『隋書』倭国伝への一考察(下) ― 「対等外交」否定の論理2 ―
7 「不悦」「無礼」についての解釈—-「対等外交」の意味
(1)仏教的「対等」について
「天子対天子」の天子が仏教的な意味だとすれば、菩薩天子という仏教者である煬帝は倭の国書を不快に感じることも、無礼だと怒ることもなかったのではないだろうか。河上麻由子氏は天子を仏教的な意味に引き付けようとしてさらに語る。「五九七年に文帝に献上された「歴代三法紀」という書物では、この『金光明経』に依拠して文帝を「天子」としてたたえている。」(注1)
まず、仏教精神は基本的に、「生きとし生けるもの」すべての平等を説く教えである。しかも、『金光明経』を含む大乗仏教は小乗仏教とくらべてより平等思想を説いている。この思想に立脚する場合、煬帝が真の仏教徒であるならば「仏教的天子対仏教的天子」の「対等外交」に立腹することはない。「対等・平等大いに結構」となるだろう。「新参者のくせに」などの差別意識は真の仏教者とは無縁である。したがって、氏の関心はもう少し煬帝の「不快感」「怒り」に振り向ける、あるいは「不快感」「怒り」を出発点に据える必要があったのではないだろうか。「不悦」「無礼」に対する考察が希薄と思われる。
(2)「対等外交」路線に隋の承認は不要
氏とは逆に、「不快」「無礼」に焦点を当ててみると、「政治的な意味での対等」に対して煬帝が立腹した、ここに原因があったと考えざるを得なくなる。天子とは、まさしく「中華思想による天子」、「政治的な天子」のことだったというように。
氏による不可思議な記述がある。「中華思想では、天子は複数存在しえない。よって書状の天子を中華思想で理解することは原則的には不可能である。倭王と隋皇帝を天子と呼んでいるからである。(注2)」これが、多利思比孤の書における「対等」が不可能という理由になるのだろうか。
「原則的に不可能」というのは「中華思想」からくる隋皇帝の煬帝の政治的な立場から発するものであり、また倭国に対する「臣従国として取るべき態度」への期待に過ぎない。その期待に反して、つまり「中華思想」からすればあり得ない「天子」を倭王が自認し主張した、そこに倭国による「対等外交」の持つ歴史上特筆すべき意味があったのである。この点で明らかに倭の五王までは無かった態度であった。つまり倭国がとった政治姿勢における転換点という意味があったのである。そして、それが原因で煬帝が怒ることになったと解釈でき、さらにこの対等外交路線の政治姿勢が将来の白村江戦への伏線になっているのではないであろうか。後の11でも述べるが、裴世清が倭国に派遣されたのも、隋が「政治的対等路線」の危険性を察知したからだと考えられる。
(3)倭国による政治的決意としての「対等外交」
さらに、『隋書』倭国伝の「対等外交」の問題は、隋と倭国とが客観的にみて、あるいは事
実として「対等」であったのか否かという問題でもない。ところが河上氏は、隋と倭国とで
は版図や兵力において圧倒的な差があり、倭国が隋と対等であることはできないという
議論に向かっていく(注4)。しかし、ここでの問題は倭国伝に書かれた倭国王、多利思比
孤の発言内容である。隋側の認識が記述されているわけではない。「天子対天子」を主張
したのは倭国王の多利思比孤であり、いわば彼の政治的決意と願望が問題なのであり、
「主観的」なものであってもあっても構わないのである。
しかし、河上氏は「客観性」に活路を見出そうとしている。では尋ねたい。高句麗は隋と
戦った。なぜか、と。氏の挙げる資料によると、出兵数も支配領域、版図も隋が高句麗を
圧倒している(注5)。客観的には高句麗は「対等以下」である。それでも高句麗は隋と四
度も戦い隋の侵攻を防ぎ、これが隋滅亡の一因にさえなった。客観的な国力の差、版図の
差だけで説明はできないという格好の史料である。隋の高句麗遠征の第一回目は隋文帝
の五九八年になされており、隋にとっての敗北に終わっている。倭国はこの結果を踏まえ
て隋に対する態度を模索し、また決断したと推測できないであろうか。
客観的な国力の差からだけ見れば、倭国は「対等」を自認することはできなかったであ
ろう。また、唐の時代に白村江戦に突き進むこともできなかったであろう。白村江に倭国
が参戦したのは、一般には百濟の再興にあったと言われているが、倭国そして再興を目指
す百済の残党勢力を合わせたとしても、いかんともしがたい国力の差、兵力の差は埋まら
なかったであろう。それにもかかわらず倭国は「対等」、いや「対等以上」の姿勢を示す戦
争にまで突入していったのである。戦うのか、対等の道を選ぶのか、臣従、服従し朝貢する
のか、冊封体制下に甘んじるのか、これらの判断は版図や兵力だけからでは説明できない
であろう。
大津氏も倭国が隋と対等にはなりえないとしつつ、朝貢外交の一環であったと述べる
(注6)。倭国と隋とが客観的事実の問題として「対等」であったか否か、隋が「対等」を承認するかしないかということで「対等外交」は論じることはできないのではないだろうか。
また、付言するが、倭国の白村江に向かった動機は百済再興にとどまらず、倭国独自
の野望もあった可能性がある。すでに挙げた拙稿「倭国の遣使先とその遣使姿勢(注7)」
でも述べたように、多利思比孤にとっては「倭国対隋」は「東夷対北狄」という点で「対等」
の立場であったからである。河上氏が「対等外交」の政治的意味を否定する論拠は、多利
思比孤の政治的決断が当時の歴史的事実と合致していない、また隋が倭国との対等性を
承認していないということに求めている。多利思比孤の「天子対天子」が持つ意味の本質
を見失っていないだろうか。
(注1)河上新著89頁 (注2)新著89~90頁 (注3)新著89頁
(注4)新著93頁~96頁 (注5)新著94頁~95頁 (注6)大津10頁
(注7)東京古田会ニュース222号
8.「国書」ではなく「私書」なのか 再び新著と旧著との齟齬(そのⅡ)
氏によって『隋書』倭国伝に対する、あからさまな操作がなされている。あるいは、氏に
よって明言されていないのだから隠された操作がなされたと言ってもよいかもしれない。
氏は原文を記載していない。『隋書』の原文と氏の訳文とを見比べてみよう。(注8)
原文:「其国書 日出處天子致書日没處天子 無恙云云」
氏の読み下し文:「その国の書状には、「日出ずる処の天子より、日没する処の天子に書
を致します。つつがなくおすごしでしょうか云々」
原文を読まない読者にとっては、「国書」と読む可能性は閉ざされてしまう。史料につい
て公正な扱いではない。つまり原文の「其国書」を氏の新著では「その国の書状」と訳出し
ているが、この訳にはすでに一種の氏の「解釈」が含まれている。おそらく「国書」と読む研
究のほうが一般的であろう。また、氏自身も迷っているのであろうか。旧著では河上氏自
身が「国書」と記している(注9)。旧著から変更があったのならその点を自身で述べる必
要があるだろう(注⒑)。
河上氏は新著では一般的な読み方を捨てて、独自の訳出をしたことについては一言も
触れていない。原典では「其国書」となっているので「その国の書」とも読めるが、「その国
書」と読み下すことができるであろう。氏の訳出では「その国の書状」にされて、「国書」ではないという根拠にされている。そして、氏のその後の議論では「国書」ではなく「書状」で押し通されていく。さらに、「天子対天子」の書は「私信」、「私書」の可能性があるという帰
結を導き出すことから、さらにその「私的な書状」の他に「公的な書状(国書)」があったのではないかという推測までなされることになる(注⒒)。そしてここから『隋書』には記載されなかった「国書」には「対等」ではなく「臣従」の意向が記されていたのではないかとまで推理が進む(注⒓)。大胆な推理の連続である。
確かに、推理・推測することは必要であろう。史資料が不足していることが多い古代史では特にそうである。しかし、もし推理・推測をせざるを得ないのならば、まず存在するものを直視してから無いものを推理することを願いたいものである。
氏は、臣従国から「表(国書のこと)」と「書(私書のこと)」の二通の書を提出した外交記事について三例紹介して、倭国の書も「表(国書)」と「書(私書)」の二通あった可能性を論じている(注⒔)。しかし、氏の挙げた三例は実際に二通の書簡があった例を挙げたに過ぎない。「表」「書」の内容も伝わっていないとも述べる。不確かな情報である。もちろん、このことをもって倭国の書が二通あったことが確定するわけでもないであろう。
ところで、存在しなかった「公的な書状(国書)」があったとしての仮定の話だが、その中身について、その「公的な書状」が「臣従」を表明していたと想定するのは一方的な解釈、片手落ちと言うほかない。まず、『隋書』が「国書」より「私書」を優先する意味が分からない。しかも「国書」が「臣従」を表明していたとすれば『隋書』倭国伝はそれを隠す必要がないだけでなく、それをもって誇ることさえできたであろう。「天子対天子」の私書を隠して隋への臣従を記した「国書」が『隋書』に記述されるはずであっただろう。
さらに、その反対も考えなければならないのではないか。隠された「公的な書」でも政治的な「対等」を主張していた、あるいは「私書」以上に強く「対等」の表明がなされていたとさえ想定できるだろう。「北狄と東夷は対等だ」など。もしそうであるならば、その時こそ中国としては『隋書』にその言葉を明記することはできなかった可能性がある。隠す必要性はこの場合にはあるだろう。とはいえ、なかったものを想定して議論してもこの場合には虚しいのではないだろうか。
また別の見方もある。仮に、氏が言うように、多利思比孤の「天子対天子」の「国書」が実は「私信・私書」だったと仮定してみよう。その「私書」を書いたのはだれか。このとき派遣された使者ではなく、国王の多利思比孤である。国王が仮に政治的な内容の「私信・私書」を送ったとしたら、それは「国書」と同等の価値や重みをもつことになるのではないか。「宴を開こう」、「ゴルフをしよう」というレベルの話ではない。国王の「私信」「私書」は「国書」と同等と言えるであろう。
ちなみに、河上氏の仏教性に注目する河内春人氏だけでなく、大津透氏も国書と認定をしている(注⒕)(注⒖)。ぜひ、三人で研究会を開催してもらいたいと願う次第である。これ以降、私は多利思比孤の書は国書だとして話を進める。
(注8)新著76頁 (注9)旧著141頁「国書」とカギカッコをつけた意味は「私書」に切り替える準備か。説明はない。
(注⒑)一般に研究の進展による見解の変更は起こりうることであろう。また、考古資料などのあっくつにより、見解変更を余儀なくさせられることも起こりうる。ただし、変更の場合には、そろいきさつを述べてしかるべきであろう。
(注⒒)新著80頁 (注⒓)新著81頁 (注⒔)新著80~81頁
(注⒕)河内春人 「遣隋使の「致書」国書と仏教」 『遣隋使が見た風景』氣賀澤保規編 八木書店。河内氏の論考のタイトルがすでに「国書」 になっている。本文の中でも「私書」扱いはされていない。 (注⒖)大津9頁など
9.「国書」ではない形式、よって「私書」という論法
ここは簡潔に済ませたい。氏は次の見解に反論を試みている。倭国からの書状における「書を致す」という表現は、『隋書』突厥伝の可汗(国王)が「辰の年(584年)九月十日」で始まる書と類似している。そしてこの書状が対等の立場で書かれているので、倭国の書も対等を示すというものである(注⒗)。
河上氏はこれに反論して次のように言う。倭国の書には、突厥伝には記されていた発信者と発信者の国名・君主号が記されない。倭国の書は「型破りであった」ので、突厥の書と同類に扱うことはできない、としている(注⒘)。
しかし、倭国伝の記載自体は先の「8」の倭国伝からの引用における「云云」からも分かる通り、簡略形で書かれている。国王名の多利思比孤はすでにその前で紹介は終えている。これらを考えあわせれば、書式がすべて突厥伝と一致することは期待できないであろう。
(注⒗)新著78~79頁 (注⒘)新著79頁
⒑.匈奴の国書との類似性
書状の類似性ということで言えば、多利思比孤の書は前漢時代の匈奴の単于(匈奴の国王)のものにも似ているといえる。多利思比孤はこれを参照した可能性もある。前漢の孝文四(前一七八)年の冒頓単于から孝文帝にあてた国書である。「天の立てるところの匈奴の大単于はつつしんで問う。皇帝恙なきか。」また、年は不明だが同じく孝文帝に対する冒頓単于の国書である(注⒙)。「天地の生めるところ、日月の置けるところの匈奴大単于、つつしんで漢皇帝に問う。恙なきか。」
「恙なきか」が多利思比孤の国書と同じであるが、冒頓単于の書からは「対等」以上の高邁さが伝わってくる。「天の立てるところ」「天地の生めるところ、日月の置けるところ」と世界の中心にいるのは漢ではなく我々だという宣言でもある。
匈奴は冒頓単于の時代に最強を誇っており、漢の高宗(劉邦)は冒頓単于との戦いの中で、一命を落とす危機に陥ったことさえあった。これは、「平城の憂」の名で知られている。単于からの書は「国書」であることを否定できないであろうし、むしろ孝文帝をより上から見下ろしてさえいるような書きぶりである。これに対する孝文帝の二つの書に対する返書がほぼ同じ書き出しになっている。「皇帝はつつしんでおたずねする。匈奴大単于恙なきか。(注⒚)」漢皇帝に好意的にみても「対等」以上に見ることはできない。
また、ここには「致書(書を致す)」という表現は存在しないので「問題になっている書とは違う」と反論されそうであるが、隋煬帝と前漢孝文帝の時代とでは約七〇〇年もの開きがある。書式が違っても単純に比べることはできないであろう。
「国書」を「私書」と考え、様々な書の中に仏教的な色合いを持つ史料を探し求める河上氏の作業(注⒛)は正しい方向に行きつくのだろうか。
(注⒙)(注⒚)『漢書』匈奴列伝。訳は、『騎馬民族史1』平凡社、内田吟風氏の18~25頁を参考にした。 (注⒛)特に、旧著特に227頁以降の「対隋外交と仏教」
⒒.中国が倭国に遣使者を派遣するとき
視点を変えて倭国から中国への遣使ではなく、中国から倭国への遣使についてである。倭国に遣使者が送られたのは都合、四回ある。次の四人の名が知られている。曹魏(魏)から梯雋、同じく張政、隋からは裴世清、唐から高表仁。これらはすべて、中国にとって何か不安・不穏なものが感じられたときになされたと考えられる。
魏の場合には、三国に分裂するという緊迫した状況の中、対立する呉の背後から倭国が呉ではなく魏と遣使関係を結んでくれたという喜び、また距離的に近い倭国と呉とが連携しないようにという懸念から梯雋を遣わし、友好関係を確認したのであろう。その友好関係を結び始めた卑弥呼の倭国が狗奴国との戦いで必ずしも優勢になれないという事態に対して、倭国を激励するという意味で張政が派遣された。単なる友好使節と言う意味ではなかったであろう。
さらに、六〇七年の遣隋使の後でなぜ六〇八年に隋から裴世清が派遣されたのか、また六三一年には唐から高表仁が派遣されたのか。これらについてはすでに別稿でも述べた(注21)ので簡潔に済ませるが、南朝系に対しては朝貢、臣従の姿勢であった倭国が、北朝の王権には遣使せず、さらに南北統一を果たした北朝系の隋・唐に対しては臣従姿勢をかなぐり捨てるという、隋・唐からすればあってはならない態度に出てきた。これを放置はできない、これが隋・唐が遣使者、裴世清・高表仁を送った原因ではなかったか。
逆から見ると、倭国が臣従姿勢を示し、倭国の統治状態が安定しているときには、中国からの遣使は一度も行われていない。そして、唐との国交は長いにもかかわらず、また粟田真人を遣唐大使とする遣使以降、日本からの遣唐使派遣は多かったにもかかわらず、一度も唐からは遣使者が送られていない。国交関係が安定的、平和的に結ばれていたからだろう。倭国が仏教的な意味で「対等」を主張したぐらいでは、裴世清は倭国に送られなかったであろう。
これらの点を鑑みると、裴世清や高表仁が倭国に派遣された理由は、多利思比孤が「天子対天子」の「対等外交」に踏み切り、さらにそれ以降の倭国の王がその姿勢を踏襲したためと解釈できるのではないだろうか。
(注21)拙稿「倭国の遣使先とその遣使姿勢」東京古田会ニュース222号
まとめ
本稿の最後は教科書類の問題と今後の教科書類の在り方について述べて、まとめとしたい。本稿(上)第一節の1.を参照のこと。東京古田会ニュース223号
(1)三氏の教科書に対する影響 推論に次ぐ推論
①河内春人氏は遣隋使の仏教的性格を強調しているが、それに対応して、河内氏が編著者に名を連ねる第一学習社の高校生用教科書は、やはり他の教科書類に比べて仏教との関連が主要な要素になっている。引用する。「607年に小野妹子を遣隋使として送り、留学生や僧侶を派遣して中国の文明を学ばせた。朝鮮半島からも僧侶が到来し、天文地理、紙の製法などさまざまな知識や技術がもたらされた。」
②大津透氏は倭国伝が仏教的性格もたないとしている一方で、同時に天子は中華的天子の意味も持っていないとする。倭国からの「遣隋使にせよ遣唐使にせよ、それは朝貢使であるので、対等な関係でないことは前提である」と述べている。対等ではなく朝貢であったとされていたが、編集責任者としての立場にいる山川出版社の高校生用教科書では「隋に服属しない立場であった」と書かれている。対等ではないが「服属しない」という関係は判然としない。だが、「対等」という用語を避けるための苦心の表現であろう。このような苦心の努力は「対等」を回避する用語法として多くの教科書に見かけるものでもある。これと大津氏の考え方とは合致している。また、教科書では仏教については触れられていない点で大津色が出ているのかもしれない。
③河上麻由子氏の旧著は山川出版社から出版されている。若いので教科書類の編著者に名を連ねていないのであろうか。いずれ教科書類の編著者になるのであろう。もし、河上氏が山川出版社の教科書の編著者に名を連ねることがあれば、山川出版社の高校の教科書類では遣隋使に関してはより仏教重視という観点が前面に出てくること、また対等外交が金輪際、記載されることないことが予想される。
(2)教科書類の現状について 推測に次ぐ推測
① どの教科書も、出版社ごとに異なる学説の中のどれか一つの説だけが記載される。
② 小・中・高で異なることもあるが、同じ出版社でも異なることがある。山川出版社の中学生用が「対等」、高校生用が「朝貢」「対等には問題がある」などがそれに当たる。
③ そして時代によって異なることも見て取れる。「対等外交」という記述が減少傾向にある。
④ 出版社は内容にそれほど口出ししないのであろう。編著者まかせということか。参画している研究者の学説が採用されているのではないだろうか。
⑤ そのことにより、一種、研究発表会の場のようになっている
(3)複数の見解を紹介し、アクティブラーニング方式を導入する
一つの結論が押し付けられる危険性がある。また使われた教科書によって、異なった知識を植え付けられる可能性がある。倭国からの遣隋使が「対等の」「自立した」「服属・臣属しない」「冊封体制内にはない」とする教科書、また「朝貢外交」「冊封体制内にある」「服属・臣属した」など内容も用語も異なる。対等・自立したにも臣属・冊封・朝貢関係にも触れないものもある。様々な混乱のもとではないだろうか。
河上氏に見られるように自説の変化、あるいは旧著と新著との齟齬という問題も起こりうる。それは河上氏に限られたことではないだろう。学問の性格上、一つの結論が正解だと決定しにくいところがある。何を史資料として利用するのかによっても変化は起こる学問でもある。考古的な新発見によっても変更を余儀なくされる。
現行のままで進んでいくと、編著者の世代が変わるごとに教科書の内容も大きく変わることになるだろう。「教科書は学者の研究発表の場ではない」ということは、少なくとも共通の確認とされなければいけないのではないか。
私が最も望みたいことは、複数の説がある場合にはそれを何らかの形で率直に記載し、生徒の研究課題とする。また、それに基づき集団討論を行う工夫なども期待したい。