「九州王朝一元史観」を批判する ―― 多元史観の復元・確立のために     その3

第三章 郡・評問題は政治問題になるのか                      2024.6.14

第一節  壬申の乱と郡・評問題の関係とは —― 都督・評督は南朝系なのか 

     

第一項  北朝と「郡」、南朝と「評」

「郡評論争と北魏」は意味が不明瞭でかつ不必要ではないか、というのが私の感想である。

古田氏の講演「壬申の乱の大道」は、「郡・評」の問題から始まっている(「『大道』二、郡評論争と魏」)。それが何故なのか。これに私は戸惑う。「郡・評」問題とは、簡単に言えば、『日本書紀』は「郡」一色であるが、それ以前の時代には日本各地で「評」が使用されていた。このことは出土した木簡などから判明した。ヤマト朝廷が確立し、大宝律令制定以降に「郡」が使われるようになったが、それより古い時代には「評」が使われていた。そしてそのことを『日本書紀』は隠したと古田氏は主張する。氏によると、その理由は「中国の北朝・魏は『郡』を採用していたため、日本書紀は北朝、またその後継の隋や特に唐に『オベンチャラ』を使った」、「我々も北朝側と深く関係を持っていました。そんな嘘のアピール」を行ったからだと言う。が、しかしこれは全く意味不明と言わざるを得ない。

 中国における北朝系が「郡」を採用していたというのはどういうことなのか。氏の『大道』における考えを要約するとこうなる。

①魏志倭人伝を引用していた『書紀』の神功皇后紀が「郡(帯方郡)」を使っていた。神功皇后紀には確かにそのような記述がある。これによって、『日本書紀』は「郡」を使用していたことが示された。

②北魏は魏の後継勢力を自認しているので同系統であると主張する。よって、北朝系の北魏、さらにその後継勢力である唐も「郡」を使用した。

しかし、この①②によっては北朝系だけが「郡」を使用していたという証明になってはいない。たしかに北魏をはじめとした北朝や隋、唐は北朝系、言い換えれば鮮卑を中軸とする王権である。

さらにまた、古田氏の『古代史の十字路』(東洋書林一六八頁)でも郡評論争が取り上げられて、次のように述べられている。

 北朝系の唐が東アジアを征服した段階(北朝が南朝を滅ぼし隋が建国される)で、南朝は「偽朝」とされた。したがって「偽朝」から任命された倭王の「都督」は「偽都督」とされ、その配下の「評督」は「偽評督」とされた。その結果、「評督」の支配する行政単位である「評」も「偽評」とされた。日本列島内においては、都督・評督は南朝系の九州倭国に由来する。したがって、九州倭国にまつわる都督・評督は隠滅されなければならない。そこで、史書(『日本書紀』・『続日本紀』)からも、歌集(万葉集)からも、文書(正倉院文書)からも、「評」は一切、除去されるのを原則とした。「評」の痕跡は地下や地方の金石文等に一部残存に留まった。

近畿ヤマトの勢力以外に九州倭国が存在していたが、『書紀』、『続紀』は都督・評督をセットで隠し、近畿ヤマト一元史観を打ち出した。古田氏は『書紀』およびそれに基づく古代史の定説によるヤマト一元史観を捨て、九州倭国を含む多元史の見地に立たなければいけない、この脈絡で「郡評論争」が氏によって持ち出されたのであろうか。

第二項  「郡」は南朝によっても排除されていない

ところが、三国時代の魏、つまり魏志の魏は漢民族の王権である。魏は言うまでもなく後漢の武将・高官であった曹操が「禅譲」によって樹立した王権であり、「曹魏」とも呼ばれる。これは当然のことながら漢民族の王権であった。神功皇后紀に記されていた帯方「郡」は『魏志』からの引用であるから漢民族のものであった。しかも、『魏志』の帯方「郡」ばかりでなく、『後漢書』には楽浪「郡」という使用例もあったのである。『後漢書』はもちろん漢民族の王権の史書である。その後、漢民族の王権は(西)晋・南朝に繋がっていく。この点については古田氏自身、次のように詳しく明確に指摘していた。(注1)

わたしたちは後代人として、中国の南北朝とも、「天子」があったと考えて怪しまない。しかし、倭(俀)王にとって「天子」は南朝だけであり、いわゆる北朝側は、「北狄」や「胡」の部類であり、「東夷」たるみずからと同列の存在だったのである。このように考えてくると、「中国正統の、南朝の天子」が滅び、「北狄の王朝」たる「隋」が中国全土の唯一の天子たることを誇示したとき、東夷なる倭王が、「俀」を称し(注2)、みずから「日出ずる処の天子」と名乗った、その背景も理解されよう。同じく夷蛮出身の「天子」として、「隋」と「俀」とを対等の位置に置こうとしたのである。

(注1) 『失われた九州王朝』第三章・二人の天子)

      (注2)本論から離れるが、「俀」は九州倭国が自ら名付けたものという見解には賛成できない。拙稿:ブログ「倭国、倭人の倭とは」を参照

 

ここで氏は多利思北孤の王権が「なぜ対等外交に踏み切ったのか、そして最終的には自らを滅ぼす白村江戦に突き進んだのか」、他の誰も論じてこなかった鋭い視点を提起している。これは、私が九州倭国の対中国外交史を考察する際の基本的観点でもあり、近畿ヤマトの外交史を評価する際の根本的懐疑の発する観点でもある。

したがって、神功皇后紀で「郡」と記述されていたのは北魏、つまり北朝系のものだったわけではない。漢民族、南朝系王権が使っていた用語であったことは確認しておく。また、北朝・隋・唐が漢民族ではなく、北方騎馬民族、言い換えれば「北狄」であった。こう指摘したはずの氏は、過去の自分の説と矛盾することを語ってしまったのではないだろうか。

また一般的に言えることだが、中国の王権は前秦の時代から唐の時代まで、「郡県制」と「州県制」とを交互に設定したり廃止したりを繰り返してきている。これらは南朝、北朝の政治的対立とは無縁である。

第三項 北魏と曹魏の関係

ところで、古田氏は北魏と曹魏との関係があったことを別の角度から語っていた。古田氏による北魏と曹魏のもう一つの関係があったと指摘する。北魏の太宗と曹魏の後継勢力である西晋の武帝との交流記事があった。鮮卑族の北魏こそ曹魏の真の後継者である、と(注)。

(注) 『大道』の二・郡評論争と北魏  (氏によって出典が明示されていない)

 しかしながら、北魏が曹魏とのつながりを持つとすれば、それは北魏が曹魏の後継であることを「自ら主張した」ことによる。曹魏に倣って魏と称したのは北魏である。

権力を掌握した者の主張は強く広範囲に及ぶ。北魏の漢化政策は様々な面で徹底して行われた。北魏は漢文化を積極的に取り入れていったのである。したがって国名も「魏」(魏志の曹魏と区別するために北魏と呼ばれる)を名乗り、仏教文化・儒教文化を摂取する。それだけでなく、さらに言語も母語を放棄して漢語が採用され、さらに服装文化も漢式に改めていったのである(注)。

(注) 拙稿:ブログ「倭国の遣使先とその遣使姿勢」 第五節

 曹魏と北魏の近しさは、それこそ北魏が南朝の文化を積極的に摂取することを公式に、また広く表明したことに他ならないであろう。北朝側の親南朝政策は南朝側の施策とは全く関係を持たない。南朝側の史書にそれに対応する記述があるとは考えられない。北魏の「片思い」に過ぎないであろう。

したがって、「郡」を使用した『魏志』の曹魏は北朝と敵対関係となる南朝の宋、斉などに連なっている。南朝が使っていた用語、「郡」を使用したからと言って、北朝系の唐にとっては「オベンチャラ」にはならないし、『書紀』が「郡」と記述したら、この古田氏の論法から言えば、それは北朝系の唐に対する「敵対的行為」になるであろう。

しかし、「郡」は南朝・北朝を分かつ問題ではなかったし、それほど重要な政治的意味を持っていなかったのではないと考えられる。漢民族・曹魏がもともと「郡」を使用しており、神功皇后紀はまさしく『魏志』などからそれを「引用した」、正確には「盗用した(パクッた)」だけのことである。このことで近畿ヤマト朝廷は、もし神功皇后紀を唐に見せたと仮定した上でのことであるが、唐からお目玉でも食らうのであろうか。そのような事態は起こりそうにもなさそうである(注)。この点は確認しておかなければならない。

(注) 私は、『日本書紀』は大和朝廷が「万世一系」などの基本路線、政治思想を確立

するための書であり、また後の世代の官人教育に使用されたものと考えている。『書

紀』に記載された対中国国交記事は、虚偽であることは中国からは即座に見抜かれ

てしまうであろう。

『漢書』地理志から659年の『通典』倭国伝に記載された遣使までは九州倭国と

        のものであることを中国は熟知していたはずである。中国からも、悌雋、長政、裴世

清、高表仁の四人の遣使団が九州倭国に送られていたからである。中国からの遣

使者が、瀬戸内海を航行して、難波や飛鳥に出向いたか否かはすぐに見抜かれてし

まうであろう。『書紀』には神功皇后紀を筆頭に、恥ずべき遣使記事が記載されてい

るからである。東京古田会HPブログ國枝浩、「倭国と日本国」を参照のこと。

第四項 壬申の乱と「郡評問題」の関係とは その二

 さらに、なぜ氏が「郡評」問題を『壬申の乱の大道』の冒頭で語りだしたかについては、その真意は定かではないが、もう一つの理由は、『日本書紀』を信じる定説派の学者を念頭に置き、『大道』“二〟の最後で次のように述べていることに関わるのだろうか。「中国の史書を問題にしなくても良い。我々は『古事記』『日本書紀』を元にすればよい。そういうことを書いている学者がいるが、とんでもない」。『書紀』は疑われなければならない、と。

この点については、その後の『大道』“五〟で、家永三郎氏との論争に関わったことを回想して、「家永氏が天武紀・持統紀は信用できる」と述べたのに対して、古田氏は「『日本書紀』はすべて信用できない」と応答している。「『書紀』は信用できない」という一つの事例として「郡」、「評」の問題が語られたのであろうか。『書紀』には「評」を隠して、その痕跡を消し去り、「郡」一色に染め上げる作為があった、と。

壬申の乱に関して言えば、天武紀・持統紀の嘘、例えば「吉野は奈良の吉野ではなく吉野ケ里の吉野」だという嘘などを指摘し、その嘘の裏にある真実を発見したと自負する古田氏が、「『日本書紀』は疑って読む」、「そのような姿勢から隠された真実を抉り出す」という必要性を示そうとしたのではないか。その一例が「郡評」問題であった。『日本書紀』は、南朝系の九州倭国が「評」を使っていたことを隠すために「嘘」を書いた。北朝系の唐に気に入られようとして、と。

しかし、古田氏の目論見は大きく外れることになった。すでに示された通り、「郡」は北朝の専売特許ではなかったからである。

第二節  「評」は南朝と関わるのか 

第一項  いや、後に氏自身によって否定されている

 さらに古田氏は反対に、中国の南朝は「郡」ではなく「評」を使っていたことを示さなければいけなかったはずである。ヤマト朝廷が「評」を使わず「郡」を使ったことが「北朝の唐に対するオベンチャラ」であると語るのであれば当然ではないだろうか。事実として、中国の史書に漢民族の南朝系が「評」を使った形跡はあるのだろうか。しかし、すでに述べたように南朝に引き継がれていく曹魏の『魏志』も後漢の『後漢書』も、既に「郡」を使っていたことは間違いのないところである。二〇〇〇年一月の講演、『大道』においてはそれについては氏によって語られていなかった。

 ところが驚いたことに、二〇〇六年五月に出版された『なかった』ではこう語られていた。「評督」は中国にはなく、「日本列島独自の称号」、だと述べたのである(注)。ということはどういうことになるのだろう。南朝系であろうと、北朝系であろうと、中国には「評督」は存在していなかった。「評督」は中国の文献資料上には存在しないことになる。管見に入らずかもしれないが実際、中国の史書には皆無のようである。

(注) 『なかった』創刊号 ミネルヴァ書房 四十四頁

中国に存在しない制度や用語を列島人が使って何らかの問題が生ずるのであろうか。「郡」、「評」のいずれを使おうと、中国との間で問題はなさそうである。「オベンチャラ」問題は撤回された方がよいのではないだろうか。氏は自己矛盾を起こしてしまっている。氏自身の中で整理しなければいけない問題だったと言える。

 また、評督は都督の「下部単位」にある役職なので、いわば両者はセットである(注)とも語られているが、中国には「評督が無かった」と氏自身が語ったわけなので、評督が無ければ当然、都督とのセットができることもなくなることになる。ここでも、中国にはない「評」、「評督」を日本が制度として持ったとしても何の問題もないことになる。

 したがって私たちは、「評木簡」の問題については古田氏の議論から離れて追究していかなければいけないことになる。

(注) 『なかった』創刊号 同頁

第二項  「評」の由来とは

 すでに見たように、「評制」は中国とは全くかかわりがなかった。したがって南北朝の政治対立とは無関係であった。そこで今度は、「評制」がヤマトの王権から忌避されたのは九州倭国の支配下で広まったという理由からだと考えてみよう。しかし、それは理由にもならない理由だろう。「評木簡」に南朝系由来とわかる表記でもあったのか。木簡に九州倭国の烙印でも押してあったのか。何をもって「評制」が九州倭国由来のものであったと言えるのであろう。また、仮に九州倭国由来だったとしても、ヤマト王権はその制度を簒奪し利用すれば済むのではないだろうか。九州倭国の史資料を没収し、「禁書」扱いにし、没収・廃棄してしまえば何も証拠は残らないであろう。『記紀』が日本最古の文字文献である強みを利用すればよいだけである。「我々は元々評制度を確立していた」と『記紀』に残せば済んだのではないだろうか。ヤマト王権は、「評制」があったことを隠すためにあえて「郡制」に変更する必要性もなかったであろう。『書紀』は九州王朝の存在を隠しおおせたというのが古田氏の立場である。王権の存在を隠せるぐらいならば、その一つの制度を隠すぐらいのことは容易いことではないだろうか。日本列島に「評木簡」が広まっていたのは何故かという問題自体は興味深い。私の今後の検討課題にもなるだろう。

一つの参考として挙げておくと、「評」についてはwikipediaでは高句麗(『北史』、『隋書』)や新羅(『梁書』)によると朝鮮半島由来の制度だという説がある。新井白石・本居宣長・白鳥倉吉らも「評」は古代朝鮮語に由来すると考えていた、と。確かに『隋書』高句麗伝には「内評」と「外評」とがある。『北史』には「内評」のみがあり、「外評」は記されていない。高句麗(高麗)伝は『隋書』の方が『北史』に比べて内容は簡潔であった。それにもかかわらず、「評」については『隋書』の方が詳しいとはいかなることであろう。そしてまた、『梁書』の新羅伝には「啄(琢)評」の存在が記されている。

「評制度」が朝鮮半島由来であることを指摘したのは新井白石であったが、宣長は『古事記伝』でそれを支持して、「今の朝鮮語に郡県をこほると云」と言った。「こほる」は「評」であろう。それらが事実とすれば、「評」が朝鮮半島からいつ、どのような経緯で日本列島に伝わり定着して、出土する木簡や、古文献にも痕跡をとどめるに至ったのかということが調査・研究されなければならないだろう(注)。そうなれば、「評」と「郡」は中国の南朝と北朝の問題とは、やはり無関係ということになろう。そして、「評」は中国の王権との問題ではなく、むしろ朝鮮半島と日本列島の問題であるだろう。したがって、「評督は日本列島独自の称号」と古田氏は述べていたが、それも妥当な指摘ではなかったようである。

     (注)白石は 「評」を「コホル」、あるいは「コホリ」と記し、宣長は「許冨理」と記した。藤

原宮に「評木簡」が発掘されたのは1967年のことであり、白石や宣長らはそのことは

知らない。それにもかかわらず「評制度」に注目し、さらに『北史』、『隋史』などに「評制

度」の存在を発見した。そしてそれらが朝鮮半島由来だと見抜く。歴史事象の素晴らしい「発掘」である。

第三項 日本列島に残された文書資料の「評」について

木簡からは『記紀』が執筆された時代よりも古い時代の「評」、そして日本書紀には「郡」。ここにはいかなる問題があるのだろうか。日本列島は韓半島とのつながりは多岐にわたる。『古事記』によるとヤマト王権は中国との国交関係にはほとんど触れていない。いや、皆無と言える。むしろ朝鮮半島とのつながりが大きいと。『記紀』には文字文化や仏教の伝来は百済からという記述もある。「評制」も朝鮮半島からの伝来ということは考慮されなければいけないだろう。九州倭国も朝鮮半島の人々やその文物との接触はあったであろう。「評」が列島の広範囲に広まることは当然のことだったであろう。

だから、 『日本書紀』継体紀二十四年(530)に任那に「背評」があったことが記されていたともいえよう。一方で任那が朝鮮半島にあったという理由で『書紀』に「評」が消されずに残ったとも考えられるが、他方で同時にヤマト王権は「評」を忌避したわけではなかったから『書紀』に残ったとも考えられるであろう。

また、古田古代史学派の間でよく引用される『皇大神宮儀式帳』における孝徳朝時代に「立評」されたという問題、これも「評」が隠される必要がとくには無いので残存したと理解できないこともない。大宝律令で新制度の「郡制」が敷かれていたために、古い「評制」を「郡制」に手直ししたということも考慮されなければならないだろう。

 

第三節 都督について

第一項 中国における都督

 そして、ここで一つ確認しておきたい。もう一つの話題の中心にある用語、「都督」についてである。中国の史書に目を通せばすぐにわかることだが、都督は中国では南朝系、北朝系に関わらず一貫して存在していた。中国の王権から見て政情不安定な地域において、政治的・軍事的安定のために置かれた役職である。中国の官人・武人から直接に任命され現地に派遣される場合もあるが、現地の王などの代表が任命される場合もある。例えば、南朝系宋の『宋書』において、倭王武ら倭の王たちが「都督」の肩書を南朝に求め拝命されていたことは有名である。

また、北朝系唐の史書類には都督は多数、あらゆる機会に記されている。これを簡単に見ておこう。『旧・新唐書』列伝・百済(国)では、白村江の攻防地点の一つである「熊津(ゆうしん)」が「都督」として記述されている。また、『旧唐書』の則天武后の時代には、天授(武周ともいう)三年(六九二年)、さらに長安二年(七〇一年)には新羅における「都督」の記事を載せるなど朝鮮半島などの記事に「都督」は散見される。さらに唐の領土内である遼東半島にも「遼東都督」が存在していた。これらは北朝系中国の都督である。したがって、唐側から見て「熊津都督」などが「偽督」という意味合いで扱われているとは言えないであろうし、百済はそのために唐に攻撃されたわけではない。非難されているわけでもない。新羅は葛藤がありつつも唐とは、それが理由になって敵対関係になったわけではない。さらにまた遼東半島についていえば、高句麗との関係で極めて不安定な状況であった。ここは唐から独立・離脱が許容されていたわけではない。また極めて象徴的なことだが、『旧・新唐書』の帝紀、則天皇后冒頭では、彼女の父親が都督と紹介されている。北朝に「偽都督」と非難されることがないことは確実である。

 以上からわかることは、「都督」は南朝系として非難されるカテゴリーでは決してなかったのである。つまり元々、北朝系の唐にとって「都督」にも政治的な意味、民族的な意味は全く存在しなかった。再度繰り返すが、もとより南朝文化に寄り添いながら、自らを南朝化して自己研鑽していった北朝系の王権が、南朝の香りに目くじらを立てる理由はなかったのである。

北朝は南朝文化を採用する中で、「南北朝」という文化的分断状況を解消してしまったのではないだろうか。むしろ南朝が存在する時代も、南朝に「追いつけ追い越せ」ということではなかったか。南朝が滅びた後は追いつき追い越した南朝文化こそ我々の文化だと誇ったと思われる。日本に伝来した中国の文化が南朝式か北朝式かを論じられているのをよく見かけるが、この点は十分に注意しておかなければいけないだろう。九州王朝は南朝系であった。太宰府は南朝系である。それは正しいとしよう。しかし、「法隆寺、前期難波宮、土器・瓦、尺などに南朝式のものがある。よってそれらは南朝系由来のものである、それらは九州王朝の影響下にあった、統治下にあったことの証拠である」など、それらは必ずしも正しい見解とはいえないのではないだろうか。

第二項 日本の都督

また、評督と同様に都督が九州倭国の専売特許なのでヤマト王権によって忌避されたという主張も出されるかもしれないので一言添えておこう。太宰府の都府楼(都督の役所)が南朝系か北朝系かを決定することは極めて難しい問題であろう。

一つには、すでにふれたように北朝系の王権は南朝系の文物を積極的に取り込んでいった歴史がある。北方騎馬民族の鮮卑族は鮮卑族の言葉を捨て、漢文(中国語)を自らの母国語にしていった「実績」さえもっている。北朝系の隋や唐が南朝系文化の影響下で建造物を残さなかったとは言い切れない。

二つには、太宰府の建造年がいつかにもよるが、多利思北孤が遣隋使を送った開皇二十年(600年)以降のことであれば、まさしく北朝系の影響下で建造された可能性もあり、とくに南朝・北朝の政治問題とはかかわりを持たないことになる。太宰府が隋の建国以前の建造ということは考えられない。九州倭国は南朝が弱体化した後の六世紀の間の一世紀ほどは中国に遣使をしていない。中国の皇帝に臣従の意志を表明する一つの形態が「都督」の存在である。遣使朝貢関係が無い時代に、どの皇帝に臣従する「都督」なのだろうか。意味のない「都督」になってしまうであろう。したがって、九州倭国と隋の関係が多利思北孤による「対等外交」などによって仮に「冷えた関係」になっていたとしても、両国のいわゆる冊封関係は維持されていたであろう。したがって、太宰府都督府は北朝系の隋ないし唐に対して臣従するものとしての都督の所在地だった可能性さえある。

三つには、太宰府の都府楼は九州倭国の建造物であっただろう。しかしそれをヤマト王権は自分たちの事績であったと主張することは実にたやすいことであっただろう。実際、太宰府都府楼は唐との遣使関係を持ちながらヤマト朝廷の「出先機関」として活用されてきたのだから、九州倭国由来のものか否かは重要な政治問題ではなかったのである。権力を握った後であればいかなる対処も可能であったであろう。

以上より、「偽都督」、「偽評督」問題は「似非の」問題だったのではないだろうか。

第三節 最後に 

私には「評」と「郡」が中国はもちろん日本においても何か重要な政治的な意味を持っていたとは考えられない。「評」が九州倭国の制度であったということも誰によっても証明されていなかった。したがって、「評木簡」の列島各地への広まりを根拠にして「九州王朝一元的支配」を唱えることは可能なことではないであろう。

さらにな「評制度」については解明されなければならない点を残している。「評」の広まりはどの王権の支配領域とも対応していない。「評木簡」は九州から関東にまで広がっていた。ところが『旧・新唐書』日本(国)伝の咸亨元年(670年)には「山外は毛人」とあった。「山」はおそらく日本アルプスか少し東へ広げても南アルプスが境界であっただろう。それも唐からすれば、ヤマト王権の使人が「妄りに誇って」報告したものと受けとめられていた。「領土を広げすぎ」ではないかと。したがってこの時点でヤマト王権の支配は関東までは及んでいなかったことになる。仮に、「評制度」がヤマト王権の制度だったとした場合には、「評」の広がりと支配領域の広がりは対応していないことになる。また仮に「九州王朝が評制度をつくり、近畿天皇家を支配下に置いていた」と仮定しても同様に、その支配領域と「評」の広がりは対応しないことになる。

もともと、『旧唐書』までの中国の史書が語ってきたことは、九州倭国のテ支配領域はヤマト王権の領域よりもずっと西であったので、「評」の広がりとは食い違っていたのだが。それでは「評木簡」の広まりは何を意味するのであろうか。

九州倭国は確かに実在していた。中国の史書によると、漢の時代から唐の時代の初期までは。倭国との遣使記事がある限りでそれを知ることができる。しかし倭国は白村江敗戦後に衰退し、歴史の表舞台から静かに去っていく。そして、九州から近畿にかけての広域支配という近畿天皇家の活躍の舞台が現れ、ヤマト朝廷による一元的支配が始まった。これが私の古代史観である。

補論 :「九州王朝一元史観」に刺さる三本の吹き矢

古賀達也氏は、「九州王朝説に刺ささった三本の矢」という論考(注)で「九州王朝説」が危うい状況にあるという危機感を表明していた。

   (注)「古田史学の会会報」135号、136号、137号

      古田史学の会のホームページで閲覧可能

古賀氏による「三本の矢」とは何か。

一つは、日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

二つは、六世紀末から七世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

三つは、七世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿である。

これでは九州王朝は近畿を征服できない、家来にできない、家臣にできない、と。しかし、氏の焦燥感が出てくる根源は、氏が「九州王朝一元史観」、つまり「九州王朝」が近畿地方まで制覇しているという歴史観、を抱いているからだと言えないだろうか。

言い換えると、それらは私が考える「九州倭国実在説」に刺さる矢ではない。特に競う「競う必要」がないからだ。

九州には卑弥呼に象徴される王権があった。これは確実。そしてその王権の所在地は基本的に動いていない。卑弥呼を引き継いだ倭の五王。さらに多利思北孤がそれを引き継ぐ。九州倭国は、当然のことながら九州に存在していた。悌雋、長政、裴世清、高表仁も九州に来た。中国の史書類がそれらのことを証明してくれている。このことを危うくするものではない。白村江戦までは。

したがって、古賀氏の挙げた「三本の矢」は「九州倭国の実在論」と、古田氏が当初構想していたはずの「多元史観」に突き刺さったものではない。これら三本の矢は、「九州王朝一元史観」に刺さった矢ではないのか。九州倭国の支配領域を近畿にまで拡張しようとしたときには確かに痛手となる、あるいは致命傷になるであろう。

そして「九州王朝一元史観」そのものを危うくするであろう吹き矢を私は三本放った。それが、本稿「『九州王朝一元史観』を批判する」における、その第一章、第二章、第三章である。そして、その吹き矢の本数はさらに増えていくであろう。

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