唐書類の読み方 古田武彦氏の『九州王朝の歴史学』〈新唐書日本伝の資料批判〉について 

私は、古田氏の多元史観を支持して古田古代史学から多くを学んできた。中国の史書に記載された倭国は九州に存在した。これがすべての始まりであった。

しかし氏から学ぶ中で、幾つかの、あるいは幾つもの疑問が浮かんでいることも事実である。古田古代史学の発展を願う立場から、通説やそれに基づく教科書的見解への懐疑を強める意味で、これから幾つかのことを論じておきたい。

今回は主に東京古田会における十月の学習会で取り上げられることになった『九州王朝の歴史学』第四篇〈新唐書の史料価値〉などに焦点を当てる。古田氏議論について疑問点、それは時には氏の学説の中での「自己矛盾」として、また時には論証上の不備という形で現れてきている。これらは古田古代史学の発展のために、取り除かれなければいけないのではないかと考えている。今後、活発な議論に進むことを期待し、その問題提起として本稿を書くことにした次第である。また、古田氏を支持する研究者の中に、安易にとも思える形で古田氏の不十分と思われる学説や立論に依拠している論考が見受けられるので、特に必要な議論だと考えている。後者の具体的な問題点については別稿で述べることにする。ここでは古田氏の議論に関わる問題点に焦点を絞る。

ところで『九州王朝の歴史学』は当初、駸々堂から出版され、後にミネルヴァ書房から出版された。本稿で示されている頁数は、資料参照の便宜上、両出版社ともに記してある。駸々堂1991年第一刷発行のものをまず示し、カッコ内にミネルヴァ書房2013年初版のものを示す。

1節 『旧唐書』〈日本国伝〉の「或曰倭国自悪其名改為日本」

古田氏は、『旧唐書』〈日本国伝〉における「或曰倭国自悪其名改為日本」、つまり「倭国自身が日本国と改号した」の意味を論じている。そして、ここに書かれた文の主語「倭国」が『旧唐書』〈倭国伝〉における倭国であると述べている。氏の頭の中には当然、「九州倭国」のことが念頭にある。『旧唐書』〈倭国伝〉の倭国だと明言しているからだ(注1)。

この議論では、まず前提がおかしい。確かにこの文の主語は「倭国」である。しかし、〈日本国伝〉に九州倭国の人間が登場して発言をすることはない。また、倭国の人間を参考人として召喚したという様子も記述されていない。あくまでも、〈日本伝〉の「曰う、言う、云う」の発言主体は日本国人である。だから氏も言う。これらは「粟田真人、阿部仲麿、空海」などの日本国側の人間の証言だとしている(注2)。

(注1)『九州王朝の歴史学』 第四篇二 121~123頁(101~102頁)

(注2)同上書 第四篇二 128頁(106頁)。さらに、『失われた九州王朝』第四章〈『旧唐書』の史料的価値〉ミネルヴァ2010年初版314頁、では犬上三田耜の名前もあがっている。「推古朝の遣使者と言われる三田耜」が咸亨元年以後の唐書類の証人にはなれない。ここでは不可解な点を指摘するだけにとどめる。

ということは、とても奇妙な状況が起こる。証言者であるヤマト王権の日本人が「倭の名が雅でないので、九州王朝の人が自分たちで倭を日本の名に替えたのです」と「曰う」ことになる。そうすると、これは次の二つのことを意味する。

① ヤマト王権の人間が、九州倭国が近畿ヤマトとは別に存在していたことを承認する。これはどんな事態だろうか。また、

② 日本という雅な名に替えた「功績」を九州倭国に譲るのか。

この①②の問題は議論されなければならないだろう。

  問題の所在はどこにあるのか。日本国人が「曰う」言葉の中に「倭国が自ら名を改めた」というときの「倭国」は、ヤマト王権の人間が倭国を僭称して「曰っている」と解釈するしかない。「私たちの元の名が倭国であり、自分たちで倭国から日本に名を変えただけ」という主張になっていた、と。つまり、この「倭国」は九州倭国の僭称であり、ヤマトの王権による倭国の名の簒奪に他ならない。

言いかえると、この発言の時点におけるヤマト王権の立場は「倭国と日本国は別種」という「多元史観」の立場から、倭国も昔から我々のことという「一元史観」の立場へと変更されていることを意味しているということである(注)。

(注)「ヤマト王権の多元史観から一元史観への転換」についての詳細は、拙稿「日本国の初の中国遣使は咸亨元年である」東京古田会会報217号で述べている。

2節 『新唐書』の資料批判の内容

『九州王朝の歴史学』では、かなりの部分はその否定的側面が論じられている。『新唐書』の資料批判としては、まず誤字・誤植の多さを氏は挙げる。氏はこの論考では、「次用明亦曰目多利思比(北)孤直隋開皇末始與中國通」の「目」を誤字・誤植の類で片付けようとしている(注)。つまり、「目」を不要のものとして、「目」を「無視」する。これは古田氏の嫌った「文字改定」の一種に他ならないのではないか。「目」を含めてこの文章の意味を解釈する必要はないのだろうか。この「目多利思北孤」の訳出上の問題点は次の3節でも述べる。

そこから氏は、天皇名の誤植として孝安が天安、敏達が海達、推古が雄古と記述されていることなどを挙げている。確かに、氏が挙げた以外にも持統が總持と書かれた事例などもある。

(注)以上、『九州王朝の歴史学』第四篇七 156頁(131頁)の「目多利思北孤」に「注17」が付され、その「注17」が166頁(140頁)にある。その「注17」で「目」が氏によって誤植と疑われている。

まず、誤字・誤植の問題は『新唐書』の責任だとはっきりと述べることはできない。『新唐書』に記された天皇名は漢風諡号である。唐は、国交関係のない時代の天皇名については、淡海三船の創作した漢風諡号を760年代以降に一挙に知らされたのであろう。直接に交流のない天皇名に中国が強い関心を持つとは思えない。仮に文字が違っていても、「そんな名前の天皇がいたのか」で済まされてしまうだろう。人名の文字が違っていたとしても、面識もない人間の名である。誤字があっても文の意味は了解できるからである。このことにより、誤字が史書に残ってしまうという場合も起こるだろう。あるいは、書写の段階で書き誤ったという可能性もある。単純に唐の側の責任とは決めつけることはできない。

むしろ、日本の古代史研究者の間に中国の史書は不正確であるという不信感がうまれた一つの大きな要因は、『新唐書』における天皇名の誤字・誤植の問題があった可能性がある。その結果、例えば『魏志』の「南」は「東」の間違いだろう、などの文字改定の風潮も日本の学界の中に創られてきた。氏はこれと変わらない態度に陥ってしまったのか。

そして、ひょっとすると、氏は「目」を無視してしまう解釈にあまり自信が持てないために、「目」の誤植の可能性を「本文」ではなく「注」の中で目立たないように指摘したのだろうか。いずれにしても氏はこの論考では「目」があることが不都合だと思ったのであろう。『九州王朝の歴史学』では「目」を解釈しないで済ませている。

私は別稿で「目」を無視しないで、それを「目する(=目する・見なす)」と読み解釈する案を提出した(注)。文字改定をしないで史資料を解釈するする、これは古田氏から学んだ方法である。

(注)國枝ブログ:常識への懐疑「用明、目多利思北孤の読みと意味」

3節 古田氏の自説変更問題 

一般に、自説を変えるということは起こりうるだろう。研究の進展によって、前説を撤回し新たな説を打ち出だす。研究の前進のためには必要なことでさえある。しかし、新説を展開するときにはその大前提として、まず旧説撤回を表明する、そして次に旧説撤回の根拠が述べられなくてはいけないだろう。

しかし古田氏の場合には、①旧説を変更するときに新説を打ち出す表明をした上で、その理由を示しつつ新説の展開をするときもあるが、②旧説変更についての表明がなく、その理由も述べられないまま新説が展開されることがある。

例えば、推古紀の「遣隋使があった」(旧説)が撤回され、「遣隋使ではなく遣唐使があった」(新説)が唱えられたときは①に当たる。これに対して、「東鯷人が居たのは銅鐸圏」(旧説)から「東鯷人が居たのは九州南部の太平洋側」(新説)に変更したときには何の説明もなかった。②にあたる。先の2節における「目」の扱いは②「旧説変更の表明なし・変更理由の明示なし」、のもう一つの例であった。

4節 「日本が倭国を併せる」と「日本を倭が并せる」

古田氏は、『九州王朝の歴史学』第四篇六で『旧唐書』の「小国の日本が倭国を併せる」と『新唐書』の「日本を倭が并せる」という相矛盾した記述(以下、4節の矛盾と呼ぶ)をどう解釈するのかについて論じている。

同書149~150頁(125~130頁)において、古田氏は、倭を『旧唐書』「日本が倭国を併せる」では「チクシ」と読むのに対して、『新唐書』「日本を倭が并せる」では倭を「ヤマト」と読んで4節の矛盾を回避しようとする。

 まず、再度確認したいことは〈日本(国)伝〉は全体的にインタビュー記事である。発言者は誰か。『旧唐書』では日本国人、『新唐書』では日本人だ。どちらもヤマト王権側の人間である。ヤマト側の人間は、倭が「チクシ」だという考えを持つはずはない。

さらに、別の問題がある。聞き手、また書き手は唐である。唐が和語、言いかえると訓読みの「ヤマト」と「チクシ」の区別を意識するはずもない。倭は唐の漢語読みで「ワwə」であろう。唐がもし「ヤマト」や「チクシ」と聞きそれらを記述するなら、『隋書』にも載る例えば、「耶摩臺」、「竹斯」などのようにそれぞれ書くはずだ。つまり、日本(国)人の側であれ唐の側であれ古田氏の挙げる意味と読みの区別をするはずはないのである。

5節 矛盾は解決していない

さらに氏の4節の矛盾の解決法からは別の問題が生じる。氏の解釈による『新唐書』の日本人の発言内容には意味がない。『新唐書』の「日本を倭が并せる」を氏の述べた通りに訳して読むと、「倭(ヤマト)が日本(ヤマト)を并せる(ヤマトがヤマトを并せる)」となってしまう。同語反復である。この無意味さについて氏は考慮していない。これでは4節の矛盾はやはり解決していない。

6節 4節の矛盾は唐の側の責任か

谷本茂氏も『古代に真実を求めて』二十七集で、この4節の矛盾を解決しようと別の形で挑戦したが、成功したとは言えない(注)。古田氏、谷本氏を含む多くの論者は、両唐書の〈日本(国)伝〉に4節の矛盾があることを「あってはならない」、つまり否定的な問題だと考えることに起因する難問に直面してしまったと思われる。ある研究者はこの4節の矛盾を唐の側にその責任があると捉え、また他の研究者は唐書類の読み方の問題に帰着させようとする。

両唐書間に見える矛盾は、日本(国)人の発言を唐が率直に記述した、その中に矛盾はあったのである。言いかえると、様々な日本(国)人の発言漢にあった矛盾なのではないだろうか。「亦曰」、「中国疑う」などが記述されていることを適切に評価しなくてはならないだろう。「何が語られ、何が疑われたのか」が問われている。

(注)詳細は拙論:「唐書類の読み方  谷本茂氏の幾つかの問題提起について 谷本茂氏との対話のために」で論じる。

7節 『新唐書』に〈倭(国)伝〉が無い理由  

古田氏は言う。『新唐書』に「倭(国)伝」が存在しないのは倭国が『新唐書』の記載された北宋の時代に存在していなかったからだと述べる。あるいはこうも言う。『旧唐書』は「歴史性(唐の時代の前半)」を重んじたのに対して、『新唐書』は「現代性(唐の時代の後半以降)」を重視したことによる、と(注)。

(注)『九州王朝の歴史学』第四篇 五 146~149頁(119~124頁)

確かに『新唐書』が書かれた北宋の時代にはすでに倭国は存在していなかった。しかし、氏の指摘は正しかったであろうか。もし氏の指摘が正しいとする。それでは、『新唐書』〈東夷伝〉に〈高麗伝〉や〈百済伝〉があるのは何故か。説明がつかなくなる。高麗や百済は、倭国と同じような時代に滅びていた。しかも高麗の後継国である渤海もすでに〈渤海伝〉に記されている。それにもかかわらず、〈高麗伝〉はある。だから、なぜ『新唐書』に〈倭国伝〉が存在しないのかについの氏の説明に納得できるものではない。

なぜ、〈倭(国)伝〉はないのか。ここには別の要因がありそうだ。つまり、日本国は強固に主張し続けた。「中国の史書に記載されていた倭国は我々だ、それが今の日本国だ。〈日本伝〉があれば〈倭国伝〉は不要だ。「倭国と日本を併記するような不体裁なこと」はしないでほしい、と。それが『新唐書』に〈倭(国)伝〉が記載されなかった理由であろう。私の推理推測である。

8節 〈日本伝〉が『日本書紀』の立場で書かれている理由

古田氏は〈日本伝〉が古事記、日本書紀の記した「近畿天皇家中心史観にたつ歴史を反映している」、と指摘する(注1)。この点が古田氏のこの論考におけるハイライトである。素晴らしい指摘である。『新唐書』は「日本国の正史の立場を容認した」ため、偽証の責めを、国土の広さ問題に局限したとも言う(注2)。

(注1)『九州王朝の歴史学』第四篇八 159(134頁)。

(注2)『九州王朝の歴史学』第四篇九 161(135頁)

他の多くの論者とは違って、「情をもってせず、ゆえにこれを疑う、また妄りに誇る」、この点を氏は、ある程度は、重視している。唐は疑わしい日本国の主張や立場を無碍に否定することなく、しかし「疑い」については決して撤回しなかった。古田氏は唐の苦悩を見事にとらえた表現であるといえるだろう。したがって、氏はもちろん唐が『日本書紀』に表現された日本国の立場が歴史の真理を語っていると認識したわけでは決してない。終結は唐と日本国との一種の政治的決着、政治的妥協に終わったのであろう。

そうであるならば、古田氏は最初から唐が日本(国)人の発言に疑いを持っていたことから唐書類を考察しなければならなかったのではないだろうか。1節の『旧唐書』〈日本国伝〉の「或曰倭国自悪其名改為日本」に戻る。

『旧唐書』〈日本国伝〉の「倭国が自ら日本国に名を変えた」なども「亦曰」を見逃さないで、日本国人による発言であったこと、そして日本国人の発言がことごとく疑われていたものという視点から理解されなければならなかったはずである。しかし、氏はこの一文を歴史の真理であると受け止めてしまったのである。氏は解釈の視点が定まっていなかったのではないだろうか。

9節 本稿を終えるにあたって 

『九州王朝の歴史学』第四篇〈新唐書日本伝の資料批判〉は次の言葉で始まっている。「日本古代史学には、二つの道が存在する。一は古事記・日本書紀の描く古代日本像を基盤にし、外国の史書に対して批判的に取捨する方法論に立つ。一は、外国史書の記述するところを基本にし、古事記・日本書紀に対して批判的に検討する。この方法論である。」そして、前者の立場を「主観主義」、後者の立場を「客観主義」と呼び、氏は「後者、客観主義の立場に立つ」と述べている(注)。

(注)以上、同書117~118頁(97頁)

日本の外交史に関する限りにおいて、私の立場はこの氏の立場を受け継いでいる。私は、中国の史書が常に客観的で正確であると断言するわけではないが、より客観的と思われる中国の史書に依拠して議論したい。古田氏も客観的と自ら述べた外国の史書、『新唐書』にもっと強く寄り添って解釈を進めるべきではなかったのか、と惜しまれてならない。

天皇名に見られる誤字・誤植の指摘、文字改定と思われる「目」の無視、また中国人には区別のしようもない「倭」の訓読み(「チクシ」と「ヤマト」)を持ち出す。それらを論じ、展開する必要はなかったであろう。

『旧唐書』〈日本国伝〉、『新唐書』〈日本伝〉基本的には、は日本(国)人に対するインタビュー記事であり、日本(国)人が「曰ったこと、言ったこと、云ったこと」が唐によって「疑われている、実がないと思われている、妄りに誇っていると感じられている」、これがキーワードなのではないであろうか。

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