日本国伝(『旧唐書』)と日本伝(『新唐書』) どちらをより信じられるのか 「唐書類の読み方」その三
「多元の会」会報No.182 : 小島芳夫氏の論考について
はじめに
通説で、あるいは教科書の類で唐書関係の内容に触れるものを私はほとんど見ない。中国における他の時代の史書類に比べて唐書関係の検討はまれにしかなされていない。あったとしても、否定的な評価が下されていることが多い。岩波文庫(注1)において『旧唐書』が日本国伝と倭国伝とを併存させることが「不体裁」だとする有名な評価、これによりほぼ唐書類(注2)の緻密な検討は放棄されている感がある(注3)。
私には高校で社会を教えている若い友人がいる。彼に「『旧唐書』で日本国と倭国が別種と書かれている」と言って、中国書局のものを見せた。「えっ、同じじゃないの?別種と書いてあるねっ!」と驚いていた。当然、教科書にも載っていないから彼は「倭国と日本国は同種・同国」と考えていたのである。
重要なことは通説では何故、唐書類が真剣な議論の対象にはならないのかという問題である。結論から言えば、私が読み取った限りにおける唐書類は、通説的古代史理解にとっては有利な史料ではないからである。できる限り話題にしてほしくない、むしろ隠しておきたい史料とも言える。つまり通説維持には不都合な文献類だからである。ここに言う通説とは、記紀によって示されている近畿天皇家万世一系と近畿王権一元史観をおおむね承認する歴史観を指す。
これを非通説、反通説の立場からみると、唐書類は通説にとってのアキレス腱として突くことができる強力な史資料だと考えられるのではないだろうか。「古田古代史学」関係者が唐書類をめぐり活発な議論を行うことは最重要課題の一つになるであろう。
その意味で「多元の会」で唐書類をめぐって小島芳夫氏が問題提起し、谷川清隆氏がそれに対して批判を行ったことは、さらによい契機になったと思われる(注4)。そこで國枝は準備を始めた。小島説の問題点と谷川説の問題点を共に取り上げた新たな「唐書類の読み方」を書き始めていた。私の論考の意図は、唐書類をめぐって今後もさらに活発な議論が展開されることを期待して、改めて一石を投ずることにあるというものであった。ところが、・・・唐書類の議論が熱く行われることを期待して、私は『古代に真実を求めて』第27集に谷本茂氏の唐書類関係の論考が発表され、またそれに対しての批判的検討を國枝が試み、それが古田史学の会の会報No.184に掲載された。何ということか、その同じ号に小島芳夫氏による「谷本氏論への疑問」という論考が掲載されていたのである。議論はすでに活性化され始めている。さらに改めて、唐書類について論じていこうという決意を固めることになったのである(注5)。とは言え唐書類をめぐっては語り尽くしてしまった感があるので、本稿を最後にしばらく静観することにしたい。批判的なコメントが頂けたらそれにはお応えしたい。
ところで、多元の会での議論は様々なことが話題に取り上げられている。七世紀後半から701年の時点における王権移行の問題、「禅譲革命」の姿(注6)などと多岐にわたっており、個々に紹介し、個々に解釈を加えることは煩雑になり過ぎる。書き始めていた多元の小島論文についてまずは完結させることにする。論点を私にとって最も焦眉の課題と思われる一点に絞り込むことにした。それがタイトルにある「『旧唐書』日本国伝と『新唐書』日本伝のどちらをより信じられるのか」という問題である。
(注1)『旧唐書倭国日本国伝』岩波文庫
(注2)唐書類とは、『旧唐書』、『新唐所』、『唐会要』、『通典』における日本列島に関わる記述の総体である。
(注3)通説に属する中で、唐書類を熱心に検討している数少ない論者の一人は『日本国の誕生』における大和岩男氏であろうか。氏の説については別稿で論じる予定である。
(注4)小島芳夫氏 多元No.184(以下、小島論文と呼ぶ)、谷川清隆氏 多元No.183(以下、谷川論文と呼ぶ)
(注5)今から思えば、私は「唐書類の読み方シリーズ」のNo.1に当たるであろう論考を東京古田会No.218に「唐書類の読み方 古田武彦氏の『九州王朝の歴史学』〈新唐書日本伝の資料批判〉について」を発表した。さらに、谷本茂氏の唐書類に対する見解を論じたものは、私の位置づけとしては「唐書類の読み方シリーズ」のNo.2にあたる。そして、本論考がNo.3にあたることになる。
(注6) 「禅譲革命」について、小島氏は誰のどの論文などを念頭に置いているのかなどを明示する必要があったと思われる
第一節 「信頼」できる史書は何か
ここでの問題は、次の三つの選択肢のいずれを支持するかである。第一に『旧唐書』日本国伝の方が『新唐書』日本伝より信頼できる。第二に『新唐書』日本伝の方が信頼できる。第三に両書ともに信頼するに足る。
谷川論文ははっきり明文化している。「旧唐書の方が信頼性は高い(注1)」、と。古田武彦氏も『新唐書』に対して不信感を表明していた。誤植の類が多いなどの理由を挙げている(注2)。また、『旧唐書』の方により信頼を置いていると思われるが、それは『旧唐書』日本国伝の次の一文が古田氏自身の古代史観に近いゆえ『旧唐書』に肩入れしているからである。「倭国自悪其名不雅改爲日本(九州倭国が自ら倭の名を雅でないとして嫌い日本に名を変えた)」。古田氏によると、この一文が歴史の真実を述べていることになる。古田氏が唐書類を理解する際の基軸になっているのであろう。したがって、古田氏は『旧唐書』支持に傾いている。『旧唐書』をより支持する説についてはすでに私は古田氏の説について論じたので、本稿では『新唐書』に傾斜しているとみられる小島氏の説に焦点を当てることにしたい。
(注1) 谷川論文の3・3
(注2) 古田武彦『九州王朝の歴史学』第四章の注17など。この古田論文について、國枝は東京古田会ニュースNo.218で論じている。氏の主張の一番の問題点は、日本国伝に九州倭国の人間が登場し、「曰う、言う、云う」ことはありえないことである。
(注3) 上記、「はじめに」の(注5)に示した拙稿
第二節 『新唐書』日本伝と『旧唐書』日本国伝の関係
1. 小島論文の『新唐書』日本伝の解釈について
小島論文は、『新唐書』支持を明確には記述していない。また、小島氏の議論は独特で込み入っている。小島氏の考え方を整理する中で私が注目したのは次の点である。まず、氏は『新唐書』日本伝により信頼を置き、特にその「日本乃小国爲倭所并」が歴史の真実を語っている。次いで、『新唐書』日本伝に適合させるように『旧唐書』日本国伝を解釈し、「両唐書に矛盾はない(注)」と結論付けている点である。言いかえると、小島氏は両唐書が無矛盾であるように『新唐書』も『旧唐書』も解釈しようと努めているともいえる。この意味で両唐書とも信頼しているということになるだろう。しかし、その基本は『新唐書』の日本伝が優位とみた上での解釈になっている。この点をこの第二節で論じていく。
(注)小島論文 10頁、三段目
『新唐書』日本伝における咸亨元年から703年の粟田真人を遣使団長とする遣唐使までの記事である。
咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音 惡倭名 更號日本 「使者自言 国近日所出 以爲名 或云日本乃小国 爲倭所并 故冒其號 使者不以情 故疑焉」 又妄夸其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外卽毛人云 長安三年、粟田朝臣真人・・・
小島氏による上記下線部、或云日本乃小国 爲倭所并 故冒其號についての考えである(注1)。氏によると、これについては「古田史学」内では「大和王朝とする小國の日本は倭國に併合され消滅」したという解釈がなされているが、それに疑問を呈して以下のような独自の解釈をする。
ア. 「日本」は大和王朝で、「小國」であった。9頁第三段
イ. 倭國は九州倭國で、この九州倭國が小國である古日本國をスッポリ冒った(九州倭国が小國である日本國に頭からスッポリとかぶさった)9頁第四段。(注2)
ウ. 小國の倭国を併合した時点で大きくなった倭國は「新生日本國となった」。9頁第四段
エ. 言いかえると、新生日本國は大和王朝ではなく、より大国になり日本に名を更えた旧倭国である(9頁第四段~10頁第一段)。つまり、ヤマト王朝の古日本国は消滅したことになる。
オ. したがって、唐から見ると倭國は新生日本國として続いていることになる。10頁第一段
この一文の解釈で、小島論文は併合関係として「日本は倭に併合された」という『新唐書』日本伝が歴史の真実であることを表明している。小島氏による独特の解釈と言えるだろう。
氏の議論について私が誤解していないことを願っている。
(注1) 小島論文:Ⅱ⑥「王朝交代した日本國は大和王朝なのか」
(注2) イ. については誤解があるだろう。「冒」は倭國と日本國の関係ではなく、「冒其號」とあるように、国号変更についての記事である。「冒」には「かぶさる、かぶせる」という意味もあるが、「他のものの名を借りる」という意味もある。「號=名」であるので、「借りる」、または「奪い取る、僭称する」でもよいだろう。ここで記されたことは、国と国との問題ではなく、国号の変更についての問題にかかわる。引用文中の( )内は國枝の解釈
2. 小島論文の『旧唐書』への姿勢について
『旧唐書』日本国伝の「日本国は倭国の別種」が唐の「断定」していることとする(Ⅱ⑦)。その結論自体はその通りで、「別種」は唐の積極的な認識を示すごくわずかな記述の一つである。しかし、氏による「種」の理解の仕方に問題があるだろう。
(1) 「種」について
「種」という言葉によって国、居住地域、血統、人種などの違いを唐がどれだけ正確に掴んでいたかは『新唐書』から読み取ることはできない。おそらく「別種」は「違う」程度の意味であろうと私は解釈している。唐は倭国が九州であったことは確信している。しかし日本国人はそれとは違う地理的状況を説明している。卑弥呼や多利思北孤など九州倭国の王の名も知らないようだ。倭国とは「違う」連中だと即座に感知しただろう。
ところが小島氏は、「別種」と言うことから直ちに日本国が「倭国の枝分かれした種の国」、また「九州王朝の血流」、「九州倭国が本流、日本国が分流」だと述べる(注)。このような解釈、決めつけは何を根拠にしているのであろうか。ここには、『旧唐書』には書かれていない、あるいは『旧唐書』を離れた小島氏自身の観点が入り込んでいるのではないかと思われる。「本流」や「分流」、「血流」などについては論証されなければいけない事項ではないだろうか。少なくとも、唐がそのような「事実」を把握していたとはとても思えない。小島氏は数百年前の神武東遷のことを唐が把握できていない(10頁四段~11頁一段)と述べているが、では咸亨元年時点での「枝分かれ・本流・分流・血流」などを唐はどのように掴んだのだろうか。
たしかに、「記紀に記述された神武東遷譚は史実である」を前提にして、「九州王朝が本流、日本国が分流」という説が「古田史学」内で一定以上の共通認識になっているようである。小島氏はその「神武東遷」という前提は唐が知らないというわけだから、どうやって「枝分かれ・本流・分流・血流」を唐が知りえたのか。それは論証されなくてはならないであろう。「古田史学」で自明の前提にされているこのテーゼに対して以前から疑問を抱いていた私にとっても、ぜひとも小島氏の論証を望みたい重要事項である。
唐はヤマト王権、日本国のことは把握できてはいなかった。だから『旧唐書』倭国伝の記述の仕方と『旧・新唐書』日本(国)伝はまったく異なっていた。日本(国)伝は日本国人の発言集であり、しかもそれらに対して「疑う」姿勢を示したのであるから、唐は日本国の実態は掴めていなかったと私は理解している。この点は、第三節で述べる。
(注)Ⅱ⑥ 10頁二段目
(2) 先のオ.について
小島氏による「九州倭国(旧倭国)が小国の旧日本国(ヤマト王権)を併合して広域化した新倭国(新生日本国)となる」という構想は、以下の点で無理があるだろう。
まず、旧倭国が新生日本国になったのならば、それを把握した唐は『旧唐書』で倭国伝と日本国伝を二本立てにする必要は全くなかった。日本国伝の一本立てで済ませることができたであろう。例えば、〈日本国伝〉「日本国は古の倭国である。近畿の小王権を併せ、また名を日本に変えた」などと記述すれば済む話である。「曰う、言う、云う」、「唐疑う」と記す必要もなかったであろう。
また、新生倭国が近畿まで統治していたならば、倭国の地理的状況についても「古は山島に拠りて居す」であったが今は「西は九州から東はアルプスまで」を示す表現になっていたであろう。広域を支配する倭国は自国の領域拡大に触れず、謙虚にも小さめに唐に報告するであろうか。逆により広大に見せたがるのではないか。
(3) 「曰う、言う、云う」、「唐疑焉」について一言
そして肝心なことであるが、唐は九州倭国のことはよく認識していたが、新生日本(国)のことはよく把握していなかったのである。だから、『旧唐書』日本国伝にも『新唐書』日本伝にも「曰う、言う、云う」というインタビュー封の記事になり、その発言に対して「唐疑う」と記述されていたのである。「曰う、言う、云う」、「唐疑う」は軽視されてはならないであろう。
拙稿:「『旧唐書』と『新唐書』の間」(注)について、ある方から指摘を受けたことである。「曰う、言う、云う」は日本(国)伝にだけあるわけではない、と。確かに、『旧唐書』、『新唐書』の列伝の高句麗、百済、新羅伝などには「曰う、言う、云う」が数多く記されている。しかし、その内容は日本(国)伝のそれらとはまったく性格が異なっている。
例えば、唐の皇帝は「~」と曰う。それに対して、高句麗の王は「~」と言う、のような対話形式になっている。あるいは、皇帝が詔して「~」と曰う。皇帝が左右に「~」と曰う、さらに官職の名は「第一に~と曰う、第二に~と曰う・・・」の類である。中国書局版は引用符(「 」)さえ付けてあるものもある。英語で言う直接話法である。さらに、「唐疑焉」は一切ない。皇帝と他国の王の会話の内容や、皇帝の詔が疑われたら如何ともしがたいだろう。
日本(国)伝の特異性、いや異常さに対して敏感でなければいけないだろう。
第三節 「曰う、言う、云う」の範囲、また唐が「疑う」の範囲
再度述べることになるが、まず『新唐書』日本伝である。
咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音 惡倭名 更號日本 使者自言 国近日所出 以爲名 或云日本乃小国 爲倭所并 故冒其號 使者不以情 故疑焉」 又妄夸其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外卽毛人云
七世紀までの近畿ヤマトの王権は後に日本国として登場する。その日本国は咸亨元年に初めて中国に使者を送った。中国は九州倭国のことはある程度以上によく知っていた。漢の時代から遣使関係があり、悌雋、張政、裴世清、高表仁は倭国に来ていた。だから、倭国伝に「曰う、言う、言う」という発言記事は無い。いまさら聞かなくてもわかっている、ということであろう。ところが日本国は倭国と異なる、九州の出身でもなさそうだ、と唐は感知する。地理的状況が「山島に拠りて居す」ではない。同じ列島から来た使者に唐の知る列島の情報から質問をぶつける。
また、唐は九州倭国、蝦夷国については遣使関係があったので知っている。その関係を尋ねるだろう。多元の立場の質問になる。中国の知っている王との関係も尋ねる。卑弥呼、壹輿、倭の五王、多利思北孤。
日本国伝は基本的に、唐から日本(国)人に対するインタビュー記事である。唐の質問は書かれていないが、質問内容は日本(国)人の発言から伺い知ることができる。出身地の様子、王の名前、倭国と日本国の関係、蝦夷との関係、また毛人との関係。国名変更の理由、など。
そこで、「曰う、言う、云う」について改めて考える。“I am a student„ , he says.〝I live in Tokyo. „ この場合に、発言は言う(says)の前にも後ろにも係っている。「曰う、言う、云う」もおおむねその前後に係るだろう。「或云」などに限らずそうであろう。日本伝の上記の傍線部は唐の判断ではなく日本人の「自己」主張に過ぎない。真実か否かは唐には不明なのではないか。これを私は「唐書的状況」と呼んでいる。
そして決定的なのが「疑う」である。「妄夸(みだりにほこる)」は「大風呂敷を広げる」ということでほぼ「嘘」に近い。そして、「使者不以情」は誠実さ、真心に欠けるということである。人格批判とも言えるだろう。一般に、そのような人間の言うことは当然のことながら疑われる。そこで「故疑焉」と書かれてしまった。この言葉は、ほとんど「嘘をつくな!」に近い内容だ。ただ、唐は日本国の実態はそれ以上には掴んでいない。これが日本(国)伝の正体、言い換えれば「真実」である。再び言うことになるが。これが「唐書的状況」である。
したがって、よく語られる「唐によって九州から近畿地方まで羈縻支配が行われていた」ということも不可能である。状況把握ができていない国を支配することは不可能である。また逆に、もしも唐が羈縻支配していたなら列島のかなりの部分、おそらく西半分を唐は把握できたはずであり、日本(国)人に対するインタビュー記事などは記載されなかったであろう。また、「疑う」などという曖昧な表現は採用されなかったであろう。
同様に、郭務悰が筑紫に来て近畿にいる天智と通じていたこともありえない。天智が病の時に郭務悰は木彫りの阿弥陀仏を贈る、天智が亡くなった時に郭務悰は「三遍挙哀」をする、このような関係が両者の間に出来ていたとする。その場合、郭務悰は筑紫だけでなく、近畿ヤマトまでの政治的、軍事的状況も把握していたはずである。郭務悰は唐にその情報を伝えるだろう。唐による日本(国)人へのインタビューは必要ではなかったはずである。
最後に
『旧唐書』日本国伝と『新唐書』日本伝のどちらが真実を語っているのかについての私見である。私の結論は、両唐書とも「真実」を述べているということにある。「真実」とは決して歴史の真実という意味ではない。来唐した日本(国)人の発言内容や、また発言するときの態度、表情などの様子についての「真実の姿」を『旧唐書』、『新唐書』は共に記述していたという意味である。つまり、小島論文が最終的に述べるように両唐書に矛盾が無いからではない。むしろ、両唐書に矛盾があるということが唐の記述していたことなのであり、それゆえに両唐書とも私からは「信頼される」ことになったのである。
したがって次のように考えられる。「日本国が倭国を併わせた(『旧唐書』)」、「倭が日本を併せた(『新唐書』)」もともに日本国人の発言に現れた矛盾である。
また、「日本は古の倭奴なり(『新唐書』)」も、「倭国一名日本国(『通典』)」も日本(国)人の一元史観を貫こうとする主張の執拗さからくるものであった。北宋時代以降になっても倭国が顔を出すのも、倭国が存続していたからではなく、国外で「倭国=日本国」という通念が確立していたことによるのではないかと考えられる。そしてこれが一元史観と万世一系路線確立後の『日本書紀』の立場であった。そしてさらに、日本国の主張に対して、唐側が「妥協」 することによって様々な「矛盾や不合理さ」が生み出されたのではないだろうか。