は、『後魏書(北魏書)』における「魏に上表して曰く」という記事がある(114頁)。ここには王の名は書かれていないが、『北史』百済伝では北魏延興二年472年条として、百済王余慶が「上表」とある。時代はともに北魏の時代で対応である。北朝系史書と『翰苑』の対応関係が示されている。
このように、倭国は朝鮮半島の国々とは異なり、北朝系との遣使関係が無かったことを『翰苑』もまた、記さないことによって、教えてくれている。
第4項 倭王の将軍号「進号」の真実
私が思いあぐねていた問題があった。
南朝系の史書における「百済伝」と「倭国伝」における将軍号は似通っている。「大」がつく号と、つかない号とがあるが、「安東将軍」、「鎮東将軍」、「征東将軍」であり、序列もこの順に高位になっている、つまり「安東≺鎮東≺征東」のようである。そうであれば、「大」がついた場合でも「安東大将軍≺鎮東大将軍≺征東大将軍」という序列になるであろう。これをまとめると「安東将軍≺鎮東将軍≺征東将軍≺安東大将軍≺鎮東大将軍≺征東大将軍」になるはずだ。
この序列は安本美典氏の考えに近いかもしれない。安本氏は『倭王武の謎』(注4)において、宋の時代の「官品表」では「安東将軍」、「鎮東将軍」、「征東将軍」は三品」であり、「安東大将軍」、「鎮東大将軍」、「征東大将軍」は二品であると述べている。氏の見解の成否は後で述べることにするが、事柄は複雑である。
『梁書』の中国書局版の「校勘記三十」に書かれていることであるが、元々の『梁書』倭国伝では、梁の天監元年502年の倭王武は「鎮東大将軍から征東将軍に進号」とあったのだが、『南史』では「鎮東大将軍から征東大将軍へ進号」とあったので『梁書』で「大」を補った、と。安本氏の説を支持するかのような『南史』の校勘記である。しかし、「二品の鎮東大将軍から三品の征討将軍へ」であれば、進号ではなく降格・格下げになってしまうと考えられる。
では、元々の『梁書』に記された「鎮東大将軍から征東将軍へ」は進号にならないものなのか、このような問いを発してみたい。
頭を整理するために、まず安本氏の説を検討してみる。安本氏の述べた「宋代の官品表」なるものについてであるが、「宋代の官品表」なるものは存在するのかという疑問がある。『宋書』志に「百官」の項はある。しかし、ここには「将軍職と官品」に当たる記事は存在しない。氏の挙げた「官品表」なるものの出典が明確ではないという問題がある。
さらに、中国が夷蛮の王の将軍号に「二品・にほん」、「三品・さんほん」というような高位の位を授与するとも考えにくい。時代は異なるが、『新唐書』巻191 列伝116 忠義上には、唐の重臣たちの役職と官品が記されている。その中からの例であるが、「中諸令(皇帝の詔勅起草担当)」、「尚書右僕射(皇帝の詔勅実施担当)」、「文昌左相(人事担当)」、「太子太保・太子太師(皇太子教育担当)」などは三品クラスである。倭王の「大将軍の二品」より低いことになる。倭の将軍・大将軍の二品・三品は不可能であろう。
また、制度は異なるが参考としてヤマト朝廷における大宝律令の官位を例にとる。中国にとっての東夷倭国は、ヤマト朝廷にとっての蝦夷のような地位にあたるだろう。太政大臣 正一位 ないし従一位;左大臣 右大臣;正二位ないし従二位;大納言正三位ないし従三位; 卿 正四位上、また正四位下とある。これに対して、例えば蝦夷の伊治公呰麻呂に与えられたのは「外従五位下」と全くの別枠のものであった。
仮に、「宋代の官品表」があったとしても、二品・三品クラスが東夷の王に与えられるべくもないと思われる。安本氏の示した「将軍は三品」、「大将軍は二品」という見解は無視できるものと言ってもよいだろう。
ところで、ここで大事なことは進号の真実である。倭王武が「鎮東大将軍から征東大将軍」へは進号だが、「鎮東大将軍から征東将軍」へは進号にならないのか、という問題に答えなければならない。実は南朝の倭国伝における進号記事では「進号」の事例は少ないため、決定的な証拠がつかめないでいた。そのときに、『翰苑』に書かれていた百済の将軍号のことを、かすかにではあるが思い出した。最初に『翰苑』を読んだときには特に注目しなかったものである。百済伝が手掛かりになるかもしれないと考えるに至った。
まず、『翰苑』(114頁)も『宋書』に曰く、として百済について記していた。晋の義熙十二年416年に「鎮東将軍から鎮東大将軍に号を進める」、と書かれている。「将軍」から「大将軍」は当然のことながら進号である。百済伝を確認してみようという思いは、倭国の将軍号と百済の将軍号が似ていたことによっても強まっていた。
そして決定打と思われる記事が『梁書』百済伝にあった。南斉の永明中(483~493年)に、鎮東大将軍の号であった百済の牟太王が梁天監元年502年に征東将軍に進号したとある。『南史』にもこれと同じ文言が載る。つまり、『梁書』、『南史』という二つの百済伝は「鎮東大将軍から征東将軍へ」は進号であったと記述していたことになる。したがって、倭王武は「鎮東大将軍から征東将軍へ」であろうと、「鎮東大将軍から征東大将軍へ」であろうと、ともに進号であったことになると判断できることになる。
その結果、序列は次のようになる。「安東将軍≺安東大将軍≺鎮東将軍≺鎮東大将軍≺征討将軍、≺征東大将軍」
ところで、もとより天監元年502年の進号問題は様々な問題をはらんでいた。
「倭の五王は近畿ヤマトの天皇」を信じる定説の多くでは、倭王武が479年に没する雄略天皇と比定するために、天監元年502年の『梁書』、『南史』における倭王武の進号記事は真実を語ったものではないことにされている。
あるいは天監元年502年の記事には遣使がなされたとは書かれていないので、梁が勝手に史書に記しただけで、実際には進号は無かったという説も出されている。
なかには、502年の南朝の史書から倭王武の進号を資料として利用しない、あるいは引用さえしない論文まである始末である。
しかし、天監元年502年の百済伝でも遣使記事はないが進号は記録されていた。他にもそのような事例はある。遣使記事の有無で進号の有無を決めることはできないのではないだろうか。
天監元年502年の倭王武の記事は、遣使のあるなしに関わらず、消そうにも消せない歴史的真実であろう。
考察のきっかけを与えてくれた『翰苑』に感謝。このこともあって、拙稿:「近畿ヤマトではない倭の五王 下」(注5)に結実したのである。
第5項 『翰苑』よ、おまえもか!
ここでは『翰苑』の記述内容を一部、否定することになる。
前拙稿:「夷狄」考—『論語』と『史記』より—」(注6)で、『論語』における「夷狄蛮(『論語』に戎は無い)」に方角は書かれていない旨を述べた。それにもかかわらず、現代の日本における『論語』の解説書にはことごとく「東夷」、「北狄」、「西戎」、「南蛮」というように方角と結びついたものが『論語』にあったかのように書かれているのだが、「それはなぜか?」という問いを立てて論じた。そして、その原因は後代に書かれた司馬遷の『史記』、および『漢書』地理志などにあったのではないかという答えを出した。しかし、「夷狄戎蛮」に方角を付す「通念」を創ったものはそれだけではなかった。『翰苑』もそこで一役買っていたのである。つい最近、『翰苑』を改めて読んでみて気がついた。『翰苑』には『漢書』地理志の解釈を真に受けたような記述があったのである。
『論語』に「夷狄蛮」はあるが、それらは「東北南」という方角と結びついてはいなかった。まずはこの点を押さえておいてほしい。『論語』以外の東周春秋時代の著作物、「春秋三伝」にも「東夷」、「北狄」、「西戎」、「南蛮」はない。結びつくのは前漢や後漢時代の著作物、『史記』や『論衡』、『漢書』、『後漢書』、あるいはそれ以降の著作物である。
前拙稿で、私は『漢書』地理志の史料批判をもっと徹底的に行うべきであったと反省している。この著作は『論語』から引用しながらも、不適切な結合を行なったり、誤った文言と結びつけたりしていた。
『漢書』地理志より: 然東夷天性従順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設(栰)浮於海 欲居九夷 有以也夫
楽浪海中有倭人 分百余国 以歳時来献見云
この中で『論語』に書かれているのは、①悼道不行 設(栰)浮於海(公冶長篇には類似の表現がある) ②欲居九夷 (子罕篇)だけである。
「東夷」というのは『論語』には存在しない。司馬遷は『史記』で「東夷」という語を使っていた。地理志における「三方」は明らかに「北狄」「西戎」「南蛮」を意識している。『論語』にそのような記述は存在していない。倭人も『論語』には登場していない。「分かれて百余国、歳時をもって献見する」のは漢の時代以後の出来事でしかない。倭人が前漢の時代に遣使したことをもって出来上がった観念であろうと推測できる。もちろん、『論語』にはそのような認識は皆無である。
次いで『翰苑』である。『翰苑』には、『後漢書』の高句麗についてであるが、『漢書』地理志、『後漢書』倭人の項に類似し
た以下のような表現がある。
『翰苑』102頁より『後漢書』に類似した文を見る。王制に云う、東方を夷と曰う、夷は柢(ね・テイ)なり。言うこころは仁にして生を好み、万物地に柢(ふ)れて出ず。故に天性従順にして、道を以て御し易し、君子不死の国有るに至る。夷に九種有り。曰く、畎夷・干夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷なり。故に孔子九夷に居らんと欲するなり。ただし、『後漢書』が何を根拠にこれらの九夷を挙げたのかは不明である。(注7)
そして、『翰苑』の倭国の項である。『翰苑』122頁より: 漢書地理志に曰く、扶余の楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為る。歳時を以って献見す。後漢書、光武の中元二年に、倭国貢を奉じて朝貢す。光武賜うに印綬を以てす。
『論語』にはなかった夷と東の結びつきは、楽浪郡が存在していた前漢時代に倭人が朝貢することを待たなければ不可能であっただろう、このことが『翰苑』でも示されているのではないだろうか。つまり、『論語』の「九夷」の「夷」が東であるという意識は、漢の時代以降の意識、認識を過去に投影していただけではないだろうかと考察できよう。
『翰苑』も明らかに後代の知見を過去に持ち込み、『論語』の真実、孔子の時代認識の真実、これらを歪め、その誤った解釈を拡大再生産する役割を担っていたとことになる。
(注1) 東京古田会HP ブログ國枝浩 「外祖父システムを確立した藤原不比等」)
(注2) 古田武彦 『邪馬一国の道標』の第四章(十一)
(注3) 東京古田会ニュースNo.222
(注4) 安本美点 『倭の五王の謎』 22頁
(注5) 東京古田会ニュースNo.228
(注6) 東京古田会ニュースNo.226
(注7) この九夷の典拠の探求は、今後の私の課題とする。
