「用明、目多利思北孤」 の読み方と意味

 拙稿、「『 旧唐書』と『新唐書」の間」では新唐書にはヤマト王権、そしてヤマト朝廷の自己主張が大幅に取り入れられる傾向にあった、ということを私は述べてきた。そういう観点で新唐書に初登場した天皇名の中にある「用明、目多利思北孤」について検討してみたい。これをどう読み、またどのような意味かを確定することは古代史における一つの難問であった。

(1)古田武彦氏、内倉武久氏の説について

 古田氏は「古田武彦と『百問百答』」などで「目」を「さっか」、「さかん」と読み、意味は「副官、補佐」だとする。したがって文全体としては、「用明は多利思北孤の副官、補佐役であった」となる。

 『太宰府は首都であった』の著者、内倉武久氏は古田氏の説に賛成し、「目」は副官、属官の意味で、用明は多利思北孤の軍の長官、属官であった、と。氏の言葉で言えば「大和政権自ら『われわれの王は、タリシホコ王朝の家来でありました』と言っていると解釈せざるを得ない」と述べている。そして、「以前から『九州王朝説』を主張している古田さんは『これが大和政権の実態であることは間違いなかろう』とみている」とまで述べる。(以上、『太宰府は首都であった』P131)

 しかし、両氏の考え方は新唐書の文脈を取り違えている。何と、内倉氏は新唐書が「ほとんど大和政権の言い分を取り入れて書いている」(同書P127)と語ったにもかかわらずそのように述べている。すでに八章で述べたように、新唐書はヤマト王権の「自己主張」が大幅に採用されていた。神武天皇が筑紫からヤマトに移ったことまでもが記述されていた。天皇記事、その順序はまるで記紀そのものであった。しかも、文武天皇より前の天皇たちは、中国からすれば同時代史として記録したものではなく、700年代以降に一挙に告げられ、記載されたに過ぎない内容なのである。それらが真実である保証は中国にとっても、また私にとっても無い。

 さらに、天皇名が列挙された新唐書の場所は、例の「或は云う」、「また言う」や「中国、これを疑う」と語られていなかったが、しかし唐側はヤマトの主張を疑ったままであった。その証拠に新唐書日本伝でも「中国、これを疑う」は撤回されていなかった。私の見地からすれば、「虚偽とは分かっていながらも、ヤマトの言う通りに書いておこう」という脈絡である。したがって、新唐書に記述されたものが古田氏、内倉氏が考える歴史の真実に合致しているものとして考察してはならないであろう。

日本伝はヤマトの使いが語ったことあるいは書いたことを書いていることを見落としてはならない。この文脈で見るとき、ヤマト側が用明天皇というヤマトの絶対王者が誰かの副官、補佐の位置にあったなどと語る道理はない。よって、「目」は「副官、補佐」とは別の意味であると考えなくてはいけない。それでは、どのような意味なのであろうか。

(2)ブログ:黒沢正延の古代史探求の説につい

  「目多利思北孤」考における黒沢氏の説が最も適切であると私には思われる。「目」は「目する(もくする)」の「目」である。意味は「見なす、見なされる」。そして「見なす」には意味は二つある。「見なされた」内容は真実であるのと、虚偽であるのとである。

 黒沢氏は虚偽と見なす。その通りだと考えられる。私の言葉で言いかえれば、新唐書には多くヤマト側の「自己主張」、虚偽報告が取り込まれており、その中の一つが「用明、目多利思北孤」であった。

(3)ネット記事、「『目多利思北孤』について」説

(以下、この筆者をネット氏と呼ぶ)

ネット氏は、新唐書日本伝の新唐書日本伝の「用明、目多利思北孤」の様々な異本を取り上げ検討している。以下、ネット氏が挙げているものである。

A 用明、目多利思北孤         新唐書日本伝

① 倭王姓阿毎、名自多利思比孤     北宋版『通典」            

② 倭王姓阿毎、名目多利思比孤     『唐類函』所蔵の『通典』       

③ 倭王姓阿毎、名目多利思比孤     松下見林『異称日本伝』所載の『通典』 

④ 倭王姓阿毎、名曰多利思比孤     松下見林『異称日本伝』所載の『通典』

⑤ 次用明、亦曰目多利思比孤      直隋開皇末、始與中国通『新唐書』

B 王姓阿毎、字多利思北孤      参考:隋書開皇20年より

ネット氏は「目」の意味が内倉氏の「軍の長官」「属官」であることに賛同しているので「目する」、「見なす」という意味とは取らない。そのため、せっかく挙げた上記①から⑤までの赤い字の違いは、いずれかが誤字であると考えることになった。「目」、「自」、「曰」はよく似ている。はたして書き間違えなのだろうか。

しかし、氏が提示してくれたこの資料と元の新唐書Aを見比べ、全体を俯瞰すると、はっきりと見えてくることがある。この資料を利用させていただく。

まず全体の出典はBの隋書である。そして、Bと①から④までは「姓阿毎」が共通しているので、これらを「隋書系の資料」と名付ける。また、「隋書系の資料」では「隋書」のBで「俀(倭)王姓阿毎、字多利思北孤」と明らかに一人の人物の姓と字(あざな)であることは明らかであるから、①から④のどれも同一人物の姓と字であると「見なす」ことができる。

 固有名詞や名詞の字の間違えは正しようがないことが多い。新唐書の天皇名には、持統天皇を「総持」とするなど過ちが多い。もし、書紀にあるこの名を知らなければ、そんな人がいたのか、誰だろう、ということにはなる。しかし、それでも済んでしまうだろう。中国の役人たちも「そういう人がいたのか」で済ませたのだろう。しかし、一般に、字を間違えてしまうと意味が通らなくなる場合がある。

 もし、字を間違えていて文章の意味が取れなかったなら、中国人はそれを放置するのだろうか。いや、むしろ①から④のすべての文書は中国人にとっては意味が取れるので、字の違いがあっても放置され、歴史の中を生き延びてきたのではないだろうか。したがって、これらの字のままで意味が分かるように読まなければいけないだろう。そしてそれが私たちの責務になる。新唐書は誤字が多いとして片づけられて済む問題ではない。Bも①から④も、文字を変更せずに意味が理解できるのである。それでは、どんな読み方が可能であろうか。しかも一人の人物として理解されるように読まなければいけない。

 (4)読み方と意味はこうなる。以下のすべて姓は阿毎である。

 ①の「自」の場合は、「自ら多利思北孤と名乗る」

 ②③の「目」の場合は、「名は多利思北孤と見なす」

 ④の「曰」の場合は、「名は多利思北孤と曰う」

 ここで一言付け加えておきたい。つまり、①と④の主語はヤマト側であろう。では、②③における「見なす」の主語は何であろうか。中国か、それともヤマトか。私は両方可能と見る。もし中国側が主語であれば、ヤマト側があの有名な多利思北孤を用明に比定したいと中国が「見なす」ことになろう。もしヤマトが主語であれば、多利思北孤をよく知らないが、中国にまでその名が轟いている多利思北孤を知らないとは言えない、多利思北孤は用明のことだと「見なす」ことにし、それを中国に伝えたとも考えられる。

 (5)「新唐書系の資料」について

 唐から見れば、Aと⑤のどちらも「自ら名乗る、見なす、曰う」という自己主張に過ぎないと。

 新唐書日本伝の「用明、目多利思北孤」の発話者は日本の人、このように応えた時期は670年か、そこからそれほど遅くない時期だと想定される。唐から多利思北孤の名前は当然出されるであろう。なぜなら唐にとって、隋書に書かれた「阿毎多利思北孤」は消すに消せない記録であり記憶である。なぜ唐にとって多利思北孤は忘れ難いのか。まず第一に、隋書を編纂し多利思北孤の名を記述したのは唐朝自身だからである。第二に、何よりも多利思北孤こそ「対等外交」を仕掛けた張本人であり、倭(俀)国と白村江の戦いに導く原因となった人物だからである。

 ヤマトの使者は、倭国が日本国に名を変えたと主張したであろう。したがって倭国と日本国は別種ではなく同種・同族であると主張する。そうであるからには、唐の側からすればこの多利思北孤とヤマトとの関係、ヤマトの歴代の大王たちとがどういう関係にあるのか、関係があるなら大王の中でどの位置にあるのか、誰の次にくるのか、誰の前かなどを尋ねたくなるであろう。ヤマト側は、意表を突くこの質問に対して最初から明快な応答はできない。「多利思北孤って誰?」から始まり、時間をおいて「私たちの大王の系図を作らなければいけない」と思い立ったのもこの時期のことではないだろうか。右往左往するヤマトの人を見たことが「中国が疑う」ことになる理由でもあっただろう。おそらく、「用明天皇は阿毎多利思北孤であると見なす」とその後のある時点で応えたのであろう。ただし、最初は和風諡号の橘豊日命で。漢風諡号の用明はもちろんずっと後、760年以降のどこかで唐に伝えられたのである。

 以上で一つの難問に私なりの回答を試みた。誤りがあればご教示願いたい。

 

  

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