『隋書』倭国伝への一考察(上) ― 「対等外交」 は教科書から消えるのか ―
『隋書』倭国伝、大業三年条の次の文章はあまりにも有名だ。
大業三年 其王多利思比孤遣使朝貢 使者曰 海西菩薩天子重興仏法 故遣朝拝
兼沙問数十人来学仏法 其国書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云々 帝覧之不悦
謂鴻臚卿曰 蛮夷書有無礼者 勿復以聞 明年 上遣文林郎裴清使於倭国
(本稿では以下、これを「対等外交の国書」、あるいは「天子対天子の書」と呼ぶ。)
私は『隋書』の多利思比(北)孤による「天子対天子の書」は「対等外交」の姿勢を表明したものと習い、またそれが正しい歴史だと考えてきた。(注1)そして現在も『隋書の倭国伝』の国書は「対等外交」の書であるという解釈は生きていると考えている。ところが近年、「対等外交」に対してそれを否定する、あるいは対等という言葉を使わずに「より消極的な」、あるいは「ぼかすような」言葉遣いが現れている。私はそのことに何気なく開いた高校の教科書から気づいた。「対等外交」の立場が危うくなっているのではないか。教科書を扱う書店に行き調べてみた。また、教科書の図書館があることを知り出かけた(注2)。
(注1)拙稿「倭国の遣使先と遣使姿勢」東京古田会ニュースNo.222を参照のこと。
この続編が本稿ともいえる。
(注2)正式名称は「(公益財団)教科書研究センター附属教科書図書館」という。
月曜・火曜・水曜の9時30分~16時30分開館。江東区千石一―九―二八、
TEL 03―5606―4314。戦前の教科書から最新の教科書まで。
本稿では過去の「対等外交の国書」に対する学校教科書類を通してその変化を確認し、次いで、教科書類の変化に影響を及ぼしていると見られる幾つかの研究論文を調べ、私なりの考察を加えてみたい。
第一節 資料:教科書類における『隋書』倭国伝
1. 教科書類の動向 以下、出版社名だけで書籍名が無いのが教科書である
〇小学生用
・1962(昭和37)年 東京書籍 中国に負けないように、進んだ文化を取り入れることに努めた
・発行年不明 中京出版 研究員用 対等な立場
・1982(昭和57)年 日本書籍 小6社会 隋と対等な立場で外交を進める
・2023(令和5)年 東京書籍 新しい社会6 24頁 隋との対等な関係を結ぼうとしたと考えられています
・2023(令和5)年最新資料 光文書院 社会科資料集6年 46頁 大国の中国(隋)を相手に、小国の日本が対等の外交を行おうとしたことに、隋の皇帝は激怒した
・2025(令和7)年 東京書籍 国書を資料として示す。隋に独立した国として認められようと考えられています。
・2025(令和7)年 教育出版 進んだ政治のしくみや文化を取り入れようとして小野妹子らを遣隋使として送る。
・2025(令和7)年 日本文教出版 対等な国の交わりを結ぼうとした。
小学生用の多くは、教科書は対等を記す。「独立した国」も対等関係であろう。
〇 中学生用
・1955・1970(昭和30・45)年 大阪書籍 強国隋に向かって対等の交わりを結び、独立国の面目を保とうと考えた
・1972・1976(昭和47・51年)年 学校図書 初めて対等の態度で国交に臨んだ
・1977(昭和52)年 東京書籍 古くからのならわしを改めて中国と対等の外交を行おうと努めた
・1977・1978(昭和52・53)年 大阪書院 「対等」には触れず
・1981・2012(昭和56・平成18)年 清水書院 中国と対等の関係を結ぼうとした
・1981(昭和56)年 東京書籍 「対等」には触れず
・2016(平成28)1981(昭和56)年 清水書院 「対等」は記されていない
・2022(令和4)年 山川出版社 中学歴史 日本と世界 37頁 倭と隋が対等な形式で書かれたため無礼とされたが、高句麗との関係で国交は続く
・2025(令和7)年 史料あり。帝国書院 隋の進んだ政治のしくみや文化を取り入れるため、正式な国交を目指した。
・2025(令和7)年 教育出版 史書あり。中国から、進んだ文化を取り入れようとして小野妹子らを遣隋使として派遣した。
・2025(令和7)年 史料あり。ヤマト王権は、中国を統一した隋に使節を送り、国交を結んだ。
・2025(令和7)年 史料無し。600年の遣隋使あり。小野妹子を遣隋使として派遣。
・2025(令和7)年 東京書籍 史料無し。隋の進んだ制度や文化を取り入れようと小野妹子たちを送った。
・2025(令和7)年 育鵬社 607年には、隋の皇帝にあてた手紙で、倭が隋と対等な国であることを強調し、隋の皇帝は激怒。
・2025(令和7)年 自由社 国書あり。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に服属しない決意を表明。これを聖徳太子の隋に対する対等外交という。
中学生用の教科書類は1900年代までは「対等」と記すものが多かったが、現在は少数になりつつある。
〇 高校生用
・1963~2008(昭和37~平成20)年 清水書院 隋に対して対等な立場を主張
・2014~2022(平成26~令和4)年 清水書院 「対等」は記されていない。「無礼な国書だ」と怒るが、高句麗との関係で国交は続く。
・1963~1978(昭和38~53)年 帝国書院 大帝国隋と対等な立場で発言し煬帝怒るが、高句麗との関係で国交は続く
・1967(昭和42)年 中教出版 太子が対等の外交をめざしたことは、隋帝にあてた国書を見ても明らか
・1969(昭和44年) 日本書院 対等の外交を開いて、国際的地位を高める
・1995(平成7)年 帝国書院 「対等」には触れず
・1996~2008(平成8~20)年 山川出版社 対等な立場。
・2003~2018(平成15~30)年 山川出版社 「対等」は消える。国書は煬帝の不興をかったが、翌年には裴世清を遣わし国交は継続した。中国皇帝に臣従しない形式をとり、無礼とされた。
・1998(平成10)年、2017(平成29)年 山川出版社 『詳説日本史研究』 53頁 倭国の大王が天子と自称しことに対して、隋の皇帝容態が不快の念を示したという。「これを対等の外交をめざしたと考えるのは問題がありあくまで朝貢外交の枠内のものであった。」しかしながら、遣隋使の派遣がこれまでの卑弥呼や倭の五王の時代の外交と異なるのは、このときの倭国の大王が、中国の皇帝に冊封を求めなかったということである。倭国の大王は、中国の皇帝から自立した君主であることを隋から認定されることによって、中国皇帝から冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を示そうとしたことにある。
・2023(令和5)年 山川出版社 『日本史用語集』 まず、この時点には「対等外交」という項目は存在しない。それも当然である。25頁の「遣隋使」の項目には、朝鮮三国に対する優位性を保つため中国皇帝に臣従しない形式をとったと記されているからである。
・2024(令和6)年 実教出版 精選日本史探求 26頁 隋の皇帝と対等な関係を示すものとして隋の煬帝の怒りを買ったという。 高句麗との関係で国交は続く
・2024(令和6)年 東京書籍 倭の五王とは異なり、隋の皇帝に臣従しない書式であったため、隋の煬帝の怒りをかったという。高句麗との関係で国交は続く
・2024(令和6)年 山川出版社 国書あり。隋への国書では、倭の五王とは異なり、隋に服属しない立場を主張しようとしたが、隋の皇帝からは無礼とされた。
・2025(令和7)年 山川出版社 『詳説日本史』 国書は倭の五王時代とは異なり、中国皇帝に臣属しない形式をとり、煬帝から無礼とされた。
・2025(令和7)年 清水書院 600年にも遣隋使。607年、隋の皇帝に臣従しない書式の国書提出。卑弥呼や倭の五王と違い、中国皇帝の冊封を受けなかったことを意味する。
・2025(令和7)年 第一学習社 600年の遣隋使あり。国書あり。「日出づる~つつがなきや」は仏教経典の用語。607年に小野妹子を遣隋使として送り、留学生や僧侶を派遣して中国の文明を学ばせた。
古い高校教科書には「対等」が目につくが、近年、高校の教科書からは「対等」という言葉が使われなくなっている。私が調べられた範囲では、「対等」の用語が使われた唯一の例は、2024年の実教出版のものである。「対等」とほとんど同一と思われる「臣従・臣属・服属しない」「自立した」などは「対等」という用語を避けようとしているのではないかとも思われる。
また、2025年発行の第一学習社で「仏教」を意識している点が注目される。遣隋使と仏教の強調という問題は第二節での主要なテーマになる。
2. 現在の教科書の状況について、および「新たな教科書問題」
「1.資料」で見たように、小学校の教科書ではほとんど「対等外交」は生き続けている。しかし、中学校の教科書類を見ると「対等」と習う生徒が減りつつあると考えてよいようだ。これに対して、高校生の教科書類では「対等外交」が消える、あるいは「隋の皇帝に臣従しない」というあいまいな言葉に代わるものも現れた。また、山川出版社の『詳説日本史研究』はさらに語気を強め、また一歩進めて「対等の外交をめざしたと考えるのは問題がありあくまで朝貢外交の枠内のものであった」と記載されるものまで登場している。
一、特に高校の教材類での変化が大きいが、これを生徒の立場で考えてみると非常に大きな問題を抱えることになるだろう。遣隋使について、小学校ではほぼ全員が「対等外交」と習う、中学ではまだ多くの生徒が「対等外交」と習う。
ところが、高校の授業では「対等の外交をめざしたと考えるのは問題がある」と教わる生徒が確実にいることになる。先の資料では、中学から高校まで山川出版社の教材類で学ぶ生徒は、特に「大きな衝撃」を受けることになろう。混乱すること必至である。「対等外交じゃないの」、「朝貢なんか聞いてないぞ」、「対等と教わったのに、それが問題視されるのか」など。「歴史の真実が教えられていた」と考えていた生徒の中には、そのような生徒がほとんどであろうが、混乱が起こるだろう。
あるいは過去の先生に負の感情を抱く可能性さえある。「小・中学校の先生に嘘を教えられたのか?」など。あるいは逆に、現在の先生に対して疑念を持ったり、混乱する生徒が出てくる可能性もある。「中学では対等と習ったのに、この先生は対等と考えるのは問題があるんだと言う。どっち正しいんだ?」
二、2017(平成29)年 山川出版社 『詳説日本史研究』はその用語が極めて把握しづらい。「対等というのは問題がある」という記述とともに「自立した」とも書く。「朝貢外交の枠内のものであった」と述べた後に「冊封を求めなかった」と記す。
「対等ではないのに自立した」、「朝貢するが冊封体制下にはない」など、明快さに欠けているのではないか。それらの用語を定義するだけで、それぞれが一つの論文になりそうである。私の推測だが、編集執筆に携わった何人かの学者の好む用語をすべて採用したのではないか、という表現である。学ぶ生徒の立場を考えているのであろうか。混乱必至である。
三、また、前項の二、ともかかわるが、同じ出版社でも異なる見解がある。山川出版社の2017年版『詳説日本史研究』などでは「対等というのは問題、朝貢外交の枠内」とされるのに対し、2025年版『詳説日本史』における「臣従しない」とでは明らかな違いがある。「臣従しない」はほとんど「自立」、「対等」と同義であろう。
ここに私たちが直面する「新しい教科書問題」が顔を出している。歴史の理解は専門家たちの間には異なった見解が存在している。それを学会や研究図書や研究誌に発表することは自由に行われなければならない。その自由が保障されているか否かについてはここでは問わないことにする。
問題の一つは、特に古代史は史資料が十分にあるとはいえないだけでなく、歴史という学問の性質から諸説存在するものでもある。その諸説ある問題領域について、教科書執筆を担当する研究者・グループの意向で「一つに決まり」として良いということにはならないだろう。遣隋使については「対等ではない」、「朝貢だ」と理解する研究者がいて、それを支持する研究者が増加しているのかもしれないが、相変わらず「対等」と考える研究者もいるのが現状であろう。そのことは反映されなければならないのではないだろうか。
この意味で教科書はどうあるべきかが問われている。幾つかの説がある問題については、その代表的な説をともに載せる必要があるのではないか。諸説あることを知らせることは生徒に別の意味での「混乱を引き起こす」ことになるのだろうか。実際に、卑弥呼の邪馬台国の所在地について、近畿ヤマトと北部九州という二説あることが明記されている教科書類もある。それが十分な形と言えるかどうかは検討の余地はあるだろうが。遣隋使も少なくとも二つかそれの説がある。実際に、ある教科書には「対等」と載り、別の教科書では「朝貢」と記載されている。なぜそのどちらか一つだけが書かれなければいけないのだろう。二説、あるいはそれ以上あることがなぜ教科書に書かれないのだろうか。その教科書執筆者・編纂者の見解が前面に出すぎていないだろうか。数学などとは違い歴史の教科書は性格上、多様な見解が存在する可能性があることなどをも生徒が学ぶ絶好の機会になるであろう。
生徒を単に「教えられる受け身の存在」と考えて教科書は作られているのだろうか。それとは異なり、生徒を自主的に学ぶ主体として見るというやり方があるだろう。関心を育て、また意欲を育てる中で自分から進んで探求する、いわゆるアクティブラーニングと言われる方式がある。
私は教育の現場で諸説を紹介することは、むしろ生徒の勉学意欲を向上させるのではないかと考えている。現在、小学校の社会科の教科書では、「自分で調べる」という課題が必ず出されている。適切な参考史資料が生徒に示されているのか、どんな資料が与えられるべきかについては十分に議論される必要はあるだろうが。もちろん今は、インターネットから多様な情報が得られる時代であるから、そのような心配は無用かもしれない。自分で調べ考える方向に向かう必要があるのではないだろうか。
ところが、中学、高校となるにつれてそのような生徒の主体性を育てる観点がなくなり、教科書の執筆者や編集者の見解が前面に押し出され、「これが史実だ。だからそれを覚えておけばいいのだ」という方式になっているのではないかと思われる。知識量も判断力も小学生よりも身につけている中・高生が自主的に学ぶという状況にないという不合理さがある。受験勉強への対策なのだろうか。むしろ、受験の出題方法を根本的に手直しする必要があるのではないだろうか。
「教科書の在り方をめぐって」の議論が必要であるということをもっと真剣に考えなければならないであろう。
3. 教科書類の変化に対応して
高校生用の教科書類では、2010年代あたりが境目になり、「対等外交」が消えていく傾向にあるようだ。『大学で学ぶ日本の歴史』(注3)という本がある。ここでは、「天子対天子」の国書に対して隋の煬帝が怒る。倭王がみずからを天子と名乗ったことが原因であるが、必ずしも倭は隋と対等な関係を目指したわけではない。倭は「任那復興」をめぐり新羅と対立するなか、新羅を牽制しつつ、先進文明を受容する目的で隋に朝貢しようとした。これ以降、倭は中国に冊封を求めずに朝貢していくことになる。いっぽう、高句麗と対立する隋としてはこれを認めざるを得ず裴世清を倭に派遣して倭国の朝貢を歓迎する旨を伝えさせた。大学生ともなれば、「冊封」と「朝貢」の違いぐらいは理解可能であろう。
おおむね、このような表現がされている。この書物では明らかに「対等」が消されて「朝貢」が正しいということが示されている。
一方、『ここまで変わった日本史教科書』(注4)という本がある。期待したのだが、遣隋使に見られる「対等外交」については論じられていなかった。2010年代から徐々に高校生用の教科書では変化が起こり始めており、さらに同年出版の『大学で学ぶ日本の歴史』がそれに敏感に対応しているにもかかわらず。『隋書』倭国伝が「対等外交」と解釈された時代があったこと自体を消去しようとしているのだろうか。
(注3)木村茂光、小山俊樹、戸部良一、深谷幸治著 吉川弘文館2016年第一刷 23頁
(注4)高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一著 吉川弘文館2016年第一刷 20~21頁
4. 対等外交が避けられる理由 — 一つの仮説 —
次節で現在の『隋書』の「天子対天子」についての研究動向を検討するのだが、その前に一つの仮説を立ててみたい。それは、なぜ現在の研究が「対等を避ける方向にあるのか」に対する私の推理からくる。
まず、近畿ヤマトの王権が隋と対等な関係を結ぶ資料は存在しない。例えば、『日本書紀』に見られるのは、対等ではなくむしろ「朝貢」であった。煬帝からとされている国書に「朝貢」という文字が残されたまま『日本書紀』は書かれている。
また、隋との関係が「対等」であるとすると、なぜ唐とは対等ではなく「朝貢」に逆戻りするのかが説明できない。そこで、遣隋使も対等ではないことにする。このような計算があるのではないのか。
しかしこの解釈もまた通説的立場では大きな壁に突き当たる。つまり、それではではなぜ倭国は唐とは白村江で「対等」どころの話ではなく、なぜ戦争にまで突き進んだのだろうか。果たして百済復興が理由になるのだろうか。この理由付けが弱いものであることは、以下で述べることになる。