本居宣長の中国との外交史論 改定版
はじめに
外交史を展開する「馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)」において、宣長は中国や朝鮮半島
の国々とヤマト王権、またヤマト朝廷の外交関係について彼の見解を述べている。ところで、
馭戎慨言の「馭戎」とは「西戎を馭する」、つまり日本より西にある中国や朝鮮半島の国々
を、朝皇(すめらみかど)が支配するという意味であり、ここには宣長独特の「高邁な」近
畿ヤマト中華思想、華夷思想が示されている。
注目するべきは、宣長は結局のところ、ヤマト王権と中国の王権との接触は隋の時代にあ
たる607年が最初であったと主張したことである。中国の史書に書かれた紀元前1世紀の
前漢に始まる倭国と中国の国交、その後、後漢、魏、宋、梁に対する倭国の遣使の記録は、
幾つかの理由によって否定されていく。しかしその際、宣長は中国の史書の内容を真っ向から
否定するのではない。さらに宣長は、少なくとも『馭戎慨言』に関しては、文字の書き換え
というような小手先の改作は行っていない。このことは印象的である。日本古代史研究の常道
として文字の書き換え、特に中国の史書の文字の書き換えを行う「風潮」、自分の解釈に都合
がよいように書き換える「技法」、むしろ、「書き換えの巧みさ」を競っているかのような「流儀」
と対比させるとき、宣長の研究姿勢はある意味で堅実である。
例えば、宣長によると、前漢、後漢、魏、などの史書に書かれた遣使の記録は日本列島からのもの
であることは認めながら、それらは宣長が崇敬する皇朝(すめらみかど)の事績ではなかった、
つまりヤマト王権の行った記録ではなかったとして、ヤマト王権の関与を否定するのである。
このとき、彼は文字の変更によってではなく、彼独自の解釈の仕方によって説明していく。
私はヤマト王権が中国の王権と接触を開始するのは唐の咸亨元年(670年)の唐への
遣使、より正確に言うと「様子見」、が最初であると考えている(注)。中国との国交開始時期
607年は宣長のほうが、私の見解よりも少し早いことになるが、宣長は他のどの学説よりも、
ヤマト王権による中国との国交開始がかなり遅いという立場に立つ。いや、私の知る限り定説的
理解の中では一番遅いであろう。この点で私は宣長に特に興味を持つことになったのである。
本稿では咸亨元年以前にあたる時代、主に斉明紀までの時代について、宣長の外交姿勢、政治姿勢
が特徴的に表れている点を中心に論ずることとする。
(注) 拙稿:「近畿ヤマト王権による初の中国遣使は咸亨元年である」東京古田会会報217号などを参照
第1節 中国との国交関係についての宣長の考え
『馭戎慨言』における中国との国交についての宣長の説を、次のA、B、Cの三つの類型に
分類して、まずそれぞれの個所の注目点を指摘し、必要に応じて問題点も簡単に述べておき
たい。後の第2節でより大きな問題点について論じていく予定である。
なお、以下、ページ数だけを示してあるのは、『馭戎慨言』宣長全集第八巻(筑摩書房)
からのものである。
A.中国の史書にのみあり、『日本書記』にはないこと
B 中国の史書、『日本書記』の両方にあること
同一の固有名が出ている場合、また同一と思われる固有名が出ている場合に
は、Bに含めた。
C. 中国の史書にはなく、『日本書紀』にのみあること
1. A. 「中国の史書にのみあり、日本書記にはないこと」と宣長の解釈
① 『前漢書』地理志 紀元前1世紀の倭国による遣使記事
楽浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時来獻見
② 『後漢書』 107年 倭国王、帥升等の遣使 (以上31頁)
①、②については、まだ皇朝(すめらみかど)による統治が十分に行き渡っていないときに、
「いといとかたほとり(筑紫など)の國造別稲置」などの人々により、「わたくしに」行われた
ものに過ぎないとする。
③ 宋書 倭の五王 讃、珍、斉、興、武 (37~38頁)
国学の先達、讃珍斉興武を天皇名に当てはめようと試みた松下見林の説などを念頭に
置き、宣長は言う。讃珍斉興武の名前に当たる天皇はいない。またどの天皇に当てはめよ
うとしても年代が合わない、と批判している。
五王なるものは朝鮮半島の任那日本府の卿(まえつきみ)が皇朝の名を騙って遣使した
ものと宣長によって解釈されている。
宣長は、讃、珍、斉、興、武は、漢風の一字名に合わせたものという点には触れていな
い。
④ 『隋書』開皇廿年(600年) 「倭王姓阿毎 字多利思比孤・・・遣使詣闕(王宮)」 (41~42頁)
宣長は言う。多利思比弧は男帝であり、推古天皇は姫尊なので合わない。次のB①で述べる、
神功皇后の名を騙ったと同じ、「西の辺(ほとり、筑紫など)のもの」の遣いではないか、
と宣長は言う。
宣長は、皇朝の統制力が及ばない九州などに政治勢力が存在することをここで承認している。
この点は後に第3節でも述べてみたい。
⑤ 『隋書』大業三年(607年) 例の「日出所の天子、日没するところの天子に書をいたす」
は『書記』にはない。
しかし、宣長は『隋書』の記事を承認し、「天子対天子」の対等外交は、ヤマト王権のもの
であったとする。「まことの御使い」であった、「書記にのせられざれども、誠にさぞありけん」
と言われている (42~43頁)
この点で、宣長は開皇廿年(600年)とは異なる評価をしている。日本の天皇が中国に「天子」
と呼ばれたことに、また「対等外交」であったことに気をよくしたのであろう。
『隋書』にある「大業三年、その王多利思比弧が遣使をもって朝貢」の「朝貢」には触れていない。
クレームが付けられるべきであった。皇朝への忠誠心が不徹底と言えるであろう。
『隋書』には存在しないため、ここに載せることは適切ではないが、定説では時期的には重なると
されていることなので触れておく。宣長によれば。大業三年(607年)、推古紀十五年の小野妹子の
遣使は、「皇朝の大御使いのはじめにはありける」と述べている。
逆の言い方をすれば、要するに大業三年(607年)の遣使が中国と皇朝の初の接点であった。この点、
後のC.でも再度触れる。
2. B.「中国の史書と『日本書紀』の両方にあること」と宣長の解釈
① 『魏志』に載る卑弥呼、壹与とは何か。宣長によると、神功皇后の名声が中国まで行き渡っていた。
「筑紫の南のかなたにいていきおひある、熊襲のたぐひなりしもの」が神功皇后の名を騙って、勝手に中国に
遣使したのだと言う。 (32~33頁)
これに対して、なぜ皇朝とは無関係のはずの魏との遣使関係が『日本書記』に記載されているかという
理由は、後代に『魏志』を読んだ者が『日本書紀』の端に小書きにしておいたものを、さらに後の人が本編に
組み込んでしまったとされる。(35~36頁)
これについては何とも検証のしようがないコメントであるが、私はこの個所についは後にも述べる予定であるが、
後代の人の「うかつさ」、ないし「手違い」と読み取ることはできない。私の立場からいうとこれはヤマト王権に
はなかった事績、つまり中国の史書類などから入手した情報を基に、九州倭国の事績を簒奪した最初の事例であった。
② 『隋書』608 裴世清が隋からの遣使として来訪
『隋書』と『書紀』には大きな違いもある。裴世清が列島に来たときの経路である。『隋書』には九州の地名
だけが書かれている。経路としては竹島・一支国・竹斯(ちくし)国などを経て・秦王国(注)、さらに経路
ではないが阿蘇山の名もある。『隋書』に記された地名は九州のみである。
これに対して、『書紀』では裴世清は筑紫についた後、難波の鴻臚館に泊まり、そして都(京)にまで連れられ
ていく。これは『書紀』の編者、私は藤原不比等だと思うが、その策略であろう。私はこれを「筑紫⇒難波セット」
と名付ける。
宣長はこの策略に乗ってしまい、現代の歴史学者による解釈の原型ともなった。中国からの使者は九州を経て
近畿に向かうものという観念が植え付けられていく。次の③で触れる高表仁も、『書紀』では九州経由近畿へ
という行程が記されている。
宣長によれば、これが中国と皇朝が接触した二回目である。
(注)秦王国の場所を特定することは難しい。しかし、竹斯国からは九州内を陸路で進むことに疑問の余地はない。
そして秦王国を経て「海岸につく」とあるので、そこまでは九州内である。
③『旧唐書』、『日本書紀』ともに唐からの使者、高表仁の名がある。(49頁)
しかし、記述の内容には両者で違いがあった。『旧唐書』倭国伝の貞観五年(631年)では、高表仁は
「王と礼を争う」。宣長はこの争いが『書紀』には「見えず」としているが、実際には舒明紀では高表仁は
歓迎されている。この点は倭国伝と舒明紀との決定的な違いである。高表仁と「礼を争う」は大事な意味を持っていた。
このことについては後で第2節の3.で述べる。
④また、高表仁の日本への経路は『隋書』には記述されていない。ところが、『書紀』では対馬を経由して裴世清と
同様に高表仁は「難波津に泊まる」とされている。これを「対馬⇒難波セット」と名付ける。宣長によると、中国と
皇朝との接触の三回目である。
⑤『通典』、『唐会要』の659年の記事に類する記事が、『書紀』斉明五年に載る。唐に蝦夷を伴い遣使する
記事である。(50~51頁)
この点については、拙稿「斉明紀から見える『日本書紀』の虚偽報告 蝦夷征討記事について」東京古田会会報
215号で詳細に述べているので省きたい。
3. C. 「中国の史書にはなく、『日本書紀』にのみあること」と宣長の解釈
①すでに述べた通り、宣長によると、大業三年607年、推古紀十五年に小野妹子を遣使。
推古天皇、小野妹子は書記のみにあるので、B②ではなく、本来はCに記載するほうがよ
いだろう。特に、『隋書』記事と『書紀』の記事を同じものと理解する研究者が多いので、
それらの議論に異論を唱える意味で、ここでも取り扱うことにする。
宣長は「皇朝の大御使いのはじめにはありける」と述べていた。 (42頁)
②推古紀十六年(608年八月) 『隋書』にはなく、『書記』のみに載る謎の国書。小野妹子が帰国したときに、
裴世清が持参したと思われる隋の皇帝、楊帝(煬帝)からの国書である。
「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。、、、、天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、
深い至誠の心があって、遠く“朝貢„されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。」
この国書には宣長にとっての大問題であるはずの言葉には触れられていない。つまり「朝貢」である。この国書で宣長は
一言も「朝貢」について触れていない。また、『隋書』に載る多利思北孤からの遣使が「朝貢」扱いされていたことについて
も宣長は触れていなかった。皇朝が中国に遣いを送ること自体を屈辱と捉える宣長が、「朝貢」に憤らないという不徹底さ
がある。ここでは首尾一貫した態度が見られない。
第2節 宣長の外交問題における基本姿勢
外交問題を論じている『馭戎慨言』における宣長は、中国の史書と日本書紀に書かれたこと、書かれていないことについて
はかなり正確に指摘している。「書記にある」、「書記にはない」、「中国の史書による」、「中国の史書に見えず」
などと記述することで、出典を明確にしようとしている。ただし、宣長の考え方は、日本書紀と中国の史書が食い違う場合には
基本的には日本書紀に従う。さらに、中国の史書の記述と『日本書紀』の記述が不正確な形で統合されてしまうことが起こる
ことがある。宣長の興味深い視点、またその問題点などを見ていこう。
1.A④と⑤の扱いの違いについてである。A④では隋書に書かれた開皇廿年(600年)とその7年後の大業三年(607年)
の扱いが異なる点が興味深い。まず、宣長は開皇廿年の倭国の遣使はヤマト王権とは無関係に、勝手に西の辺なるものが行った
こと、つまり九州の熊襲か何かが遣使して倭国を僭称したものとしている。その理由は、推古天皇は姫尊であるのに、隋書の多
利思比弧は男性である点で不整合があるからとする。この点では宣長は現代の定説派よりも良識がある。男女の違いについて
誠実に解釈し、応えようとしているからだ。そして、この食い違いを回避するために宣長は、魏志における卑弥呼が勝手に遣使した
のと同じ扱いをしている。例の「西の辺(ほとり)なるもののしわざ」だとしたのである。(42頁)
しかし、『隋書』を見れば宣長の言うことはいかに理不尽かがわかる。開皇二十年(600年)の遣使記事に多利思比(北)孤の名
があり、推古天皇が女帝であるので宣長が関わりなしと述べた。しかし、関わりありと述べた大業三年(607年)の遣使記事にも
多利思比(北)孤の名がある。男性である。そして、この時代も推古朝の時代のはずだ。「姫尊」問題はどうなったのか。
『日本書紀』を信じる宣長からすれば、600年も607年と608年も推古朝の時代である。したがって600年、607年、
608年はすべて姫尊の推古が在位していた。裴世清は608年に姫尊と対面することになるが、ここでは男女問題はないがしろ
にされている。考慮が及んでいない。もう一つのご都合主義である。
宣長の心理は明らかである。607年のみ隋書を信じたのは「対等外交」の魅力に引き付けられたからに他ならない。現代の
定説派が無批判に理由も示さずに男性の多利思北孤の「対等外交」に女性の推古を接合するという「学説」の原型を提示して
いるであろう。
宣長はここで文字改訂は確かに行っていないが、自分の都合によって中国の史書を肯定し、また都合によって無視するという
「技」を使っていたことを指摘しておく。また併せて言えば、以上のことは中国の史書だけを肯定して理解する私の立場のほうが、
日本古代史の真実から逸脱しない可能性をもつという教訓も与えてくれそうである。
2.もともと『日本書紀』からは「対等外交」などという政治路線をヤマトの王権が採用するということは読み取れない。
むしろ、推古紀に残るC②の謎の国書には推古天皇が「朝貢」したと記されていた。「朝貢」路線が拒否されていないでい
るのである。
「朝貢」の書かれた国書。これについて通説では全く触れられていないようである。ここで倭国が採用した「対等外交」
の意味を簡単に見ておこう。
まず、中国の王権というと漢民族主体と思われがちだが、それは漢・魏(曹魏)・西晋の時代までである。北方騎馬民族
が北部から侵攻して西晋が崩壊し、漢民族を南方に追いやっていく。このころから混雑が徐々に進んでいったのであろうが。
そして南北朝時代が訪れる。南朝(宋・斉・梁・陳)がいわゆる漢民族主体の王権であるのに対して、北朝(北魏・東魏・
西魏・北斉・北周)は北方騎馬民族の鮮卑主体の王権である。そして北朝系の隋によって中国全土が統一され、南朝が滅びる
ことで南北朝が終焉を迎える。唐は隋の流れをくむ鮮卑主体の王権であった。中華思想における南蛮・西戎・北狄・東夷に
当てはめると、鮮卑は北狄、倭国は東夷に当たることになる。北狄と東夷は対等になることをおさえておこう。
このことを念頭に置いて倭国(九州)の対中国遣使状況を見てみよう。倭国の遣使記事は前漢・後漢・魏・西晋というように
漢民族の王権とのものであった。南北朝の時代にはやはり漢民族系の南朝宋と梁への遣使は行われていたが、鮮卑系の北朝には
遣使がなされていなかった。
しかし状況は変わってしまった。それまで先進の文物を摂取してきた南朝が滅んだからである。ところが、鮮卑系の王権は
早くも北朝の北魏の時代から仏教などを自らに取り入れ、また漢民族の文物を積極的に採り入れ、言語までも漢語を使用する
までになったのである。北朝の流れをくむ隋。そこから学ぶべきものは多い。しかし北狄あがり。隋に対してどのような態度で
臨むのか。多利思北孤は考えに考え抜いた。その帰結が「北狄」対「東夷」の「対等外交」ではなかったか。
そして裴世清や高表仁が中国から列島に派遣された理由はこの多利思北孤による「対等外交」ではなかったか。「朝貢外交」
をするように、「冊封体制の下に身を置きなさい」という説得のために。高表仁が王と「礼」をめぐって争ったその「礼」とは
単に個人の道徳的レベルのものではなく、国家間の位置関係をめぐるものだったのではないだろうか。
隋も唐も列島への遣使の理由を明示していないので推測の域を出ないのだが。そして、その結末が白村江であった、と。
これ対して、『書紀』からは「対等外交」の姿勢も、「礼」をめぐって争う気概もまったく感じられない。この点について、
宣長の見解が得れたらと思う次第である。
3.皇朝を崇敬し、皇朝の尊厳を必死に守ろうとする宣長の姿勢についても語ってみたい。『書紀』によると、裴世清の難波
到着の日付が推古紀十六年六月十五日、ところが入京の日付は八月三日になっている。この間には、五十日ほどの時間のずれ
があった。興味深いのは、宣長はここに注目し、中国の使者が天皇に拝謁することが、いかに有難いことかを強調し、そのことに
腐心している。 (46頁)
また、実のところ「対等外交」にも宣長は納得しているわけではない。皇朝がより上位にあることを意気込みの上では、
望んでいるからである。例えば宣長は、中国の皇帝が「天子」と呼ばれていたことには難色を示している。だから、『御戎概言』
では中国の皇帝を「国王」に格下げしている。さらに、小野妹子の遣使の意図も「勅(命令書を与えること)」にしなければなら
ないとする。つまり宣長によれば、『隋書』にはこう書かれるべきであったと言う。
「もしかの国王などへ詔書たまわんには、天皇隋国王に勅す」 (43頁)
ここでは、皇朝が遣使に出かけたという屈辱は容認してしまう。「命令を下す」ためならば中国から使者を呼びつけるべきで
あろう。わざわざ自分の方から出向くことなどはありえない。解釈上のご都合主義がここにも表れている。自分の満足がいくように
解釈できればよしという姿勢でしかない。
宣長の原則からすれば、日本の皇朝が中国を含め外国と付き合う基本は、皇朝の側から遣使を行うなどということはあっては
ならないということであったはずである。外国の王は皇朝に対しては貢を奉るべき立場にある。言い換えれば、皇朝に対して
諸外国は朝貢する立場にある。「命令を下す」ためであっても自ら遣いを送るなどのことがあってはならないのである。しかし、
そのような建前を捨ててまで自ら遣いを送るとは「かたじけない」ことであると記す。これは、「皇朝の心の広さ」を示した
ものと解釈しているのであろう。こうすることで自らの憤り、あるいは忸怩たる思いを収めようとしているようにみえるのである。
しかし、この立場も、言い換えればこの「納得の仕方」、あるいは「強がり」も、貞観五年(631年)の高表仁以降には
見事に崩れていく。中国から日本への遣使は全くなくなり、日本国からの一方的な遣使しか行われなくなるからだ。ヤマト朝廷の
確立後は、日本国は唐に「朝貢」しか行っていない。この宣長にとっては屈辱的とも思われる事態について、宣長は一言も
触れていない。推古紀の中にあった「朝貢」にも隋書の「朝貢」についても一言も述べなかったのと同様である。宣長としては、
首尾一貫しない姿勢だと言わざるを得ないだろう。
4.『國號考』における「倭」の解釈
宣長は日本国名が初めて登場する咸亨元年(670年)については特に注目していない。この年の遣使が『書紀』における
河内直鯨による遣使に対応すると述べているにとどまっている。(54頁)
しかし、国号改名問題にかかわる「倭」という文字について『國號考』の中で論じている(注)。もともと「ヤマト」という
漢字は「夜麻登」、ないし「耶麻謄」であったが、『古事記』を含め古より「倭」の字をあてて書いていること、そして
「倭」の字が「世にあまねく用ひならへる」のでつかえばよい。『旧・新唐書』にあるように「倭国自悪其名不雅」からといって
嫌う必要はないと述べている。「皇大御國(スメラオオミクニ)の號(ナ)となりては、すなはち嘉號(ヨキナ)なるをや」
とさえ述べている。そうでも言わなければ、宣長は「倭」の字が満載の『古事記』について何も書けなかったであろう。
(注)『國號考』宣長全集第八巻 463~464頁
第3節 宣長の外交史に見る肯定的側面—-宣長の多元的国家観について
もちろんのことながら、宣長は近畿天皇絶対主義である。しかし、宣長は天皇家が日本の広域を支配していた唯一の政治勢力
ではなかったことを、消極的な形ではあるが認めている。このことは、A②③④、B①からも分かる。宣長はヤマト王権「一元論者」
ではなかったといえよう。列島内にヤマト王権以外の勢力を認めている。
一つは、「西の辺のもの」、「筑紫の南のかなたにいて勢いのある、熊襲のたぐいひなりしもの」の勢力である。彼はその存在を
認めている。さらに、ヤマト王権の統制の効かない朝鮮半島にいる日本府の卿も含めると二つの勢力と言ってもよいだろう。もちろん、
ヤマト王権を含めれば三つの勢力が存在したことになろう。彼が「多元的国家観(プルーラリズム)」の立場をとっていることは
間違いないのではないか。この点は宣長の説の長所と言えるだろう。
しかし、このとき彼は考えなかったのであろうか。倭国はA②③④、B①にあるように、漢書・地理史のBC1世紀から隋書の
紀元600年まで、約700年もの長期にわたり中国と国交を継続してきた「西の辺のものたち」は、大した国力と政治力を
備えていたことが推測されたはずである。宣長はそのことに思いを馳せ、「西の辺のものたちもなかなかやるものだ」とは
考えなかったのか。私は宣長が自身のこの「多元的国家観」を正視するべきであったと時代を超えて言いたい。
私の古代史観であるが、大宝律令以前の時代に、古代史の定説・非定説を問わず、ある勢力が既に一元的に日本列島の広域支配を
達成していたという説からは身を遠ざけていたいと考えている。したがって、この宣長の説に内包された「多元的国家観」には
学ぶべきものがあることを確認して、本稿を終えたい。