前方後円墳とヤマト朝廷の支配 — 偶然の奥州市 —

古代史コラム No.5  

奥州市について私は二つの点で注目している。一つは大谷翔平の出身地として。もう一つは古代史の舞台として。ここで語るのは後者の方である。

今年八月の東京古田会の研究発表:「対等外交は教科書から消えるのか」などでも述べてきたことだが、「文化の伝承は必ずしも政治的支配とは対応しない」という問題に関わる。

例えば、中国の南北朝が仏教を取り入れるに先立って、すでに仏教に対する民衆の熱狂的受容が先立っていた。これは「私伝」と名付けられる。また、ローマ帝国皇帝のコンスタンティヌスがキリスト教をいわば国教としたのも同様のいきさつがある。王権による政治的意図を持った受容が「公伝」呼ばれている。そして権力者は公伝を自分達の「重要な手柄」として歴史書に残し、私伝には触れないことが一般的である。そのようなことを考えていると、漠然とした像が次第に鮮明になってきた。次の二つの事柄が結び付いたのだ。

一つ。『日本後紀』によると、坂上田

村麻呂による蝦夷征討劇は胆沢城で一応の完結をみる。

胆沢城は現奥州市にあった。岩手県奥州市水沢佐倉河渋田。

二つ。現在までに発見された中で日本最北端の前方後円墳は角塚古墳という。その所在地は岩手県奥州市胆沢南都田塚田角塚公園前。

ともに奥州市。以上の二つを突き合せたとき、ヤマト王権の政治支配の広がりと前方後円墳の築造とは関連があるのだろうか(注1)。

第一項  ヤマト朝廷の支配領域

まず、『日本書紀』よりも信頼するに足ると思われる次の史資料を確認したい。

(1) 『続日本紀』の元明紀によれば、和銅二年(709年)に佐伯宿禰石湯が征越後蝦夷将軍に任命されている。ちなみに文武2年(698年)には石船柵(イワフネの柵、現新潟県村上市と推定されている)の改修工事が行われている。文武・元明時代には対蝦夷戦の最前線は越後・新潟県であった(注2)。

(2) 多賀城碑によると大野朝臣東人による多賀城築造が724年とされている。多賀城の現住所は宮城県多賀城市。

(3) 『日本後記』の征夷大将軍坂上田村麻呂により、胆沢の人である阿弖流為、母禮が捕獲されることにより終結する蝦夷征討劇の最終到達点は胆沢城あたりであったと推測される。桓武延暦二十一年(802年)のこと。当然、この時代のヤマト朝廷の政治支配が及ぶ北限はこの胆沢城の周辺までであったことになる。胆沢城のあった場所は現在の岩手県奥州市。

ヤマト王権の支配域の広まりを示すものが蝦夷征討の領域に表現されているとすると、明らかに『日本書紀』の斉明五年(658年)の「伊吉博徳書」の次の「唐への遣使記事」は造作されたものであろう。

唐の皇帝天子からの質問に対する遣使者の回答である。

「蝦夷の国の方角は国の東北にある」、「蝦夷の種類は都加留(津輕)、麁蝦夷(あらえみし)、熟蝦夷(にぎえみし)」、「毎年朝廷に入貢している」、など。

これらが、上記(1)(2)(3)と対応しないことは明らかである。都合の良いことは時期を繰り上げ、より盛大に記すのが『書紀』の手法であろう。話を盛る代表例がここに見られる(注3)。

第二項  東北地方の前方後円墳

東北には坂上田村麻呂、大野朝臣東人の東北侵攻(注4)に先立つ前方後円墳がある。『続日本紀』『日本後記』の記述と比べてみよう。

(1) 津野塚古墳:最北にある前方後円墳。現住所は、岩手県奥州市胆沢南都田塚田津野塚公園前。築造は5世紀後半~6世紀初頭  

(2) 雷神山古墳:宮城県名取市植松字山(仙台市の南) 墳丘長168m、高さ12m、4世紀末~5世紀前半

(3) 遠見塚古墳:宮城県仙台市若林区遠見塚 墳丘長110m、高さ6.5m、4世紀末~5世紀前半

(4) 稲荷森古墳:山形県南陽市長岡 墳丘長96m、高さ9.6m 4世紀末

帰結的推理  

前方後円墳はヤマト朝廷の支配とは無関係

『日本書紀』を前提にして考えると、崇神紀におけるオオヒコの会津地名譚、景行紀のヤマトタケル伝承、斉明紀の蝦夷記事などによりヤマトの王権は東北支配を早期に達成したというのも否定できないかもしれない。蝦夷研究の大家たちはこの路線を突き進んできて、元明紀の征越後蝦夷将軍の存在などは顧みられることはなかった。

しかし、一般にヤマト王権の支配のモニュメントされる前方後円墳が、第一項と第二項で示されたように、東北各地にはヤマト王権の支配領域に編入される以前に、前方後円墳が存在していたのである。

ここから導き出される本コラムの結論は既に明らかであろう。前方後円墳の広まりはヤマト王権の支配の広まりとは無関係だということである。また前方後円墳はヤマト朝廷のオリジナル版であるか否かについても改めて検討されなければいけないことになる。

そしてこれが私にとっての新しい研究課題にもなるのだが、第二項の(1)~(4)の古墳がヤマトの王権によるものではないとすれば、それらの「築造主体は誰であったのか」という問題である。

(注1)文武天皇の大宝律令の制定以降を私はヤマト朝廷と呼び、それ以前をヤマト王権と呼んで区別している。『日本書紀』にのみ描かれている政治的権力実体、支配領域について明瞭な像が描けないためである。したがって「古墳時代」のヤマトの勢力を私は「ヤマト(の)王権」呼ぶ。

(注2)ちなみに、多賀城市は村上市のほぼ真東にある。709年時点までは日本海側の進行が早かったのではないだろうか。

(注3) 以上の詳細は、東京古田会ニュース214号の拙稿:「斉明紀に見える『日本書紀』の虚偽 –-― 蝦夷征討記事について」で述べている。

(注4) 田村麻呂らの東北遠征は単に進行・進軍したのではない。侵攻・侵略したのである。『続日本紀』は度々、以下のように蝦夷征討の目的を述べている。

元正霊亀2年(716年)巨勢朝臣麻麻呂の言上の中に、出羽国は「土地がよく肥ええて田野は広く余地がある」とある。

また、称徳神護景雲3年(769年)陸奥の桃生・伊治の二城が造営された時の勅に「その土地は肥えており、実りは豊か」とあり侵攻の意図の一端が表明されている。

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