『隋書』倭国伝への一考察(中) ― 「対等外交」否定の論理1 ―
第二節 「対等外交」についての現在の研究動向
はじめに
教科書からなぜ「対等外交」が消えつつあるのかを追跡する私のテーマにふさわしい研究がある。この話題において中心的役割を担うのが河上麻由子氏である。氏が中心になるのは、「対等外交」についての現行の教科書の在り方に批判的な見方をしている点にあるが、その根拠として倭国遣隋使の仏教的性格などを最も精力的、かつ詳細に議論していることにある。また、河上氏の問題提起に注目しつつ、独自の議論を展開している二人の研究がある。一人は河内春人氏、もう一人は大津透氏によるものである。(注1)。
ところで、既に拙稿「倭国の遣使先とその遣使姿勢」(注2)でも述べたように、倭国は九州にあり、『隋書』倭国伝で隋に遣使を送った倭国王の多利思比孤は九州にいたというのが私の立場である。しかし、私のこれから検討する三人の研究は、遣隋使を派遣したのが近畿ヤマト王権(後の大和朝廷)であるという立場であるため、この問題での食い違いが出発点から異なっている。そこで、この根本的な違いをここでは度外視して、仮に遣隋使派遣の主体がどこを本拠とし、その王が誰であったとしても、前三者の説が成り立たないことを述べてみたい。基本的には河上氏の議論を追いながら進めていく。
(注1)河上麻由子『古代アジア世界の対外交渉と仏教』 山川出版社 2011 こちらを旧著とも呼ぶ。
河上 『古代日中関係史』 中央公論社 2019 こちらを新著とも呼ぶ
河内春人「遣隋使の「致書」国書と仏教 『遣隋使が見た風景』氣賀澤保規編八木書店
2012
大津透『律令国家と隋唐文明』 岩波新書 2020
(注2)東京古田会ニュースNo.222号
1. 倭国伝 煬帝の「不悦」「無礼」の根拠
『隋書』倭国伝を再録する(①、②は國枝の付したものである)
大業三年 其王多利思比孤遣使朝貢 使者曰 ①海西菩薩天子重興仏法 故遣朝拝
兼沙問数十人来学仏法 ②其国書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云々 帝覧之
不悦 謂鴻臚卿曰 蛮夷書有無礼者 勿復以聞 明年 上遣文林郎裴清使於倭国
原文から見て、煬帝は何に対して「不悦」で、「無礼」だと怒ったのかを考えてみよう。①の使者の言か、それとも②の国書か。
この文自体からは、明らかに①の「海西菩薩天子重興仏法 故遣朝拝 兼沙問数十人来学仏法」に不快感が持たれたわけではない。「帝覧之不悦」の直前には②の「其国書曰 日出處天子致書日没處天子」とあり、「其国書」の内容に対して「不悦」という感情が表現され、「無礼」だと判断されたことは明らかであろう。その原因は明らかに「日出處天子致書日没處天子」に、簡単に言えば「天子対天子」にある。
ところが、河上氏は「菩薩天子」のほうにより注目している。氏にとっての重点は「菩薩」天子であり、「菩薩」が仏教用語であることに依拠し、菩薩「天子」の天子に菩薩の仏教性が浸透していき、さらにそれが「天子対天子」の「天子」にまで及ぶと解釈していく。新著第二章のほぼ全体がこの議論にあてられている(注3)。
そして、たとえ「天子」が倭国によって仏教的な意味で使われていたとしても、煬帝が不快感を示すのだが、その理由は仏教後進国の倭国の王が天子を自称するのは「不遜」だということに求めている(注4)。これによると、単に煬帝が偏狭な精神の持ち主であって真の仏教者ではなかったということを語っているに過ぎない。
いずれにしても『隋書』倭国伝の天子は仏教的か否かが議論の中心になる。同時に河内春人氏が河上氏による天子の仏教性の指摘に高評価を与えつつ、河上氏の議論を踏まえて、さらに遣隋使が持つ仏教的性格を補強しようとしている(注5)。
しかし、河内春人氏は肝心の煬帝の「不悦」「無礼」の感情については触れながら、その原因については論じていない。倭国の天子を仏教的な天子と解釈することから、複数天子(四天子)の存在を許容せざるを得ないために、煬帝の怒りについては論じられなくなってしまったのではないだろうか。「天子が隋と倭国に二人いることを容認する」とも述べる。仏教の天子はそれぞれが「対等・平等」だからである。(注6)。もし、河内氏が「不快」「無礼」の理由を述べたとすれば、河上氏のように仏教後進国の倭国の王が天子を自称するのは「不遜」だということに落ち着くのであろうか。
本稿は以下、『隋書』倭国伝の「天子対天子」が仏教的意味で使われたのではないことなどを示しながら河上氏らの諸議論を検討していくことになる。
(注3)河上新著 50頁~103頁 (注4)新著2019 89頁~90頁
(注5)河内春人 226頁以下 (注6)河内春人 23~234頁
2. 「対等外交」を載せる教科書を批判する動機
河上氏は言う。太平洋戦争中は戦意発揚のため、隋との「対等関係」が強調されていたが、「現在では、高校の歴史教科書からは、遣隋使が中国との対等を主張したという説は姿を消した。ところが、記述はずいぶんとあっさりしたものの、義務教育の教科書ではいまだに違う意思から対等の立場での日中交渉が開始されたとの表現が残るものがある。(注7)」
氏は「遣隋使の対等外交」に対して、明らかに否定的な立場であり、「義務教育の教科書にいまだ残っている現状」に不満げな様子を表明している。河上氏の論考は、私の遣隋使「対等外交」説の成否を占う上で、格好の検証素材となるであろう。したがって特に、氏による新著の第二章「遣隋使の派遣―――「菩薩天子」への朝貢」(49頁~103頁)がまず検討の対象になる。
ところで、本題に入る前に河上氏には対等外交問題での教科書の記述に関して大きな誤認があることを指摘しておきたい。確かに戦前は戦意発揚のために「対等」が誇大に強調されていたようである(注8)。しかし、戦後においても「対等外交」は多くの教科書に記載されていた。この点は私の調べた限りでの教科書の記述状況からも確認できる(注9)。むしろ先にも述べたように、ごく最近になって「対等外交」が拒否される傾向が強まっていると言える状況であろう。その代表的で象徴的な記述が山川出版社の『詳説日本史研究』における「対等の外交をめざしたと考えるのは問題がある」という表現に見られる。
また、そのような誤認が生じた原因は、遣隋使の「対等外交」を認めることが、何か戦意発揚や好戦性に結びつけられるかのような書きぶりからみても、氏の「平和主義的な」関心を過去に投影しているように見受けられる。古代の歴史を史資料に即して冷静に、客観的に見つめ必要があろう。現代的な、あるいは個人的な関心を過去に投影し、古代史像を歪める危険性を感じさせるものである。
(注7)河上新著、はじめにⅲ頁
(注8)教科書図書館のネットから戦前の教科書が閲覧可能
(注9)東京古田会ニュースNo.223号の拙稿
3.河上説における天子の二義性
「菩薩天子」は四字で仏教用語なのだろうか。あるいは、「菩薩」も「天子」もそれぞれが仏教用語だといえるだろうか。河上氏はそのいずれかであるように理解している。菩薩は確かに仏教用語である。また、文帝も煬帝も菩薩戒を受けていた(注⒑)。『弁正論』巻三開皇五(五八五)年条では、隋の初代皇帝の文帝が菩薩戒を受け、さらに煬帝は『中国歴史誇示網』開皇十一(五九一)年に同じく菩薩戒を受けたことが記されている。その意味で確かに二人とも、心からの仏教者であったか否かは別にして、「仏教者」たろうとしていた。河上氏は「天子」に二種類あるとする。一つが「菩薩天子」の仏教的な天子。そこから氏は「天子対天子」の天子も仏教的な天使だと考えることになる。そしてもう一つが「中華思想による天子」(注⒒)。
すると、「菩薩天子」は、氏のように「菩薩」が「天子」にも浸透していき」「菩薩戒を受けた仏教的天子」と理解することもできるかもしれない。しかし他方で、「菩薩戒を受けた皇帝=天子」と読むことも可能であろう。私はそのように読めると考えている。司馬遷の『史記』においては夏・殷・周以来の諸国王のうち「武勇で突出し、また徳を体現する」国王を天子と呼び続けていた。さらに、前漢以降は、歴代の皇帝が「天子」と呼ばれている。また、例えば『礼記』は前漢の文帝の時代(在位BC一八〇~一五七)に書かれたと言われているが、その「王制篇」などは河上氏の言う「中華思想」における「天子」であふれている。もちろん仏教伝来以前の時代の書である。その歴史的な重みは重要である。
以下で、河上氏の立論が成り立たないことを示しながら述べていく。その端緒として一つの問題点を指摘しておく。氏によると、隋の文帝が仏教に傾倒していく過程で舎利塔建立事業を六〇一年に行う。その際の文帝の懺悔文が「菩薩戒仏弟子皇帝」から始まると語られている(注⒓)。そして氏は何度となく「菩薩戒仏弟子皇帝」という語を繰り返して使っている。
しかも、次のような表現さえ見られる。文帝は「重ねて仏法を興」した「菩薩戒仏弟子皇帝」としての立場であった、と。これこそ『隋書』倭国伝の「海西菩薩天子重興仏法」における、皇帝と天子の置き換えが可能であることを意味している。(注⒔)
これは、まさしく「菩薩皇帝=菩薩天子」であり、「皇帝=天子」を意味することを自ら認めていることになるだろう。氏は、ここでの「皇帝」が仏教的に解釈できるとでも主張するのであろうか。倭国の国書の「菩薩天子」の意味は明らかに「菩薩であられる皇帝(=中華思想の天子)」と言えるのではないだろうか。すでにこの時点で氏の立論は成り立っていないのではないであろうか。
なお、本稿では氏の「中華思想における天子」のことを「政治的天子」と位置付け、この用語を使うことがある。
(注⒑)河上氏も文帝、煬帝がともに菩薩戒を受けたことを認めている。新著88頁
(注⒒)新著87頁 (注⒓)新著83~84頁 (注⒔)同右
4.開皇二十(六〇〇)年の遣隋使問題 および新著と旧著との齟齬
推古朝が遣隋使を派遣したことは『日本書紀』に存在しない。だから本居宣長をはじめ、かなり多くの研究者は六〇〇年の遣隋使は無かったと考えてきた。
ところが最近は、この六〇〇年の遣隋使に注目が集まっている。つまり六〇〇年の推古朝による遣隋使は推古期に記述されていなくても史実であり、この遣使により隋の様々な先進性に衝撃を受けた遣使団の報告により、自国の立ち遅れ、隋との落差を痛感して国内体制の強化へと動き出す刺激となり、それが「冠位十二階」(六〇三年)、「十七条憲法」(六〇五年)などに結びつくその契機になったとするのである。この案を採用する教科書類、学説は多くなっている。例えば、先に紹介した吉川弘文館 『大学で学ぶ日本の歴史』、『ここまで変わった日本史教科書』ともに六〇〇年の遣隋使で倭国は自国の後進性を自覚したとある。教科書の変化と照応したものである。河上氏もこの点で同様の考えを示している。(注⒕)。
そして、開皇二十(六〇〇)年の遣隋使でもやはり、河上氏の関心の中心は仏教にある。つまり、六〇七年の遣使では仏教に力点が置かれていたにもかかわらず、倭国の使者は六〇〇年の遣使では「仏教については触れていない」という意味で、仏教に対する関心が軸になっている。
六〇〇年時点で仏教色が見られないのは何故か、という問いを河上氏は発する。氏は、北周の仏教弾圧が行なわれたため、隋でもそれが継続している可能性を懸念し、倭国が隋に対して仏教を前面に押し出せなかったという趣旨のことを述べている。だから、六〇七年の遣隋使とは対照的に「六〇〇年の第一回遣隋使では仏教色は希薄である」と言う(注⒖)。しかし、もしそれが正しい見解だとすると、この見解には次のような問題点がある。
氏は隋における仏教熱が他国に認知され始めたのは舎利塔建立六〇一年であったとする(注⒗)。しかし、先に示したように、親子二代の皇帝が「菩薩戒」を受けた年代を見ると、文帝が五八五年、煬帝が五九一年であった。二人の皇帝の受戒の年代については河上氏自身も旧著で述べている(注⒘)。すでに隋では仏教への傾斜が予測できる。したがって、倭国が六〇〇年の時点で仏教色を前面に出すことを憚る理由にはならないであろう。六〇〇年は、文帝菩薩の誕生から十五年、煬帝菩薩誕生からも十年近くも経っている。この意味で氏による開皇二十年の「仏教色希薄」説は成立しない。
しかも、もし氏が言うように倭国が隋の仏教への傾斜を知らなかったとすれば、倭国が隋中国の情報収集をいかに怠っていたかという、その政治的怠慢あるいは鈍感さに驚かされることになる。中国の政治状況を常に注視し、機敏に遣使関係を結んできた卑弥呼、倭の五王らと比べるとなんという体たらくと言うほかはない。
さらに、氏の新著と旧著との間には明らかな相違がある。ここで見てきたように、新著では開皇二十年の倭国伝では「仏教色は希薄である」とされ、大業三年と対照的に扱われていた。ところが旧著では開皇二十年も「仏教色が濃い」と述べている(注⒙)。氏にも迷いがあるのだろう。旧説を撤回したこと、そしてその理由を述べる誠実さが求められる。
(注⒕)新著74頁 (注⒖)新著71頁 (注⒗)新著71~72頁
(注⒘)旧著115頁 (注⒙)旧著127~128頁
5.菩薩天子は文帝か、煬帝か
少し横道にそれるが、河上氏によると倭国伝の菩薩天子は文帝であったとされている(注⒚)。また河内春人氏などもこの説を支持している(注⒚)。しかし、この遣使は煬帝へのものだったのではないか。
というのも、煬帝は既に開皇十一(591)年に菩薩戒を受けていた。目の前の菩薩天子煬帝を差し置いて、父親とはいえ亡くなった人物を菩薩天子と想定する解釈には如何ともしがたい不自然さを感じる。もとより、倭国の遣使者から文帝菩薩の名が持ち出されるわけもないであろう。
また付け加えるならば、煬帝は父の文帝と良好な関係であったわけでもない可能性がある。大津透氏も指摘しているが、煬帝は父の文帝を弑害した可能性すらある(注⒛)。思い出したくもない出来事であっただろう。煬帝が不快になるとすれば、倭国遣使者が文帝を話題とすることが原因となろう。不可思議な解釈に一言、触れたまでである。
(注⒙)新著87~88頁 (注⒚)河内春人231頁。 (注⒛)大津9頁
6. 南北朝による仏教受容とその政治的意味
旧著の第三章「隋代仏教の系譜」は、南北朝がいかに仏教を重視していたかを述べている。しかし、その際の南北各王朝の受容の意図がいかに各王朝の政治的意図と切り離すことが不可能かということに他ならなかった。氏が述べる南北両朝における仏教化への道は決して純粋な意味での宗教としての仏教への帰依ではないのである。
まず隋の文帝、煬帝が菩薩戒を受ける前の状況について、氏の言うところを要点だけ挙げてみよう。四角枠に注目してほしい。
①北魏では仏教は早くから皇帝権力と結びついていた。
②南朝は仏教の先進地であったが仏教を政治権力に取り込むことはしなかった。
③北朝は、爆発的に流行する仏教を政権に取り込んでいた。以上、旧著108頁
④南朝梁の武帝が、個人的信仰のレベルでなく、国家の政策のレベルで受菩薩戒皇帝になった。旧著104頁
⑤梁の武帝が受戒して以降、陳、東魏、北斉の皇帝たちが菩薩戒を受けるようにな
る。旧著112頁
以上は私の作文ではない。河上氏自身が述べたことの要点を書き出したものである。このような政治的意味で仏教を取り込む流れの中で、いよいよ隋文帝の受菩薩戒の順番になる。ここでは河上氏が述べたことをそのまま引用する。
⑥「南北朝の統一を視野に入れる隋にとって、江南にも隋の支配を支持する基盤が
必要であったことはいうまでもない。陳よりも、既に滅んだ梁を未だ支持する民衆
こそは、その後継者であった後梁を介し、陳に代わる隋の支配を支持する基盤とな
りうる。文帝はそのように期待し、江南攻略を見据えて菩薩戒を受けたのではある
まいか。」そして煬帝も同じ動機で菩薩戒を受けたと述べられていく。旧著116頁
大津氏は河上氏による遣隋使の仏教性を紹介しながらも、倭国の名乗った「天子」は中華思想のものであるという立場で穏やかに河上説を否定している(注21)。
梁皇帝武帝以降の受菩薩戒からわかることは、大衆の仏教熱をいかに政治的に取り込むかが焦眉の課題であったことである。したがって、菩薩天子がいかに政治的意味を持っていたかが明らかではないだろうか。繰り返すことになるが、菩薩天子の天子は皇帝と同義であり、「菩薩天子」は「菩薩皇帝」の意味になる。そこで河上氏も度々、「菩薩天子」と同義で「菩薩戒仏弟子皇帝」と記していたのである。
(注21)大津10頁
(下)につづく