唐書類の読み方 シリーズ その2             谷本茂氏の幾つかの問題提起について 

 

―― 谷本氏との対話のために ――

1  はじめに

議論のための資料  (中華書局による)

『旧唐書』〈日本國伝〉

日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 

或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地 

其人入朝者 多自矜大 不實對 故中國疑焉 又云 其國國界東西南北各數千里・・・

『唐会要』〈日本國伝〉

日本 倭國之別種 以其國在日邊 故以日本國爲名 

自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 呑併倭國之地 

其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉 長安三年・・・

『新唐書』〈日本伝〉

「咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音 惡倭名 更號日本 

使者自言 國近日所出 以爲名 或云 日本乃小國 爲倭所并 故冒其號 

使者不以情 故疑焉 又妄夸其國都方數千里・・・ 

『通典』〈倭國伝〉

倭一名日本 自云國在日邊 故以爲稱

『古代に真実を求めて』(明石書店)第二十七集の一二七頁から一四六頁に載る、谷本茂氏の〈倭国から日本国への「国号変更」解説記事の再検討〉を、私は「そういう読み方も可能なのか」、「私の唐書類の読み方に誤りがあるのか」、などと思いながら興味をもって読んだ。このことが私にとって改めて、『旧唐書』〈日本國伝〉、『新唐書』〈日本伝〉、『唐会要』〈倭國伝・日本國伝〉をより注意深く読む機会にもなった。

しかし、私の出していた結論は谷本氏の出した結論とはやはり異なるものであった。やはり、というのは私自身の説に変更の必要はなかったという確認になったためである。

谷本氏との決定的な違いは、唐書類の〈日本(国〉伝〉は、そこに記述された「曰う、云う、言う」という表現からもわかるように、いわば日本(国)人への「インタビュー記事」、あるいは日本(国)人の「発言集」であったことを踏まえるのか否かが重要だと思われるが、氏の論考からはその点への注目は読み取れなかった。したがって、唐書類の記事は多くが唐の見解をいわば積極的に述べたものではないのだが、氏は日本(国)人の発言の中に真実を見出そうとしていると見受けられたのである。

同時に、さらに重要なことは日本(国)人の発言内容を唐は肯定したのではなく、一言でいえば「疑った」ことであった。『旧唐書』、『唐会要』が次のように同じ表現をしている。「其人入朝者 多自矜大 不實對」、「その国の入朝する人は、多くは驕り昂っていて、誠実な姿勢で答えない」にそのことが表明されているのである。しかし、この「唐の疑い」の意味が谷本氏によっては論じられていない。

                 (頁数のみ示されている引用は氏の上記論文からのものである)

2  『新唐書』〈日本伝〉の「使者不以情故疑焉」の読み方について 

 谷本氏による読み方である。「日本の使者は自らの言うことが事実であると信じて疑っていない」。なぜこのような読み方になったのか。氏の議論を追ってみよう。

 『新唐書』〈日本伝〉のこの一文は通常、氏の紹介する通りおおよそ「使者は実情を述べなかったので、中国側では疑わしく思っている」と理解されている。

 氏によると、この解釈は『旧唐書』に引きずられたものだとされる。『旧唐書』では、「其人入朝者多自矜大不實對故中國疑焉」とあるので、疑う主語が中国と明示されているのに対して『新唐書』では「疑う」の主語は記されていない。「疑う」の主語、あるいは氏の解釈の仕方では「疑っていない」の主語は日本人ととることができる。

また『新唐書』の「情」は『旧唐書』の「実」、「実情」とは異なり、「感情」、「気持ち」の意味であるとされる。以上の理由によって、上記のような読み方になったのである。(以上、一四〇頁)

ここで特に注意しなければいけないことは、中国書局版では純粋の白文ではなく、「使者不以情 故疑焉」というように「情」と「故」の間に区切りを入れている。区切りがあると谷本氏のような理解はできない。「不」が「疑」と切り離されてしまい、「疑わず」とは読めない。これは予断を与える可能性がある。谷本氏は区切りを入れない白文を提示し解釈した。漢文は白文で読めという当然ではあるが、あらためてその教訓が思い出された。素晴らしい試みである。そして、確かにこの一文を「使者不以情故疑焉」として読むと、氏の提示したように解釈することも可能であろう。「日本の使者は自らの言うことが事実であると信じて疑っていない」。しかし、この文章の場合には中国書局の区切りに間違いはなかったのではないか。

氏のような解釈がなされた場合の問題である。この訳の意味が唐にとって日本人の発言や彼らの様子が肯定的に取られているのか、それとも否定的に取られているのかは不明瞭である。

もし肯定的だと解釈すると、「日本国人は真心込めて真剣に話しているので、その発言に嘘はなく自分の発言を疑っていない」ということなのであろうか。ということは、「日本人はまじめである」、あるいは「真実を語っている」という意味になるのであろう。

しかし、この一文を肯定的に理解するとその後の言葉との接続がうまくいかなくなる。つまり、『新唐書』では直後に「又妄夸其國都方數千里・・・」が続く。「又妄夸(また妄りに誇る)」という評価は否定的な評価である。「又」という接続語があるから順接的であろう。ということは「日本の使者は自らの言うことが事実であると信じて疑っていない」、という訳のその意味が肯定的な意味ではなく、否定的な意味になるはずである。例えば、「日本人は“狂信的に”自分の主張が正しいと信じこんでいる」、のようになるのだろう。「又」以下が否定的な意味だと言ことは、その前も否定的評価がなされていることを意味している。だからその場合には、唐は日本国人の発言を「怪しい」という感触を持ちながら聞き、記述したということになるであろう。そうであれば、結局のところ、「唐が日本人の発言に疑いを持っていた」、というところに落ち着くことになる。いかがであろう。この解釈は、後でも指摘することになるが、谷本氏の議論は遺憾ながら私が重視する「中国の疑い」を『新唐書』から取り去ってしまったことにも問題点があった。もとより『旧唐書』だけでなく『唐会要』も「其人入朝者多自矜大不實對故中國疑焉」と明瞭に「中国が疑う」になっている。この点を重視すれば、主語が書かれていない、その点で表現の仕方がよりあいまいな『新唐書』の表現の解釈に拘泥する必要はないのではないかと思われる。

これは、唐書類を総合的に判断してという意味であって、決して『旧唐書』、『唐会要』対『新唐書』で2対1の多数決で決めるという意味ではない。

後の問題とも関わるが、『新唐書』は簡略化されている記述が多い点に注意を払う必要があるようである。『旧唐書』などでは〈日本国伝〉や〈新羅国伝〉などとなっているのに、『新唐書』では「国」が省略されて〈日本伝〉や〈新羅伝〉になっていた。そして、ここでは「疑う」の主語が省略されていた。次は、『新唐書〈日本伝〉』における漢字の「人偏」の省略が問題になる。

3  日本国が倭国を併(あわ)せるのか、日本国を倭国が并(あわ)せるのか 

(以下、一三七頁から一三九頁)

『旧唐書』〈日本国伝〉では「或云 日本舊小國 併倭國之地」、「小国の日本国が倭国の地を併せる、併合する」のに対して、『新唐書』〈日本伝〉ではそれとは逆に、「或云日本乃小国爲倭所并故冒其號」、「倭国が日本国を併(并)せる、併合する」と通常理解されている。これは正しくないと谷本氏は指摘する。『新唐書』の「并」の意味は「並ぶ・並べる」であり、この「并」が「併せる(併合する)」の意味にとられてしまったのは『旧唐書』に「引きずられている」からだ、と。

3―1  「併」、「并」は「併合する」か、「並ぶ・並べる」か

『唐会要』では「或云日本舊小國呑併倭國之地其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉」になっている。『旧唐書』と『唐会要』はここでも類似した表現になっているが、『旧唐書』の「併」よりも『唐会要』の「呑併」の方がより意味が明瞭になっていた。「併」は「呑併」、つまり「併合」の意味合いが強いと思われる。『新唐書』の「并」も「呑并」と考えられる可能性は大きいと思われる。谷本氏が警告しているように、私は『旧唐書』に「引きずられている」のであろうか。

「并」には「人偏」がない、意味は「併せる」ではなく、「並ぶ・並べる」と解せると氏は言う。一般的な話である。漢字から「偏」や「冠」を取り去る略式の表記が古代中国ではよく行われていた。例えば、「銅」から金偏を取って「同」と表してもよい。読みは「ドウ」である。「寺」は「侍」から人偏を取り去ったものとみることができる。読みは「ジ」である。東アジア史研究の西嶋定生氏は偏や冠を取り去っても読み(音)が変わらなければ、取り去ってもかまわないと語る。これに対して、等から竹冠を取り去ったものとみることはできない。読み(音)が「ジ」と「トウ」で異なるからだ(注)。

(注)『シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本』 八六~八七頁 新潮社 一九七九年

ところで、西嶋氏の見解はもっともだとして、もし何の脈絡もなく「同」という文字が出てきたとする。「同」を「銅」とは理解できないであろう。「銅鏡」の場合には、「銅鏡」を目の前にしているという状況などが説明してくれる。「同」とはこの鏡の材質のことを示しているなど、と。その場合には金偏のない「同」で用は足りるだろう。

藤堂明保氏編纂の学研『漢和大辞典』は「併」が「併せる」でもあり「並ぶ・並べる」の意味をもつとしている。また、「并」も「併せる」でもあり、また「並ぶ・並べる」の意味をもつとしている。

では、もし何の脈絡もなく「并」の文字が出てきたなら、「並ぶ・並べる」と「併合」の意味のどちらなのか判別ができるだろうか。また、いきなり何の脈絡もなく「併」の文字が出てきたなら、これも「並ぶ。並べる」なのか「併合する」なのかで迷うところであろう。

したがってこれらは、前後の脈絡から、あるいは周辺の状況から判断しなければいけないことになるだろう。これは『旧唐書』に引きずられるということではなく、『新唐書』の「并」は、唐書類の総合的な脈絡の中で判断しなければいけないことになるのではないかということになる。

これらの史書それぞれの完成時期を見ると、『新唐書』が一〇六〇年なのに対し、『旧唐書』は九四五年、『唐会要』は九六一年である。『新唐書』はそれより先に執筆された『旧唐書』、『唐会要』の作ってくれた脈絡に依拠して書かれていると理解できるのではないだろうか。そのために略式を多用した、と。

特に、『唐会要』に書かれた「呑併」は並ぶ。・並べるという意味とは程遠い。また、『唐会要』の「呑併」と、それと同じ「併」の字を使い、類似の文章になっている『旧唐書』の「併」は「併合」という意味でよいのではないかと推測できる。

以上から、「併」と同音の「并」も「併合する」でよいと考えられる。これは、繰り返すことになるが、『旧唐書』に引きずられたものではなく、唐書類を総合的に見たうえでの判断である。

ということは、私の解釈でも、『旧唐書』、『唐会要』と『新唐書』とで矛盾したことを語っていたことになる。問題は、同じ唐の史書である『旧唐書』、『唐会要』と、『新唐書』が矛盾したことを記述している状態はいかなる事態なのか、それでよいのかという問題が残ることになる。

3―2  「或云」、「疑う」の意味

谷本氏に限らず、これまでの唐書類の解釈では重要な見落としがあったのではないだろうか。それが、「或云日本乃小国爲倭所并故冒其號」の中の「或云」の存在を無視していることである。

この論考の「はじめに」でも述べたように、谷本氏も従来の議論でも、唐書類の〈日本(国)伝〉の「或云」について論究している研究は、管見ながら見当たらない。「インタビュー記事」であることを見失っているのではないか。「或云」が文の先頭にあるにもかかわらず。〈日本(国)伝〉で唐が真実だけを語ろうとしていると考えるとしたなら、それは大きな誤解である。日本(国)人の発言、証言を唐は「曰う、言う、云う」と記述しているのである。しかも、それらを唐は疑っている。唐が「これが真実だ」と記述したわけではない。単なる伝文調であったならば、発言内容の真偽は不明であろう。しかし「中国は疑う」と述べたのである。

九州倭国については、唐はある程度は知っていた。遣使関係があった。だから倭国については「疑い」はなかった。しかし、新規に登場したヤマト王権の実態とその九州倭国との関係などについては、唐は全く知らなかっただろうし、ヤマト王権の遣使者が真実を語らないので理解不能であった、これが私の唐書類の〈日本(国〉伝〉に対する解釈である。

3―3  唐書類の〈日本(国〉伝〉に矛盾があってはいけないのか

「歴史の真実は何か」以前に、「亦曰」、「中國疑焉」によって「唐が何を理解し、何を語りたかったか」をまず把握する必要があるのではないだろうか。

『旧唐書』〈日本国伝〉の「もと小国の日本国が倭国を併せた」、これが歴史の真実だと理解すると、『新唐書』〈日本伝〉の「日本国を倭国が并せた」とは相容れないものとなる。これは、唐の側の記載における混乱なのだろうか。それは唐の側の責任なのだろうか。もしそれが唐の責任ではないとすれば、問題はどこにあったのだろうか。むしろそれは日本(国)人にあった、つまり彼らの発言の混乱から起こった「矛盾」ではないだろうか。

谷本氏は、『新唐書』の「并」を「併合する」ではなく「並ぶ」と解釈することで、従来の説における矛盾の存在を解消してしまった。そのように理解することによって、「日本国と並んで倭国が存在していた」、そして「その倭国を日本国が併合する」という関係だけを残したのでもある。「日本国と倭国の関係」は矛盾がなくスッキリしてしまった。先の2でも述べた通り氏は、唐の「疑う」も消去してしまっていた。スッキリさせすぎていないだろうか。

むしろ矛盾があることこそ、唐が描きたかったことではなかったのではないか。来唐した日本(国)人の真の姿を表現していたのではないだろうか。日本(国)人は遣使の時期によって、また遣使者によっても発言の内容が異なっていた。「倭国が日本国を併合した」と応える者もいた。「日本国が倭国を併合した」と応えた者もいた。したがって、この矛盾は、路線が固まっていなかった時点における、あるいは路線が確定した後でも意思の不統一などによって発言内容に違いがあった、つまり日本(国)人」の混乱から起こったものであった、と。

したがって、これは唐書類の記述がいい加減であったことを示すものではない。むしろ唐書類の〈日本(国)伝〉を解釈する場合に、整合性を求めてはいけない、このように考えられないであろうか。

4 まとめ 倭国と日本国の一体化こそヤマト王権、後のヤマト朝廷が目指したもの

  

谷本氏が問題を提起しながらも論じていなかった問題に触れておこう。氏の論文の133頁である。氏は述べる。

『新唐書』〈日本伝〉咸亨元年 遣使賀平高麗 の記事が『冊布元亀』では、「倭国王」の遣使となっている。『新唐書』により倭国関係記事が日本国の記事として一本化され書き直されている一例であるが、本稿のテーマとは少し離れるので、ここでは詳細な分析は割愛する。

思うに、実はこの問題はこのテーマに関わる重要事項ではないだろうか。最後に本稿のまとめとしてこれを取り上げておきたい。私はこの点を解明しない限り、〈日本(国)伝〉などの謎は解明できたことにはならないのではないだろうかと考えている。

これは『通典』〈倭國伝〉で「倭一名日本」と記していたことと同根の記述である。つまり、「倭国が日本国と一体のもの」という日本国側が主張し続けてきたその懸案事項を唐側が容認、承認していったことを表現している言葉ではないであろうか。唐は「歴史の真実」としてそれを承認したのではない。国家間の政治的「実利・実益」の問題としての決断であったのだろう。「亦曰、中國疑焉」を軽視しないで唐書類を解釈するとこのような結論にならざるを得ないというのが私の考えである。

そして、ヤマト朝廷一元史観を唱える通説の中で特に唐書類が軽んじられてきたと思われるのだが、その原因は、「唐書類には矛盾を含む誤りが多い」、「よってこれらを無視してもよい、あるいは無視すべきだ」という伝統が形成されてきたからではないだろうか。逆に言うと、唐書類の真剣な議論の中に多元史観の正当な根拠が見つかるのではないだろうか。

谷本氏は『旧唐書』や『新唐書』が重要な史資料であり、その中に「倭国と日本国の併合関係」に矛盾があることに心苦しい思いをしていたのではないだろうか。その「矛盾」を解決する読み方はないかと模索したことが今回の読み方につながった、と。これは私の推測に過ぎないが、もしこの推測が正しければ、谷本氏の今回の論考が「唐書類をもっと熱く論じるべき」というメッセージとして受け止めたい。論ずるに足らずと思われるかもしれないが、反論を待ちたい。

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