古田氏の旧説撤回問題について
2024.11.17
はじめに
この論考は古田氏の学説を単に批判するという過去に向かった議論を目指すものではない。古田武彦氏という影響力が大きい研究者の説が、日本の古代史における極めて大事な事項について二つ(ないし三つ)の回答を与えていたことに対して注意を喚起するものである。というのも、古田氏の学説を支持する研究者が、「古田説によると」、「古田氏によると」などの言葉を安易に述べることができないという問題を孕んでいるからだ。二つある古田氏の説のうち「どちらの説を支持する」のかを明らかにしなければならない状況があるからだ。それだけではない。二つの回答が提出された問題について「古田氏の一方の説を支持する」場合には、「なぜ一方を支持し、他方は支持できないかの根拠」も示さなければならないからである。古田氏を支持する研究者が、何らの理由も示さないで一方の説(旧説の場合もあれば、新説の場合もあるが)に基づき議論を始めている場面に出会うと、その「せっかく書かれた論考をそれ以上は読む必要があるのか」という気持ちにさせる場面にたびたび出会うからである。この問題点については別稿で議論する予定である。
同時に古田氏の議論の中で、氏自身が旧説に問題点があったことを指摘し、新説を提示している場合もあるが、旧説の撤回の表明もなく、また旧説撤回の理由も明示されないで新説が登場する場合もある。また、その中には氏による旧説も新説も共に論拠不十分で支持することができないという場合もある。この論考で取り上げるのはこちらの問題である。
古田氏の思考は柔軟であったのであろう。「ああも考えられる」、「こうも考えられる」など幾つもの可能性を発見し、取捨選択し、その上で可能な解決法を提示していたのであろう。私は古田氏のことを、問題提起者としての側面を高く評価している。通常、当たり前のこととして等閑視されてきた、しかし深く究明しなければならない日本古代史の諸課題を、解決の道を見つけることがどれだけ困難であろうとも提起し、解決の可能性を複数個考察し、「現時点ではこれがより合理的な解釈だ」として提示していったのであろうと思われる。一度も古田氏に対面したことがなく、氏とは書物の上での付き合いしかない私の勝手な憶測であるが。
大事なのはこうである。古田氏は可能な解決法を複数個提出した。その事実はわきまえておかなければいけないだろう。それを氏の混乱として捉えるのは容易である。それは消極的な姿勢に過ぎない。私たちはどれを有力な解決方法だと考えるか、と受けとめる必要があるだろう。また、それぞれの解決の成否も見極める必要があるだろう。さらに、問題によっては氏のまだ提起していなかった解決方法もあるのではないか、また氏が提起していなかった古代史の問題が存在するのではないか、など私たちの研究意欲を掻き立てる研究材料として氏の「旧・新両説問題」を受け止めたいと考えている。
とはいえ、ここに取り上げる「両説問題」は、明らかに「両立」することはない問題であることはおさえなくてはいけないだろう。
以下の1、2、3、4、6、7では①が旧説、②が新説。また、5.では①、②が旧説、③が新説にあたる。8.については旧説・新説問題だけでなく、氏の自己矛盾として姿を現したものである。どの説が旧説または新説かについては私が入手した著作の出版年による。ただし、どの説が旧説または新説であるかは、著作の出版年からは必ずしもわからないこともある。結局は、「旧説」と「新説」の区別は私の判断によるもので、この論考では「旧説」、「新説」は便宜上のものといっても差し支えない。ここでは古田氏の幾つかの説に変更があり、それぞれ二つないし三つの説があったことを指摘し、その両説の検討を行うものである。
1.目多利思北孤の「目」について
① 目=「サッカ」と読む。意味は「次官、ナンバーツー」である。
用明天皇は「九州に本物の多利思北孤がいてそれに次ぐ人物ではないかと思います」と一方では述べる(注1)。
内倉武久氏は古田氏の説を支持して書く。大和政権自ら、「われわれの王はタリシヒコ王朝の家来でありました」と言っていると解釈せざるをえない(注2)。内倉氏のこの見解は支持できないのだが、ここには氏に賛同できる考え方がある。日本伝において、「用明目多利思比孤」を含めて天皇名を羅列している箇所は決して唐の側が自信をもって記述したものではない。唐が誤った記述をしたかのような解釈が唐書類の日本(国)伝について跡を絶たない。これに対して、内倉氏は天皇の羅列箇所が「大和政権自ら」語った事項として把握しているからである。これは唐書類の日本国伝を読む際の大事な視点であると思われる。
(注1)『古田武彦の古代史百問百答』 Ⅴ 18 目多利思比(北)孤について ミネルヴァ2015 初版第一刷 137頁
(注2)『太宰府は日本の首都だった』第3章 盗用の史書 ミネルヴァ書房 2000年 130頁
② 別のところで氏は言う。「目多利思比孤」といっているのは、隋書俀国伝の「多利思北孤」のことである
新唐書日本伝には「誤植」的な誤りが少なくない。「天安(孝安)」、海達(敏達)」、「雄古(推古)」の類である。「目多利思比孤」もその類という意味であろう。この著作では「目」が「不要」と解釈されている。
ところで、この指摘は本文中には現れずに注釈(注17)の中に書かれている。極めて大事な問題であるので、本編の中で論じる必要があるのではないだろうか。後で付け足しとして書かれたものなのか、それとも自説への自信の有る無しによるものだろうか。
(注)『九州王朝の歴史学』第四篇七 駸々堂 156頁、ミネルヴァ書房 2013.3.20 131頁 (注17)
この問題についての私の見解は、私の様々な論考で述べている。文字改定を行わずに信頼できる原典を解釈する、これが古田氏の方法のはずではなかったのか。私はその方法を遵守し「目」を生かして解釈する。簡単にその結論と根拠とを述べておく。
「目」は「目する、見なす」という意味であり削除する必要はさらさらない。用明目多利思比(北)孤が登場する書は『新唐書』日本伝の近畿ヤマトの天皇の系列が並べられているところである。すべての天皇名が漢風諡号で書かれているので、760年代以降に淡海三船によって創られた名である。すでに「近畿ヤマトの王権の初の中国遣使は咸亨元年である」でも述べたことであるが、この時点でヤマトの天皇の系統は出来上がっていなかったと思われる。その咸亨元年(670年)の時点で、ヤマト王権の使者は「多利思北孤とはどういう人物で、そなたたちとどのような関係にあるか」などと唐から質問されたはずである。隋と唐にとって忘れられない「対等外交路線」を敷いた倭国の王である。同じ列島から来た使者が尋ねられるのは当然である。不意を突かれ、王の系統図も史書類も備わっていないヤマトの使者はうろたえる。およそ1世紀後の760年代になって、ようやく多利思北孤は用明天皇に当たることに決め、唐に回答したというのが実情ではないか。「多利思北孤は用明だと目します、見なします」、と。
2. 万葉歌 第一巻第二歌 山跡、八間跡の読み方と意味 〈 ( )の中に読み方は何でしょうか? 〉
山常庭 村山有等 取与呂布 ( )には 群山あれど とりよろふ
天乃香具山 騰立 国見乎為者 天の香具山 上り立ち 国見をすれば
国原波 煙立竜 国原は 煙立ち立つ
海原波 加万目立多都 海原は かまめ立ち立つ
怜可国曾 蜻嶋 八間跡国者 うまし国ぞ あきづしま( )の国は (注1)
- 「ヤマト」と通説で読まれ、「大和」のことと解釈されているのは「山常」、「八間跡」である。これに対して氏は言う。「山常」、「八間跡」の読みが「ヤマト」になるのは、「いずれも、他に例がない」と。氏の読み方である。「山常=山根やまね」のほうが自然な読み方で、意味は「山並み」。「八間跡=浜跡はまと」、意味は別府湾の「浜」 (注2)。いずれも地名、固有名詞とは解釈されていない。普通名詞である。
- 『古代史の十字路—万葉批判』 第三章 豊後なる「天の香久山」の歌
東洋書林より、2001.4.20 第一刷 55頁~
- 同書 72頁
まず、この歌の前書きには、作歌者は第三十四代の「舒明天皇」とされる。この歌が天皇によるもの、そして大和で謳われたものという印象をもたせる役目を果たしている。しかし、いくつもの違和感が生じてくる。すでに古田氏が詳細に述べたことなので、ここでは簡潔に、問題点の幾つかだけを挙げておく。
まず、「山常」、「八間跡」が共に「やまと」と読まれ、「大和」と解されている。「山常」、「八間跡」は「やまと」とも読めるからといって読み方は「やまと」に決まりとしていいものではないし、さらに「大和」に決めてよいものではない。「そうとも読める」ということは、「別様にも読める」ということでもある。
少し遊び心のある人なら、邪馬臺(台)国はどこにあるかという問いに対して、八幡平(はちまんたい)だと答えるかもしれない。八幡平は「やまたい」とも読めるよ、と。よって「八幡平」が「邪馬臺(台)」であるという。これに等しい議論である。実際、そのようなことを書いた小説があった。八幡平では考古学的な状況にも、中国の史書に度々書かれている「朝鮮半島の東南」にも合致しない。語呂合わせだけでどうにでもなるわけではない。さらに、原典の「山常」、「八間跡」は固有名詞であるとも、普通名詞であるともいえるだろう。
ここでは、現行テキストの「大和」が原典では「山常」、「八間跡」という文字であったという指摘にとどめておく。しかも異なった字を当てている。何の予備知識もなく「山常」、「八間跡」を両方とも「やまと」と読める人はまずいないであろう。現代語で「大和」と訳せる人もまれであろう。「やまと」、「大和」の呪縛から解放されて、歌を第一次資料とし、歌だけを先入観なしに味わうと、歌の趣は全く異なるものとなるはずだ。
参考のために、上の万葉歌の古田氏による現代語訳を記す(注)。
山並みには、多くの山々が群がっているけれど、なかでも一番目立ち、整っているのは、天の香具山だ。
登り立って、国見をすると、国原には煙が一面に立ち上り、海原には一面に鷗が飛び立っている。
素晴らしい国だ。安岐津(あきつ)の島の、この浜跡(はまと)の国は。
(注) 『古代史の十字路』ミネルヴァ書房p.72
以上2.①は國枝ブログ〈常識への懐疑〉の「短歌から日本古代史を考える」からの抜粋である。
- 山跡、八間跡は「ヤマト」と読める
氏によって根がを挙げられることなく、旧説を無視して出現した説である。『九州王朝の歴史学』 駸々堂 153頁~、ミネルヴァ書房 128頁~では、「ヤマト」と読める文字の例として、「山跡」と共に「山常、八間跡」が挙げられている。氏がどういう根拠で持ち出したのかも不明あるし、私にとっても説明のしようもない問題である。ここでは、旧説①から新説②への変更についての根拠は示されていない、と指摘するにとどめたい。
3. 万葉歌「前書き」についての資料批判、その履行と不履行
① 先に取り上げた2.の第二歌における歌の前書き批判についてである。『古代史の十字路』ではこう語られていた。
「私の方法によってみよう。“前書き„は第二史料として、歌の〈前提〉とせず、第一史料。直接史料としての〈歌〉自身を精視する。この方法だ」、と。そして、氏の主張の要点だけを簡潔に示す。通説的には、この歌の前書きには舒明歌とある、そこで「山常」、「八間跡」という歌詞が「やまと」と読める。疑いもなく、この歌は近畿ヤマトで詠われたものだとされてきた。(注1)
これに対して古田氏は、近畿ヤマトの「香久山」が歌の天の香久山に相応しくない、海原もない、他の場所で詠われたはずだという強い確信のもとに、大分の鶴見岳こそこの歌の歌われた現場である、したがってこの歌の作歌者は舒明天皇ではないと結論付けた。さらに氏による前書き批判は続くが、ここでは省略する(注2)。
② ところが同じ著作、『古代史の十字路』で万葉第三歌ではどのように語られていたであろうか。ここでは「前書きの史料批判」は行われているのだが、決定的なところでの資料批判が行われていない。つまり、第三歌が舒明天皇に関係する歌だという前提で議論が氏によって開始されているからだ(注3)。また2000年1月の講演、「壬申の乱の大道」(注4)でもこれと同様に万葉第三歌は舒明天皇が登場する歌として議論が進められている。
それは何故か。「第二歌の前書きに舒明天皇の歌」とあったからに他ならない。その「流れで」第三歌も舒明天皇に関わる歌とされた。前説撤回どころの話ではない。同一の著作中の出来事である。自説についての物忘れの類である。同じ著作であったとしても、各論文あるいは各章の執筆時期はかなり違っていたのかもしれない。だから、章が異なると、他の章の内容を失念するということなのか。あるいは想像するに、古田氏は研究、執筆、講演、質問への回答、インタビューと多忙ではあっただろう。がしかし、学説については「忙しかった」では済まされないし、また以前に書いたことを忘れて以前とは異なる「学説」を展開し書いた、などということがあってはならないことである。「前書きに対する資料批判」を厳格に行うか否かなどは、研究者の根本姿勢、思想そのものに関わるものである。
これを「同じ著作内部で起こった旧説撤回」と呼ぶとする。するとこのことを言いかえれば、『古代史の十字路』の中で「前書き批判が必要である」という旧説(第三章)から、「前書き批判はそれほど重要ではない」という新説(第六章)が、誰にも分かるような明確な変更理由もなく打ち出されたということに他ならない。(注5)
(注1)『古代史の十字路』第三章 豊後なる「香久山」をさかのぼる 48頁~
(注2)同書 196~214頁 第八章〈雷山の絶唱〉では、万葉巻三、二三五歌の柿本人麻呂歌、雷岳歌が取り上げられ、前書きなどへの資料批判が行われている。近畿ヤマトで詠われている歌ではなく、福岡県にある雷山での歌とされる。
(注3)同書 第七章 〈太宰府の「中皇命」の歌〉 147頁~
(注4)「壬申の乱の大道」第Ⅲ.この講演は活字になっていない。以前は、「古田史学の会」のHPで閲覧可能であった。
(注5)古田氏にとって第三歌は舒明歌でないと困る、ぜひとも舒明歌でなければならないという別の要請があったと思われる。つまり、「九州王朝の天子のもとに大王・天皇が臣従していた」という氏の古代史観からくる要請であったと思われる。私はこの点についてはすでに、東京古田会の研究発表会でふれた。
4.東鯷人の居所
―― 東鯷人の国は銅鐸圏に相応しいか ――
① 東鯷人は銅鐸圏にいた
ア. 消失期の一致が「同じ存在」の根拠
「東鯷人の所在地=銅鐸圏」についての古田氏の見解である。古田氏が注目した一つの論拠が、銅鐸の作られなくなった時期と東鯷国が史書から消滅した時期とが合致していたことにあった。両者は「共に三世紀頃に至って突然消えてしまった存在」であり、共に史書類から「蒸発」した、と(注)。
この論証方法は、かなり荒っぽいと言わざるを得ない。弥生時代は何百年と続く。弥生の後半でも三百年はある。弥生時代だから時期が同じとは言えない。また、時期がピタリ一致していたとしても消滅・消失が偶然の合致ということも当然、ありうる。例えば弥生時代における寒冷化によって二つの勢力が衰退するなども考えられる。十分条件が満たされたに過ぎないともいえる。「逆は真ならず」、ということである。歴史の中に同じ時代に誕生し、また同じ時代に滅亡した文明・文化はあるだろう。「時代が同じということをもって同じ事象とはこれ如何に」。
(注) 『邪馬壹国の論理』 銅鐸人の発見 突然消えた二つの存在 ミネルヴァ書房 2010年代刷 239頁。また、244頁には、銅鐸の「東鯷人」という見出しさえ設けている。
イ. 地理的状況は対応しているのか
さらに、以下の問題もある。
『漢書』地理志は書く。「東鯷国は呉地・会稽から東」、と。東鯷国については距離が書かれていない。名前から言えば方角は「東」であろうか。
「鯷」は、魚ヘンに「是」。「是」=ここ、あるいは辺、端。古田氏は「一番端っこ」と考える。魚を中国に貢献した、東の端っこの国ではないか、と古田氏(注)。魚を中国に献上したということは海岸に近いところになるだろう。
(注) 同書 229頁
会稽から東に進み、その「一番端っこ」ということは九州も可能になる。会稽郡は南北に長い。場所が特定されているわけではない。三国の時代の建業(西晋の時代の建鄴、後の南京)から東を見れば、宮崎・鹿児島の東側の海岸が「一番端っこ」になる。四国の東端も可能。高知、徳島の東岸の辺りか。近畿ヤマトを囲む地点では、「一番端っこ」には相応しくない。魚とのかかわりについても相応しくない。紀伊半島の東岸が魚に縁があり、また「一番端っこ」に相応しいか。しかし、この地が銅鐸の中心地というわけにはいかないことは次の地図が示している。
氏が記載した地図)
銅鐸圏は中国地方東部から近畿地方にかけて存在した。氏は九州を中心にした銅剣・銅矛・銅戈圏を銅矛圏と呼んでいる。『邪馬壹国の論理』2010年「銅鐸人の発見」 ミネルヴァ書房 234頁
「東」、「一番端っこ」、「魚」に相応しい場所は、銅鐸とは縁がなさそうである。「一番端っこ」で銅鐸が出土する地域も銅鐸圏の中核という状況でもない。したがって、その地域の銅鐸圏の勢力が滅びたとしても、銅鐸文化全体が滅びるとは考えにくい。
全体的に見て、少なくとも氏が定義する東鯷人の居所が銅鐸圏の勢力とはなかなか合致しそうにもない。
② 東鯷人は九州南部の太平洋側にいた
しかし別の著作では(注)、古田氏は「東鯷人」を近畿の銅鐸国家に当てていた時期があったが、これを撤回して、九州(特に南九州)の東岸部を中心とした領域(宮崎、鹿児島の太平洋側)の人々という新説を打ち出した。これにより東鯷人は銅鐸圏とは無縁になってしまった。
これについては、前説の何が問題で撤回されたのか、またなぜ新説に移行したのかが不明瞭である。
(注) 『古田武彦の古代史百問百答』 Ⅲの8 「東鯷国の献見」について ミネルヴァ書房 45頁
5.狗奴国の場所
『古田武彦の古代史百問百答』 Ⅲ 10 〈狗奴国に関する説の変遷について〉(47~49頁)で、古田氏は率直に自身の見解の変更を述べている。①、②が旧説、③が新説。
① 最初は「邪馬壹国の南」としていたが、これは不注意によるものだとされる。
② 読者からの指摘で⇒ 『後漢書』倭伝(注1)により、倭国の「東」に短里で千余里に変更。瀬戸内海領域と考える。愛媛または高知の西岸か。
③ 合田洋一氏との会話の途中で気づく(注2)⇒ 狗奴国は女王国から東に長里(短里の約六倍)で千余里に変更。博多湾岸から東に長里での千里で大阪府の茨木市・高槻市あたり。当時の「銅鐸圏の中枢部」となる。「狗奴」は「この」と読む。茨木市の東側、枚方市には「高野(この)山」、京都府の舞鶴湾近辺には「籠(この)神社」がある。
古田氏の最終的な見解は③であると思われる。ここでは、自説変更の経緯は語られている。しかし、古田氏の下した判断、「後漢の時代は短里ではなく長里」という説明が理にかなっているか否かは別の問題である。
(注1) 『後漢書』倭人伝の范曄は述べる。
自女王国東渡海千余里 至狗奴国 狗奴国は女王国より海を渡って東へ千余里
(注2) 合田洋一氏との会話の様子は、『古代に真実を求めて』第六集 〈神話実験と倭人伝の全貌〉 41頁で語られている。
ここでの氏の説明の妥当性、帰結の意味について簡潔に述べておく。
一つは、『後漢書』倭伝には二つの里程が記されている。楽浪郡から倭国まで万二千里で、これは陳寿と同じなので短里。女王国から狗奴国までが千余里で、こちらは長里。これは同じ史資料内の記述としては混乱の元でしかない。一方が短里ならば他方も短里、一方が長里ならば他方も長里でなければいけないだろう。私は共に短里と考えている。
二つは、氏は狗奴国の位置を「銅鐸圏」にもたらした。このことにより、「東鯷人の国=銅鐸圏=狗奴国」という等式を作った。これは、「九州王朝による九州から近畿ヤマトまでの広域支配」という氏の古代史構想完成のための土台作りではないかと考えている。
氏は言う。「卑弥呼の時代には、(銅鐸圏の狗奴国を含む)大和盆地は女王国の勢力範囲に入っていたのではないか。(注)」
この氏の見解については、私は「唐書的状況」との齟齬があるため採用できないと考えている。「唐書的状況」とは何か・、唐書類からの私の読み取り方である。唐は近畿ヤマト(日本国)のことを十分に把握できていなかった。もし九州倭国が近畿ヤマトまでを支配下に置いた状態で中国と国交関係を結んでいたと仮定する。第一には、九州倭国の国土の描写は唐書類の「日本(国)伝」の記述(山島に拠りて居すなど)にはならなかったであろう。支配地域の一部(というより、九州の東のかなり広範囲)を除いて唐に報告することはないはずだ。第二には、唐が近畿ヤマトまでの様子がわかっていれば、唐は日本(国)人の発言を「疑う」とは書かずに、「それは嘘だ」、あるいは「真実は~だ」と記述したはずである。よって、唐は近畿ヤマトのことは十分には分かっていなかったと判断せざるを得ないのである。
(注) 『古代に真実を求めて』第六集 神話実験と倭人伝の全貌 51頁
さらに、九州勢が近畿ヤマトを制覇していない根拠が、皮肉なことに先の氏の提示した地図にも示されている。この地図はいつの時代のものであろうか。近現代の考古資料に基づくものであろう。ということは、弥生時代のものそのものではない。つまり、もし九州中心の銅矛勢力が近畿中心とする銅鐸勢力を征討し支配していたとすれば、銅矛勢力が銅鐸の勢力を支配した後の状況を示しているはずである。すると支配勢力の文化、銅矛類は近畿地方にまで伝搬していなければならないだろう。近畿地方にも銅矛類が出土していなければならない。
逆に、支配者は戦利品として銅鐸などを持ち帰るはずだ。銅鐸が九州から出土しなければならないだろう。しかし銅鐸は九州からは出土していない。これは不可思議だ。支配国のイギリスがインドを植民地とすることでカレーやお茶を自国に根付かせ、エジプトから持ち出されたロゼッタストーンが大英博物館に展示されていたような事態は起こっていない。ということは、九州の銅矛圏は、近畿の銅鐸圏を征討支配していなかったことを意味している、むしろ没交渉であった可能性すらあるだろう。
6. 推古紀の中国への遣使関係は隋とのものか、唐とのものか
―― いわゆる「『書紀』における十余年のズラシの問題」について ――
① 推古紀の遣使関係は隋とのものだった。これを古田旧説と呼ぶ。
氏は俀国が九州、倭国が推古天皇のヤマト王権という議論をしていた。裴世清も近畿ヤマトを訪問している(注)。
(注) 『失われた九州王朝』 ミネルヴァ書房 第三章 高句麗王碑と倭国の展開 二つの道 2010年第一版
266頁以下
② 推古朝の遣使関係は隋とではなく、唐とのものだった。これを古田新説と呼ぶ。
『日本書紀』における「十年余のずらし」、「繰り上げ」を古田氏が指摘。
以下に示される頁數は、『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』 第三部 第四章 朝日新聞社1985年5月 初版第3刷のものである。
『日本書紀』における「十年余ズラシ」の例
Ⓐ 「呉国」の存在 205頁~207頁
唐書によると武徳二年から四年(六一九年から六二一年)にかけて唐が内乱状態に陥り、「呉」という国が存在していた。推古紀には、その十七年(六〇九年)四月に百済人が「呉」国に遣使したが、呉国内乱のため入国できず助けを求めてくる記事を書いている。これは十年から十二年のズラシ(繰り上げ)がある。
Ⓑ 裴世清の肩書 216頁~218頁
隋書には「文林郎」の肩書を持つ裴世清が、推古紀十六年(六〇八年)八月には「鴻臚寺の掌客」とある。「鴻臚寺の掌客」は裴世清の唐時代の肩書なので、隋時代に対応する推古紀十六年には「鴻臚寺の掌客」は不可能。唐の時代は六一八年からなので、推古紀十六年の記事は十年以上のズラシがある。
Ⓒ 推古紀十六年(六〇八年)八月、煬帝からの国書に「朕、寶(宝)命を受け」たとあるが、「寶命」は初代皇帝に相応しく、第二代の皇帝の煬帝には相応しくない。よって、「寶命」は唐の初代皇帝が622年に用いた言葉なので、ここにもズラシがある。ここでは十四年ほどのズラシである。 219頁~222頁
氏はこれらが『日本書紀』の推古紀においては、十年から十年余ズレている、ズラされている、遡らせていると指摘した。これらは、素晴らしい発見であり、見事な指摘である。
ここから推古紀の遣使記事にも上記 Ⓐ、Ⓑ、Ⓒと同様の「ズラシ」があったと推理する。
その例が次のものである。
㋐ 推古十五年(六〇七年)七月、大礼小野臣妹子を大唐に遣わす。
㋑ 推古十六年(六〇八年)四月、妹子、裴世清とともに筑紫に帰還。三十艘で迎える。
同年 九月、裴世清帰国、妹子再遣。
㋒ 推古十七年(六〇九年)、妹子など大唐より至る。
㋓ 推古二十二年(六一四年)六月、遣犬上君三田鍬、矢田部造、大唐に遣わす。
㋔ 推古二十三年(六一五年)九月、犬上三田鍬ら大唐より百済の使いと帰国。
氏は Ⓐ ~Ⓒのズラシと同様に『書紀』の㋐~㋔の記述にも十年強ずらされていた、遡らされていたと推理し結論づけることになったのである。だから、それぞれの年に十年、ないし十年強ほど(十二年と氏は言う)時代を下らせる(降らせる)と唐の時代(618年以降)の出来事になる、と。これにより推古朝は隋とではなく、唐と遣使関係をむすんでいたという新説が提示された。
ここでは確かに旧説変更の根拠が語られている。しかし、二つだけ氏の議論の問題点を指摘しておきたい。一つには、この推理には明らかな無理がある。Ⓐ~Ⓒ は、推古朝の遣使記事についてではない。それだけでなく、Ⓐ~Ⓒを十年余時代を下らせるとそれにあたる事象が存在していた。つまり、中国の史書の中にそれらに該当する記事があるからだ。しかし、㋐~㋔はそれにあたる事象は中国の史書に存在していない。これは大きな違いである。
二つには、㋐~㋔の遣使記事に当たる事象がその時代に無かった。ということは、『書紀』は虚偽を語ったということである。ズラシは嘘の報告である。一度でも嘘をついた書物がそれ以外のところで嘘を語らないという保証はない。私は、中国の史書には存在しないで、『書紀』のみに記述された中国との遣使記事を安易に信用してはならないと考える。推古朝は唐と遣使関係を行っていたという結論は、推古紀の遣使記事を信用することによってのみ保証される事柄である。『日本書紀』以外にそれを証拠として示すものはない。
ところで、古田氏は推古朝の遣使記事が唐の史書に記載されていなかった理由については回答を用意していた。中国の史書の列伝に記載されるのは「新興の王者」ではなく、ある地域を「代表する正統の王朝」だけだ、そしてこの時代の正統の王者は九州倭国であったため推古紀の遣使記事は隋書にも唐書類にも記載されていない、と(注)。
(注) 『失われた九州王朝』第4章 Ⅱ〈二つの王朝〉 308頁~309頁
しかし、この議論は主要王権以外の勢力に対してハードルの上げすぎではないだろうか。卑弥呼の強力なライバルであった狗奴国は主要王権でない。また遣使を中国に送っていたわけでもない。それにもかかわらず、『魏志』に卑弥呼の倭国、邪馬壹国と共に記録されていた。また、毛人の存在も『宋書』だけでなく『旧・新唐書』に記載されていた。さらに蝦夷国は『通典』や『唐会要』に記載されていた。
これに対して推古朝の遣使記事は、列伝はもとより『通典』にも『唐会要』にも記載がない。狗奴国、毛人、蝦夷国よりも存在感が薄かったということになる。ということは、推古朝は中国と遣使関係を結んでいなかった、したがって遣唐使は送っていなかった可能性が大きいと言えるのではないか。
一般に、中国の史書はその存在を感知した地域、勢力があると、率直に何らかの形で記録を残してきたのではないだろうか。本稿の最後に述べるが、ヤマト王権(後に日本国として唐書の常連になる)が中国に感知され、記事にされたのは咸亨元年(六七〇年)が初めてであった。咸亨元年はこの意味で、『書紀』の中国との外交史を論じ、その真偽を確認する上での「絶対的な定点」であり、『書紀』の外交史の真偽を確認する上での「試金石」なのである。
以上の6.② については、次のものなどの要約である。
拙稿:「近畿ヤマト王権の初の中国遣使は咸亨元年である」 東京古田会会報No.217
國枝ブログ〈常識への懐疑〉の「倭国と日本国」(古田武彦記念古代史セミナー2024年、一般講演の報告書)
7. 「評」は南朝の制度であるのか、それとも中国にはない制度か
① 講演:「壬申の乱の大道」(注)における「評」
本講演第二項における「郡評論争と北魏」は意味が不明瞭でかつ不必要ではないか、というのが私の感想である。
古田氏の講演「壬申の乱の大道」は、「郡・評」の問題から始まっている。それが何故なのか。これに私は戸惑う。「郡・評」問題とは、簡単に言えば、『日本書紀』は「郡」一色であるが、それ以前の時代には日本各地で「評」が使用されていた。このことは出土した木簡などから判明した。ヤマト朝廷が確立し、大宝律令制定以降に「郡」が使われるようになったが、それより古い時代には「評」が使われていた。そしてそのことを『日本書紀』は隠したと古田氏は主張する。氏によると、その理由は「中国の北朝・魏は『郡』を採用していたため、日本書紀は北朝、またその後継の隋や特に唐に『オベンチャラ』を使った」、「我々も北朝側と深く関係を持っていました。そんな嘘のアピール」を行ったからだと言う。
ところが、三国時代の魏、つまり魏志の魏は漢民族の王権である。魏は言うまでもなく後漢の武将・高官であった曹操が「禅譲」によって樹立した王権であり、「曹魏」とも呼ばれる。これは当然のことながら漢民族の王権であった。神功皇后紀に記されていた帯方「郡」は『魏志』からの引用であるから漢民族のものであった。しかも、『魏志』の帯方「郡」ばかりでなく、『後漢書』には楽浪「郡」という使用例もあったのである。『後漢書』はもちろん漢民族の王権の史書である。その後、漢民族の王権は(西)晋・南朝に繋がっていく。
(注) 講演:「壬申の乱の大道」 200年1月22日、於大阪市北市民教養ルーム。書籍になっていないが『大道』とも呼ぶ。古田史学の会ホームページより閲覧可能
② 中国に「評制度」はなかった
上記①のような主張をするのならば、古田氏は中国の南朝は「郡」ではなく「評」を使っていたことを示さなければいけなかったはずである。ヤマト朝廷が「評」を使わず「郡」を使ったことが「北朝の唐に対するオベンチャラ」であると語るのであれば当然ではないだろうか。事実として、中国の史書に漢民族の南朝系が「評」を使った形跡はあるのだろうか。しかし、すでに述べたように南朝に引き継がれていく曹魏の『魏志』も後漢の『後漢書』も、既に「郡」を使っていたことは間違いのないところである。
ところが驚いたことに、二〇〇六年五月に出版された『なかった』ではこう語られていた。「評督」は中国にはなく、「日本列島独自の称号」、だと述べたのである(注)。ということはどういうことになるのだろう。南朝系であろうと、北朝系であろうと、中国には「評」は存在していなかった。「評」は中国の文献資料上には存在しないことになる。管見に入らずかもしれないが実際、中国の史書には皆無のようである。
(注) 『なかった』創刊号 ミネルヴァ書房 四十四頁
中国に存在しない制度や用語を列島人が使って何らかの問題が生ずるのであろうか。「郡」、「評」のいずれを使おうと、中国との間で問題はなさそうである。「オベンチャラ」問題は撤回された方がよいのではないだろうか。氏はここでも自己矛盾を起こしてしまっている。氏自身の中で整理しなければいけない問題だったと言える。
また、評督は都督の「下部単位」にある役職なので、いわば両者はセットである(注)とも語られているが、中国には「評督が無かった」と氏自身が語ったわけなので、評督が無ければ当然、都督とのセットができることもなくなることになる。ここでも、中国にはない「評」、「評督」を日本が制度として持ったとしても何の問題もないことになる。
8.孝徳紀白雉五年(654年)の問題 ―――旧説撤回というべきか、自己矛盾と呼ぶべきか
8-1 古田氏の自己矛盾の問題
再び同じ著作内で起こった矛盾である。同じ書物内での矛盾は自己矛盾と呼ばれるべきであろうか。氏の孝徳紀白雉五年(654年)の遣唐使記事である(注)。少し長くなるが引用する(注)。
唐朝側は日本国について「その地里」や「国の初の神の名」を問うている。そして「」日本国」の使節団は「皆、問に随って答えた」というのである。ここに、かの『旧唐書』日本伝のはじめに記載された「或いは曰う」「或いは云う」「亦云う」として記された国号・歴史・地理の資料基礎があらわれている。そしてこのとき、例の「其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず。故に中国焉を疑う」という、唐朝側の第一回の判断もまた、生まれたものと思われる。
以上のように、『旧唐書』の記載は、『日本書紀』の記載と密に相呼応し、唐朝との交渉の黎明期を告げている。
(注) 『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房 初版 323頁
ここに記された、「唐朝朝側の第一回の判断」、「唐朝との交渉の黎明期」に注目しよう。ヤマトの王権が唐と接触をしたのは孝徳紀白雉五年である、「第一回」、「黎明期」という言葉がそれを示している。それ以外の解釈が可能とは思えない。二回目の黎明期に相応しくない。また、一回目が二回目であったり三回目であるはずがない。
ところが、古田氏は同書の第四章 Ⅱ二つの王朝(注) では舒明天皇の時代に高表仁が「近畿大和に向かった」と述べることで、日本国の前身のヤマト王権が唐と第一回目の交渉を持っていたことを記してしまっていた。黎明期を迎え当た乃は舒明朝の時代ではなかったのか。これを自己矛盾と呼ばずに何と呼べばよいのだろうか。
(注)同書308頁
もちろん、古田氏は鋭い読みをしていた。孝徳紀の記事が旧唐書』日本国伝から氏によって引用された個所、それは『新唐書』日本伝の咸亨元年(670年)条に対応しているのだが、それはまさしく日本国の最初の遣唐使記事であったと私も考えている。氏の指摘は素晴らしいものであった。
8-2 旧説撤回の問題——違う書物間の不一致
ところが問題はそれで終わらない。違う著作間の間で不一致が起こっているのである。旧説は孝徳朝の遣唐使記事である。これが①になろう。もうお分かりと思うが、6.②で述べたように、古田氏はすでに推古朝が「遣隋使、改め遣唐使を送った」という見解を述べていた。こちらを②新説と呼ぶことができるであろうか。推古朝の遣唐使が孝徳朝の遣唐使に先立っていた。孝徳朝の遣唐使は「唐朝朝側の第一回の判断」をもたらしたのでもないし、「唐朝との交渉の黎明期」でもないことになってしまう。これも、一種の旧説撤回と呼べるであろう。
本論考を終わるにあたって
ある問題について、二つ以上の学説が存在するとすれば、それはまだ解明するべきものとして残されていることになる。今回、私の視点で取り上げた諸問題(それ以外にもあるだろうが)は今後、より精査し解決するべき課題でもある。本稿の終わりはさらなる解明への始まりであった。
また、「古田氏の説に依拠して議論する」場合には、特に氏の説が二つ以上存在する場合には、依拠する説が旧説か新説かを明記し、その根拠も表明されなければならないだろう。