倭国と日本国
『旧・新唐書』、『唐会要』、『三国史記』〈新羅本紀〉から
はじめに
私は今回与えられた題名、「倭国から日本国へ」を避けて、「倭国と日本国」という題名にした。
その意図は、「倭国から日本国へ」からはある種の前提があるともとれるからである。例えば通説的見解であるが、中国史書に記載された倭国とはヤマト朝廷の支配する国のことを指しており、後に国名を倭国から日本国に改名したというヤマト一元史観の議論がある。あるいは、古田武彦氏の主張であるが、『旧唐書』〈日本国伝〉を典拠にして、「倭国が自ら日本国に名を変えた」という議論がある。
私はそれらから距離を置きたいと考えているため、あえて中立的な意味合いの「倭国と日本国」とした次第である。予断を避けるという意味である。
さて、『旧唐書』倭国伝と『新唐書』日本伝を読み比べると不可思議な記述が数多くある。その一つが『旧唐書』〈倭国伝〉の「倭國者古倭奴國也」とあるのに対して『新唐書』〈日本伝〉には「日本古倭奴也」と記されている。それでは倭国と日本国は同じものと唐が認めたことになると結論付けてよいのだろうか。この問題などを解明しつつ、今回のテーマ、「倭国と日本国」について論じていこうと思う。まず、資料の提示という意味を兼ねて、次の二つの文章を見比べることにしたい。
1. 『旧・新唐書』〈日本(国)伝〉の証言 (以下、中国書局より)
『旧唐書』倭国伝の冒頭
A倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 拠山島而居
東西五月行 南北三月行 B世與中國通 其國居無城郭 以木爲柵 以草爲屋 大
四面小島五十餘國 皆附随焉 其王姓阿毎氏・・・
『新唐書』日本伝の冒頭
a日本 古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南 在海中 島而居
東西五月行 南北三月行 國無城郭 聯木爲柵落 以草茨屋
左右小島五十餘 皆自名國 而臣附之・・・ 其王姓阿毎氏・・・
(天御中主 至彦瀲・・・ 以下、神武から總持(=持統)まで漢風諡号で歴代の天皇が続く)
b 咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音 惡倭名 更號日本 使者自言 國近日所出 以爲名 或云日本乃小國 爲倭所并 故冒其號 c 使者不以情 故疑焉 又妄夸其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外卽毛人云
d 長安三年、粟田朝臣真人・・・
注目するべき主な諸点を挙げてみよう。
Aとa 倭国と日本の部分の内容がほぼ同じ。
A 倭国古倭奴國也 a 日本古倭奴也
B 倭国は「世與中國通(何回も中国と通行があった)」とあるが日本(国)にはそのような記述はない。b に咸亨元年(670年)遣使という記述がある。
日本伝の歴代天皇名は、年代の順序としてはb の後に続くべきものになる。漢風諡号は淡海三船が760年代以降に作成したものだからである。したがって、日本伝の冒頭に咸亨元年の記事が来ることになる。続いてdの記事が来ることで年代順に並ぶ。つまり、「咸亨元年条」、「長安三年条」、「歴代の天皇の漢風諡号」となる。
『新唐書』〈日本伝〉にはc使者不以情 故疑焉 又妄夸 というように使者の発言に留まらず、使者の人格に対する不信感さえ唐から表明されている。『旧唐書』〈日本国伝〉も同様の「疑う」という記事があるが、〈倭国伝〉のほうにはそのような表現はない。いや、他の中国のどの史書にもそのような不信感の表明はないであろう。これを踏まえなければならない。
これらについての見解は、すでにある程度は、東京古田会会報211号。212号「『旧唐書』と『新唐書』の間」、また同会報217号「ヤマト王権による初の中国への遣使は咸亨元年である」で述べている。その要点などとともに、今回のテーマに必要な事項を提示してみよう。
ところで、あらかじめ本論における私の次の用語について説明をしておきたい。
「ヤマト王権」
701年の大宝律令制定以降をヤマト朝廷と呼ぶのに対して、その前の時代の近畿ヤマトの支配体制をヤマト王権と呼ぶ。ヤマト地方が小国の集まりであったのか、それとも統一国家が確立されていたのか否かは不明である。
『旧・新唐書』と〈日本(国〉伝〉
『旧唐書』と『新唐書』を合わせた呼び方が『旧・新唐書』である。
〈日本(国)伝〉については、『旧唐書』などでは日本国、新羅国など「国」が付くのに対して、『新唐書』などは日本、新羅のように「国」が省かれている。〈日本国伝〉と〈日本伝〉を合わせて〈日本(国)伝〉とすることがある。
1-1 ヤマト王権の対中国国交の開始は咸亨元年である
中国の史書類にヤマト王権を思わせる記事は、『旧・新唐書』〈日本(国)伝〉までは存在しない。これはヤマト王権からの中国との遣使関係が咸亨元年までは皆無であったことを示している。
中国は朝貢国が多いことを誇り、臣従国が多いことで自分たちが天子として君臨することの正当性を示すものと考えている。
ヤマト王権は咸亨元年以前にも中国に遣使していた。推古朝や舒明朝の時代についてである。しかし、それらの記事は中国の史書に記載されなかった。それは何故か。
古田古代史研究者の間でよく言われている理由がある。「中国の史書に記載されるのは代表王権だけだ(注1)」、「倭国の一地方勢力に過ぎない国の遣使などは無視された(注2)」などという主張があるが、これは何を根拠にしているのであろうか。遣使関係があったならば、史書に記載されないことは考えにくいのではないのか。
いや、逆に遣使がないにもかかわらず中国の史書に記載された国や地域はある。また、代表王権以外の王権も中国の史書には何らかの形で記載されている。狗(拘)奴国、蝦夷国は代表王権、主要王権ではない。九州倭国はその分国まで記されている。ヤマト王権はそれらの国よりも中国にとって存在感が無かったということになる。
ヤマト王権は中国の史書類にその存在のほんのわずかの痕跡さえも残すことはなかった。咸亨元年までは。
(注1) 古田武彦氏の見解 『失われた九州王朝』第四章「隣国資料にみえる九州王朝」 ミネルヴァ 308頁など。
(注2) 谷川清隆氏も「『書紀』を書いた地群の人々=ヤマト王権の人々」は「主要構成員」ではないため、中国に遣使を送ったにもかかわらず、『隋書』でも『唐書』でも無視されたとする。『古代に真実を求めて』第二十四集 明石書店 198~。199頁など
また、日本古代史のなかで四世紀が空白と言われる理由は、列島と中国との遣使関係がなかったからに他ならない。四世紀は九州倭国との遣使関係がなかった時期である。日本古代史の大枠の理解は少なからず、中国の史書類に負っている。したがって、ヤマト王権が中国の史書類に顔を出さなかったのは、その遣使関係が無かった、つまり「空白」だったからに他ならないだろう。
咸亨元年に先立つ中国の史書に載る列島の遣使関係の記事は、ことごとく九州倭国とのものであり、九州倭国に伴われた蝦夷国のものであったことは言うまでもない。
1-2 〈日本(国)伝〉は、日本(国)人に対する唐によるインタビュー記事であり、唐はそれらを疑ったこと
〈日本(国)伝〉には「曰う、言う、云う」などと日本(国)人の発言が記述されている。つまり伝文調の記述が目に付く。しかも特徴的なことは、その発言などが唐によって不信の目で見られていたことである。
逆に、唐が自信をもって記述したことは、『旧唐書』では日本国は倭国の別種であることと、日本国人の発言を疑ったこと、『新唐書』では日本人の遣使が咸亨元年にあったことと日本人の発言を疑ったことだけの可能性がある。
したがってこうも見ることができる。唐が確信していることで両書に共通しているは、日本(国)人の発言内容が疑わしいということであり、当然のことながら、唐が日本国の実態が日本(国)人の発言からは把握できないということであった。
1-3 咸亨元年とその後のしばらくの唐の姿勢
唐の認識では、どれだけ深くかは別にして、九州倭国は既知の存在であった。蝦夷国も知られた存在であった。その列島から新たにヤマト王権が登場。列島からの遣使ということで、九州倭国との関係、また蝦夷国との関係を問う。唐が把握している列島の王の名などもこの時に問われたであろう。卑弥呼・壹輿・倭の五王・多利思北孤など。当然のことながら、この時の唐の立場は、列島に多元的国家が存在していたことを前提にしたものになる。『旧唐書』〈日本国伝〉冒頭の唐の次の認識、「日本国は倭国の別種である」が表明されていることからも分かる。
1-4 ヤマト王権の衝撃
この唐の対応にヤマトの使者は衝撃を受ける。「我々に先立って列島からの使者があったのか」。「九州の国から中国に遣使がされていたとは」。
唐の質問に対する応答の際に使者はうろたえる。咸冠亨元年当初のヤマト王権の対応は多元の立場での回答にならざるを得ない。倭国とは別種・別国だという認識を持つ唐から、例えばこう尋ねられる。「君たちは九州から来たのではないな」、「倭国とは別の国の使者だな」。
しかし、使者によって受け答えは異なったものになっていた。「倭国を小国の日本国が併せた(『旧唐書』)」と応える者もいる。あるいは「日本国を倭国が并せた(『新唐書』)」と応える者もいた。もとより、「併せる」、「并せる」というヤマトの使者の言葉は日本国と倭国が別種・別国であることを前提にして成り立つのであり、別種・別国であったことをヤマト王権の側も否定できなかったことを意味している。
1-5 倭国と日本国は同種・同国 万世一系路線への転換
しかし、ヤマト王権の対応は徐々に変化していったのであろう。
別種・別国の立場から同種・同国の立場に変わっていく。その象徴的な表現が、『新唐書』〈日本伝〉における、「後稍習夏音 惡倭名 更號日本 使者自言 國近日所出 以爲名 」である。「倭国は我々だ。名を日本国に変えただけだ」、「我々は元々、九州に拠点を置いていたが、近畿ヤマトの地に移った」、など。(注)
(注) 後段(第四節)でも述べるが『新唐書』〈日本伝〉の冒頭にこうある。
自言初主號天御中主 至彦瀲 凡三十二世 皆以尊爲號 居筑紫城 彦瀲子神武立 更以天皇爲號 徏治大和州 (「徏」は「移る、移す」を意味する)
では、このようなヤマト王権の政治姿勢の変更を示すような史資料はあるのだろうか。実は、『唐会要』がその手掛かりの一端を記録していると考えられる。そこから見えてくるものは何かを探ってみたい。
2. 『唐会要』の証言
『唐会要』の日本列島についての記事はその巻九十九の〈倭国〉から始まっている。巻一百には〈日本国〉がある。
その〈倭国〉である。古倭奴國也 新羅東南居大海之中世與中國通。
さらに高表仁の遣使記事などがあり、その後『新唐書』〈日本伝〉でお馴染みの咸亨元年の記事に続いている。
〈日本伝〉に関わる事項が「何故か」〈倭国伝〉に記述されている。一種の錯簡であろうか。実は、錯簡が多いのではないかと考えて、私は『唐会要』を史資料に使うことを躊躇していた。しかし、よく見るとここには重要な手掛かりが存在していたのである。この「何故か」については、最終項の4.で述べたい。
興味深いのは『唐会要』の、〈倭国伝〉に書かれているのだが、「日本国に関する記事」である。
咸亨元年三月遣使賀平高麗 爾後繼來朝貢 則天時 自言其國近日所出 故號日本國 蓋惡其名不雅而改之
ここには『旧・新唐書』にはない情報がある。『新唐書』〈日本伝〉では先のb、cすべてが咸亨元年に行われたかのような印象を与えている。『新唐書』〈日本伝〉を再録してみよう。
b咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音 惡倭名 更號日本 使者自言 國近日所出 以爲名 或云日本乃小國 爲倭所并 故冒其號 c 使者不以情 故疑焉 又妄夸其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外卽毛人云 (このあと d に続く。 長安三年、粟田朝臣真人・・・)
2-1 継ぎ継ぎと遣使
まず、『唐会要』は咸亨元年以後に日本からは「継ぎ継ぎと」、「引き続き」朝貢に来たということを示している。そして『唐会要』〈倭国〉では咸亨元年の具体的中身は遣使賀平高麗だけに留まる。「爾後繼來朝貢」の爾後とは「咸亨元年の後」と読める。さらに「繼來朝貢」とは「何度も何度も唐への遣使があった」という証言である。これはまるで、『旧唐書』〈倭国伝〉でBの倭国が「世與中國通」と記されていたことに匹敵する記述になっている。これこそ、九州倭国が中国と遣使関係を行ってきた証であった。これと同様に「繼來朝貢」はヤマトの王権が唐と遣使関係を持ち始めたことを唐が認めた証拠になろう。ようやくこの時期になって日本(国)も中国に来たかということであろう。ということは再度強調しておくが、咸亨元年まではヤマト王権から中国への遣使が無かったということの唐側の表現であった。
それでは、「繼來朝貢」とはいつの時期のことか。
『新唐書』〈日本伝〉の記述では、まるで日本からの遣使は咸亨元年の一回限りで終わり、その後の日本(国)からの遣使は長安三年の粟田真人を大使とする遣唐使まで三十年ほどの空白があったかのような印象をもたらしていた。この空白期間を『唐会要』は埋めてくれているとも言えるのである。具体的な遣使の様子は不明ではあるが。つまり、日本(ヤマト王権)から668年の「高麗平定を祝して」と言われた高宗治世の670年に使者が送られ、その後継ぎ継ぎと、複数回の遣使朝貢があったことを示している。時間には幅があったのである。この意味が大事である。
日本国は咸亨元年(670年)に中国に初めて使者を派遣した。このとき唐で受けた「ショック」から立ち直り、唐から出される様々な質問に対する回答の用意、ヤマト王権としての様々な政治路線を確立するなど、時間的猶予が必要であったはずである。当然のことながら、中国との遣使関係を強め、唐との交流を深めることにより様々な情報を収集することなどは必須事項であっただろう。
すでに私は、先に示した前稿などで『旧・新唐書』日本(国)伝解釈の仕方についての視点を提起したのだが、『唐会要』の日本国伝はその見解を支持、補強してくれるものだと考えている。日本国は何回か遣使朝貢する中で、徐々にその政治路線を確立していった。そしてその過程で唐が目撃して感じていたことは、日本(国)人は「ああも言い」、「こうも言い」というその紆余曲折した姿ではなかっただろうか。この結果、唐によって「実がない」、「中国これを疑う」と記されることになったのであろう。時には尊大な主張もあったのであろう。遣使者の多くは「矜大・妄誇」である。人格批判ともとれる唐の記述。これが『旧・新唐書』〈日本(国)伝〉の実態だった、と。
2-2 「疑う」を抜きにして〈日本(国)伝〉は理解できない
そして『旧唐書』〈日本伝〉、そして『唐会要』〈日本国伝〉の重要な証言を再度、確認したい。「其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉」とひと塊で表現をしている。『新唐書』〈日本伝〉も表現は異なるが純粋に白文で表すと「使者不以情故疑焉又妄夸」はひと塊で記されている。この唐側の証言を無視する、あるいは適切に評価していないどのような解釈も、この時代の日本列島内の政治状況についての唐の理解を見誤ることになるのではないであろうか。そしてそれは、この時代の正しい列島と、またその唐との国交関係などをも見失うことを意味するであろう。
さらに、『唐会要』の「爾後繼來朝貢」などは、別の視点から見ても極めて重要な記述である。その言葉のすぐ後にこうある。
則天時 自言其國近日所出 故號日本國 蓋惡其名不雅而改之
武則天の治世は690年から705年とされているが、直後にd 長安三年、粟田朝臣真人の遣使記事が続くので、690年から703年の粟田真人来唐の前の時期と考えてもよいだろう。あるいは、則天は高宗の没年が683年で、その後帝位を継承した息子の帝位を即座に廃して自分が帝位につくので、則天時は683年以後であるかもしれない。これが今回のテーマとなっている国号変更に関わる記事である。
したがって、国号変更は咸亨元年(670年)時点ではない可能性が大きくなった。また、粟田真人來唐時に国号の変更が伝えられたという説もとることはできない。それは、『新唐書』にも『唐会要』のどちらにもそれを示唆するような記事は書かれていないからだ。粟田真人の遣使よりも前の可能性が大きい。よって、日本国の名が誰によって名付けられたのかは不明だが、「日本」という国号がヤマト王権によって採用され、また他国に告げられるようになったのは、690年から703年、あるいは
683年から703年と推定できるであろう。
3. 『三国史記』〈新羅本紀〉の証言
『唐会要』の有意義な証言によっても、まだ年代に幅がありすぎる。もう少し絞り込むことはできないであろうか。そのような視点で『三国史記』〈新羅本紀〉を見てみる。
ここには、有名な咸亨元年(670年、文武王十年十二月)の記事がある。
倭國更号日本自言近日日所出以爲名
「倭国は国号を日本と改めた。自ら日の出る所に近いといって、名とした」、と。
だがこれを国名の改号時期と決めるわけにはいかないであろう。『唐会要』の証言では683年ないし690年以降という可能性が高くなっていることからである。また文武王紀の文章内容も唐書類との類似性が目立つ。唐書類から引き写しされたように見える。独自に新羅がその事績を書き記したものではないであろう。また、唐書類が〈新羅本紀〉を模したとは考えられることではないであろう。
〈新羅本紀〉は紛失した新羅の歴史を補うために他史書から借用したところがあるからだ。『三国史記』の資料批判は行われなければいけないだろう。この意味で、国号変更の年を決めるために、文武十年の記事を論拠とする議論が古田氏から提出され(注)、このため古田古代史研究者の間にも多く見受けられる。
(注)古田武彦『失われた九州王朝』第四章「朝鮮側から見た倭と日本」ミネルヴァ 384頁など
しかし、同じ〈新羅本紀〉でも孝昭王七年(698年)三月条である。
日本國使至王引見於崇禮殿
「日本国の使者がやってきた。王は崇礼殿で引見した」とある。これは新羅の独自情報の可能性があろう。会見した王の名と接見した場所まで特定されているからだ。先の『唐会要』の検討から導かれた年代範囲にも収まっている。すると、遅くともこの698年時点までにヤマト王権が対外的に日本国名を名乗りだしていた可能性はあるだろう。
日本名の由来や誰によって名付けられたのかは不明のままであるが。また、日本国への改名が伝えられた外国は新羅が先か唐が先かも不明である。
以上のことから、国際的に日本国号が使用されるようになった時期は、690年から698年の間、あるいは683年から698年の間だったのではないかtいうところまでは詰められそうである。
日本国改号が最初に伝えられた相手は、唐皇帝の則天なのだろうか、それとも新羅王の孝昭王なのだろうか。
4. 古倭奴(国)の主語が倭国でもあり日本国でもあるとは
唐書類についての以上のような観点で、最初に行った問題提起に対する私なりの解釈を示したい。
ヤマト王権には、その政治路線の確立のために咸亨元年(670年)の最初の遣使から則天時(703年)まで、約三十年の猶予が与えられていた。この三十年ほどの間に、九州倭国の歴史から教訓を引き出し、万世一系という政治理念を確立し、その中で倭国と日本国との一体性という政治路線確定し、さらに唐の文物から学びそれらを自国に取り入れていったと思われる。
当初は、倭国とヤマト王権(やがて日本国を名乗る)は別種・別国の立場であったが、次第に同種・同国の立場を確立していったのではないだろうか。神武東進(東遷・東侵)の物語は、自らが九州の出自であることを表明し、九
州もわが国、近畿ヤマトもわが国と主張したものではなかっただろうか。このことは、先にも触れたが、『新唐書』〈日本伝〉で歴代の天皇名が並ぶその最初の文が示している。
其王姓阿毎氏 自言初主號天御中主 至彦瀲 凡三十二世 皆以尊爲號 居筑紫城 彦瀲子神武立 更以天皇爲號 徙治大和州・・・
つまり、「筑紫城に居す」、「徙(移り)ヤマト州を治める」、と。
そしてこのことが、拙稿「近畿ヤマト王権による初の中国遣使は咸亨元年である」でも述べた『日本書紀』孝徳紀白雉五年(654年)の例の遣唐使記事を思い起こさせる。高宗帝に日本国の地里(理)と国の初めの神の名を尋ねられ、「皆、問に対して答えた」と同じ状況である。十六年ほど時間は遡らされているが。
『古事記』に見られる「倭(ヤマト)」名を持つ国や土地と人物、『日本書紀』ではその一部が「日本(ヤマト)」に改名されている。『古事記』と『日本書紀』の連係プレーで、倭と日本の一体性と連続性を主張した可能性はあるだろう。
これらの主張は極めて強固に主張されたのであろう。そこで唐もその主張を次第に受け入れていった可能性がある。歴史の真実と政治的「真実」の葛藤の中で、唐は歴史の真実を放棄し、現実政治の実利を優先していったのではないだろうか。したがって、『新唐書』〈日本伝〉におけるa「日本 古倭奴也」 は唐が大幅に日本側の主張を取り入れたものになったからだと言えよう。また、『通典〈倭国伝〉』に記された「倭国一名日本」などの記述もこの文脈で理解できることになる。
「『唐会要』について最初に感じていた疑問、「『唐会要』〈倭国〉で何故、日本国のことが記述されていたのか」への回答もここにある。私が錯簡と考えていたものも、実は唐側の誤りではなく、倭国と自らの一体性を主張し続けた日本(国)側の主張の強さと、唐側の容認の産物であったといえるのではないだろうか。
ここには国際政治の難しさが背景にあったのだろう。現在の国際関係、政府間の関係を見ればその困難さも理解されよう。
唐の姿勢の転機はいくつかあったであろう。白村江戦の後での高句麗との戦闘、さらに新羅との戦いと葛藤もあり、ヤマト王権・ヤマト朝廷と敵対することも得策ではないという判断もあったのだろう。
また、おそらく長安三年(703年)の粟田真人を大使とする遣使団の来唐は決定的であったであろう。真人が武則天に大いに気に入られた様子が『新唐書』〈日本伝〉に述べられている。一国の大使として立派な人格・品格を備えた人物だと受け止められたようである。そのような政治家を持つ国と友好関係を結ぶことは唐にとっても魅力的なことではなかったか。
そして、九州倭国はすでに衰退し、唐との関係もなくなっていったのだから義理立てする必要もなくなったのであった。