「九州王朝一元史観」を批判する ―― 多元史観の復元・確立のために     その2

第二章 近畿天皇家は九州王朝の家臣なのか                2024.6.10

 私が「九州王朝一元史観」と呼ぶのは、白村江戦の時代以前の時代に九州倭国が近畿を含む広域支配を達成していたという歴史観のことである。この中には、この章で論じる「近畿天皇家が九州王朝の家臣」という古田氏の構想も含まれている。果たして九州王朝は近畿天皇家を家臣にしていたのであろうか。

第一節 九州倭国とヤマト王権の関係 舒明=「中皇命の家来」という発想法

第一項 なぜ万葉歌なのか、なぜ舒明歌なのか

古田氏は壬申の乱を論じる講演「壬申の乱の大道」(以下、『大道』とする)で万葉集巻一の三番歌を取り上げている。(注)率直に私の見解を述べれば、壬申の乱については史資料が欠如しすぎているために、氏は万葉集に依拠しようとしたのであろう。主要な史資料が存在していて、万葉歌を傍証として扱うのではなく、主要な資料として採り上げている趣がある。私であれば、壬申の乱は資料不足により「論じない」とするであろう。

しかも、672年の天武が関わるとされる壬申の乱になぜ舒明天皇歌が論じられなければいけないのかというのも不審である。

   (注) 講演:「壬申の乱の大道」は、書籍にはなっていない。以前は「古田史学の会」のホー

ムページから閲覧できたが、現在(‘24年4月27日)の時点では削除されている。再

度、公開されることを願うものである。

(1) 万葉第三歌

まず、その万葉歌である。

〔前書き〕天皇、宇智の野に、遊獮したまう時、中皇尊が間人連老をして獻らしめたまう歌

やすみしし わごおほきみの あしたには とりなでたまひ ゆふべには 

いよりたたしし みとらしの あづさのゆみの なかはずの おとすなり 

あさがりに いまたたすらし ゆふがりに いまたたすらし みとらしの 

あづさのゆみの なかはずの おとすなり

 (2) 第三歌についての氏の解釈

古田氏の第三歌についての解釈・解説を簡単に見ておこう。

この歌の登場人物は古田氏の解釈によれば四人である。

一人は天皇、つまり舒明天皇、歌の中では大王・おおきみ。

二人目は、中皇命(なかつすめらみこと)、天皇が仕える九州倭国の天子、歌の中では朝(=「あした」ではなく、帝・みかど)。

三人目は、中皇命の后、歌の中では夕(「ゆうべ」ではなく「后・きさき」)。

そして四人目は、間人連老(はしひとのむらじおゆ)、大王・天皇に仕え、歌の中では「我」・「わご」として登場する。

 以上が氏の解釈による登場人物と身分である。

しかし、万葉が編纂された時代は天皇の地位が強固に確立され始めた時代の八世紀後半である。つまり天皇が至高の存在と考えられるべき時代に「天皇、おおきみ=大王」の上位に「朝(みかど)=皇命(すめあらみこと)」が存在するという歌が堂々と人目に付く形で残ることはないであろう。これが氏の解釈についての疑問の一つである。

 さらに、歌の逐語訳は私にはできないが、登場人物は次の三人も可能という解釈も成り立つだろう。

一人は大王(何天皇なのかは不明)。

二人目はその妃・「中皇命」。一般には、「中皇命は皇后・大王の后」と解する説もある。その解釈の方がより無難だと思われる。この方が、氏が心配した、九州倭国の天子=中皇命が老に作歌を依頼するためだけでここに登場するという事態を防ぐことができる上に、さらに雌雄両性を具有した人物が歌に登場することも回避できる。また、登場人物を減らして、歌の煩雑さを回避することもできる。

そして三人目が作歌者の間人連老。彼は歌の名人だったのであろう。

この歌からだけではいつの時代かは特定できないが、ある天皇ないし王がいてその妃が官人・歌人の間人連老に歌を詠ませたというシチュエーションは考えられる。以上、九州王朝の天子と大王の二人をともこの歌に登場させない方が無難ではないだろうか。

先にも述べたように、この歌の正しい解釈は不明であるが、古田氏が「中皇命」を「九州王朝の天子」と解釈することで九州倭国の天子がヤマトの天皇、ここでは舒明天皇を家来にするという関係を導き出そうとする意図は明確に読み取ることができる。

(3) 三番歌は舒明天皇に関係する歌なのか –- 万葉歌前書きへの史料批判欠如の問題

歌の前書きについて:『古代史の十字路』(東洋書林8~9頁)で「前書きは二次史料、間接史料、後代史料」と述べて、万葉第二歌舒明天皇の歌を解釈している。

やまとには(山常庭・やまねには) むらやまあれど とりよろう 

あまのかぐやま のぼりたち くにみをすれば むらやまは けむりたちたつ 

うなばらは かまめたちたつ うましくにぞ やまとのくには(八間跡能國者・はまとのくには)

(  )内の読み方は古田氏による。

氏は歌の前書きに対する資料批判から、この第二歌が舒明天皇の歌ではないことを導きだした。歌の内容にも疑いの目を向けていた。「山常」、「八間跡」が定説で「ヤマト」と読まれていることに疑問を呈し、「近畿ヤマト」で読まれた歌ではない、また香具山はヤマトの香具山ではなく、大分の鶴見岳だ、などと語った批判的姿勢。これらは、私にとって古田氏の古代史に最も共鳴できる姿勢、また学説の一つであった。これが壬申の乱を論じる際には消え去ってしまった。 

今、問題になっている第三歌に対する前書きへの資料批判がないことは重大な問題を引き起こしている。第三歌が舒明天皇歌だと氏は『大道』で認定している。その理由は何か。第二歌が万葉集によると舒明歌だからだ。万葉集では「同じ作者の歌がまとめて並べられているはずだ」という定説的理解をここでは無批判に受け入れてしまったと言えよう。「第二歌が舒明天皇に関わる歌ではない」と『古代史の十字路』で述べていたのだから、第三歌も舒明天皇が関与するとは断定できなくなってしまったことになる。氏の自己矛盾である。

したがって、第三歌の作歌者、作歌の時代・作歌場所は改めて探さなければならないことになる。

第二項 『大道』で三番歌が採り上げられた理由

氏は九州倭国を本家、近畿天皇家を分家とする考えを持っていた。その点をここでも再確認しようという意図があったと私は推測する。氏にとって、大王は誰でもよかったのであろう。時代も卑弥呼以降の時代であればよかったのではないか。つまり、この歌の中の登場人物の身分、位取りに意味を持たせようとしていることは明らかではないであろうか。

 つまり先の②で述べた通り、「おおきみのあした」が「近畿大王の皇帝(すめらみかど)」と解釈された、つまり近畿の大王は中皇尊の家臣・家来になったのである。しかも壬申の乱を論じる前提部分においてである。

 ここから氏の意図は次のように読み取ることができるのではないだろうか。壬申の乱において「九州王朝」の皇帝、あるいは天子がいかに重要な役割を果たしたかを示そうとした、「進駐軍の郭務悰」の力を借りて、と。

第二節 古田氏による郭務悰 — 天武の後見人は九州王朝の重鎮であった

第一項 天武と郭務悰 

『日本書紀』天武紀における壬申の乱の時期には天武と郭務悰らとの接触についての記述は

無いが.古田氏は『大道』と『大乱』で両者の関係を指摘している。ここでもまた万葉歌が根拠にさ

れる。いかに強く、氏が壬申の乱を論ずる際に資料の欠如を感じていたことか。私は氏が壬申の乱には触れないほうがよかったのではないかとつくづく思う。

(1) 万葉第二十五歌と万葉第二十七歌を根拠にして述べている

万葉集第二十五歌

みよしのの みみがのみねに ときなくそ ゆきはふりける

まなくぞ あめはふりける そのゆきの ときなきがごと そのあめの まなきがごと 

くまもおちず おもいつつぞこし そのやまみちを 

『大乱』第四章 天武天皇の秘密 145頁

万葉集第二十七歌

淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来見      

通説本=原文改訂   よしのよく見よ よき人よく見   

『大道』 “七〟ではこちらを採用

淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見  多良人四来見

元暦校本他(原典)   よしのよく見 多良人よく見    

 『大乱』ではこちらを採用

  多良: 有明海の西岸の地名、多良人:多良に駐留していた郭務悰のこと

  淑人: 郭務悰のこと    

これらは言葉の類似が指摘されたに過ぎない。み「よしの」、奈良の「吉野」、持統紀の「吉野」、「吉野」ケ里の吉野、というように「ヨシノ」つながりでしかない。とくに、歌の「よしの」は地名であるのかも不明であるし、地名だとしてもそれがどこなのかは特定できない。

また、第二十七歌は、天武が近江に対して反乱を起こす計画に対して、叔き人の郭務悰に「良し」という承諾を得た、という「暗号文」だと氏によって解釈されている(注)。ここでも氏による第二歌の前書きに対するような資料批判はない。天武の歌だという保証はあるのだろうか。万葉集の二十五歌の前には天智の歌、額田王の歌が配列されている。そして直前に天武の歌と称された歌も載せられている。だからこの歌は天武のものだと言い切れるのであろうか。

(注)『大道』 “七〟壬申の乱について

また、もし氏の解釈が正しいと理解している人がいたなら、その人に素朴に尋ねたい。「この歌は壬申の乱に関わる歌ということをどのように証明しますか」、と。

(2) 郭務悰は筑紫に来たのか

さらに、氏だけの問題ではないが、『日本書紀』に書かれた郭務悰が筑紫に来た(以下、来築と呼ぶ)ということを唐書関係の史書と見比べて、郭務悰の来築は「なかった」ことを証明したい。

まず、『旧唐書』日本国伝にも『新唐書』日本伝にも郭務悰来築についての記事は存在しない。それだけでなく「郭務悰」なる人物の存在すらも中国の史書から確認はできていないようである。さらに、『日本書紀』によれば郭務悰の第一回の日本への派遣は天智三年(664)三月条に記されており、百済鎮将劉仁願によるものとされている。『旧・新唐書』百済国伝によれば劉仁願は白村江戦までは百済に滞在していたことが記されている(注)。

    (注) 『旧・新唐書』百済(国)伝 龍朔二年~麟徳二年条

『旧・新唐書』だけから見ると、初回の郭務悰派遣に劉仁願が関わる可能性はある。しかし、665年の直前の『旧・新唐書』百済国伝の記事によると、「詔劉仁軌代仁願率兵鎮守」とある。つまり皇帝の詔によって百済鎮将は劉仁軌にとって代られている。そして、劉仁軌伝にも白村江戦の記事の直後に「仁願至京師」とされていた。仁願は百済にいないことは明らかである。 白村江決着の年、さらにまた劉仁願が百済鎮将であった時期は、唐書類からは「662年、663年、664年のいずれかの年」であったとしか言えない。年号が書かれていないためである。

白村江最終決戦が、一般に663年とされているのは『書紀』天智二年(663)に基づいているのであろう。しかし、唐書類にはその正確な年は記されていない。『旧・新唐書』百済国伝によると、龍朔二年(662)から麟徳二年(665)の手前の記事に書かれている。つまり、麟徳元年(664)までである。劉仁願についても、白村江戦決着の時点までは百済鎮将であった可能性はある。しかし、664年には劉仁願はすでに劉仁軌にとって変えられ、郭務悰を派遣したのは劉仁軌であったという『資治通鑑』に基づいた中村修也氏による指摘もある(注)。いずれにしても、劉仁願は665年の記事の前に百済を去り帰国していたことは確かである。

    (注) 『天智朝と東アジア』NHK出版 78頁

ところが、『書紀』の天智四年(665)以降にあたる記事にも劉仁願の名で中国からの筑紫派遣が行われる。天智六年(667)十一月九日、百済鎮将劉仁願が司馬法聡を遣わしたことになっており、さらに天智十年(671)十月の記事では鎮将劉仁願が李守真らを遣わしたことになっている。このように、これらの『書紀』の記事の正確さは望むべくもない。

これらは近畿ヤマト王権の直接の体験ではなく、白村江戦後の百済からの難民などによる「不正確な情報」に基づく記事であった可能性がある。郭務悰らの唐軍が来築したという根拠としては不確実性が大きいであろう。

      

(3) 『日中歴史共同研究』の証言

また、郭務悰の来築は「なかった」ことは、『日中歴史共同研究』の王小甫氏も、唐が郭務悰らを日本に派遣することが不可能であったと述べ、その理由を三つ挙げている(注)。

(注) 『日中歴史共同研究報告書』Ⅰ 勉誠出版 136~139頁

①まず、唐書にはその記録がないことが挙げられている。白江口(注)という大きな出来事に関わる問題であるから、記事がないということは大問題であろう。当然の指摘である。唐が倭国の状況を把握できていないこともあり、「倭国を経略できるとは考えていなかった」。(同書 136頁)

(注) 王氏を含め中国の史書は白村江とは呼ばず、白江口、白江之口、白江と呼ぶ

②白村江の後、唐と新羅は対高句麗戦を意識しており、倭国のことに対応することなど考えることができなかった(同書 136頁)。私見を加えれば、唐の前身の隋が滅んだ一大要因は、高句麗攻略不成功、激闘による国力の疲弊にあったという点を忘れてはならないであろう。新羅と手を組んでいる白村江後の状況は唐にとって高句麗を打倒する絶好のチャンスであったと言えよう。

③さらに、668年に対高句麗戦勝利後には百済・高句麗の領地分割などをめぐって、今度は新羅との新たな争い・葛藤が起こることになり、倭国への対応は最重要課題にならないままであった、などと述べている(同書 139頁)。

これらの認識は大変重要である。

(4) 「唐書的状況」との矛盾 — 「唐書的状況」と古田氏の唐書類への誤解

私は、唐が日本の国内情勢を全く把握できていなかったことを旧・新唐書日本(国)伝から読み取り、拙稿「旧唐書と新唐書の間」(東京古田会ニュースNo.211、212)にまとめた。要点はこうである。例えば、旧唐書では日本国は「旧小国、倭国の地を併せた、日本国が倭を併呑した」と言われている。これに対して新唐書では倭が日本を併せるところとなる、と言われている。これらの正反対の主張などを含む日本からの使者が語ることが、「・・・と言う」、「・・・と云う」、「・・・と曰う」などと、伝聞調で、しかも並列的・羅列的に記述されていた。そして日本国人の発言のどれも真実としては把握できない、むしろこれらの発言を「唐は疑う」と記していたのである。これは唐が九州北部を除く日本列島内の状況把握がほとんどできていなかったことを示しており、それが唐書の語る真実であった。このような事態を私は「唐書的状況」と名付ける。この用語は、拙稿「旧唐書と新唐書の間」の時点では使われていなかったのだが、この「唐書的状況」という用語の必要性を今は痛感している(注)。

(注) この言葉は、唐書類の日本(国)伝を理解する上でのキーワードになるとともに、この状況を表す簡潔な表現だからである。

これに対して、古田氏は『旧唐書』の日本国伝を根拠にして、九州倭国が「自ら日本国へと名を変えた」という一文のみを取り出して「それが歴史の真実と合致している」と述べてしまっていた(注)。日本国伝に九州倭国の人間が登場して発言することは無い。それでは日本(国)伝ではなくなってしまう。「自ら」とは日本国(ヤマト王権)の使人のことを指している。また、ヤマト王権の人間が九州倭国を代弁して「雅でない名の倭国から雅な名の日本国に名を変えた」などと語るはずもない。古田氏の『旧・新唐書』日本(国)伝に対する誤読・誤解の影響がここにも及んでいると言わざるを得ない。氏の持つ「九州の近畿に対する優位性」という歴史観が唐書類を読むときの先入観になっていることは否定できないだろう。「倭国が主体的に自ら日本国に名を変えた」、それが事実であるとすれば、唐は何も「疑う」ことはなかったのである。唐が日本国人の発言を「疑った」という事実をしっかり見据えて唐書類は読まなければいけないだろう。

    (注) 『失われた九州王朝』 第四章 旧唐書の史料的価値

この視点から、郭務悰来築の問題を考察したい。もし、郭務悰が筑紫にいて、古田氏や『書紀』のように近畿近江にいる天智と一定の交流をする、また近畿出身の天武と筑紫で「壬申の乱」に向けて「密会」をするという状況があったとする。郭務悰は当然のことながら、九州から近畿近江までの地理的、また政治的状況を掌握することになるであろう。そのような状況がなければ郭務悰は、天武に勝算はあるのか、近江の戦力は天武と比較して優勢なのか劣勢なのか判断ができないであろう。そのような状況を把握しないまま、天武に依頼されたからといって安直に、「よし」という返事などは与えられる道理はない。

つまり、乱の当事者に加担するのであれば、郭務悰は列島の様子は九州から少なくとも近畿まで熟知することにならざるをえない。すると、唐は郭務悰からの情報により近畿ヤマト王権、つまり後の日本国の状況を十分、十二分、いや十五分にも把握することになるであろう。「唐書的状況」とは激しく矛盾することになるのである。

よって、私は郭務悰が筑紫に来ていないという結論に至ったのである。

第二項 「九州王朝」の重鎮が天武を支持するという構想

(1) 大分君恵反の活躍とは

 壬申の乱に関心を持ち、天武紀を読む人間でも大分君恵反(おおきたのきみえさか)に何か重

要な印象を残す読者は多くないと思われる。実際、『書紀』の大分君恵反は大事な役割を果たし

ていない。壬申の乱での活躍が目立つのはむしろ高市皇子である。恵反は、天武元年6月24日、

「駅鈴」を求めて動くので5回、その名が出る。さらに、翌26日には高市皇子の供をして天武のも

とに駆け付ける記事で1回登場。これらは印象に残る活躍と言えるであろうか。それにもかかわ

らず、天武4年6月23日には恵反の死の床に天武が詔を与える。「恵反よ、お前は滅私奉公して

身命を惜しまず、雄々しい心で壬申の乱で勲功を立てた」と褒賞する記事が載る。

  恵坂については天武四年を除けば具体的な活動状況は不明であり、なぜ死の床で天武に褒

賞されたのかもその意味を十分には把握できない。

  そして、二千年一月の講演、『大道』では古田氏はこの惠反の「活躍」については何も触れていない。天武は誰かの仲介もなく、一人で「淑き人」郭務悰に会いに行き「良し」の返事をもらう。ところが、同年十月出版の『大乱』で、氏は恵反に極めて重要で印象的な役割を与え、彼に活躍をさせているのである。

『大乱』の氏は言う。「彼が壬申の乱で活躍したことは有名だ」、と。氏は、ドラマチックな恵反の活躍のストーリーを次のように描く(注)。上記、天武紀4年6月23日の記事を念頭に置いたと思われる。活躍が具体的に描かれる。表現力豊かな氏のストーリーを味気のない箇条書きによる引用である。    

(注) (『大乱』壬申大乱の真相 七 194~195頁)

まず、大分君恵反の本拠は大分(おおいた)のようだが、どうやら氏が彼に重要な役割を与えた理由も「おおいた」が決め手なのだろう。

さらに、氏による恵反像である。彼は、

① 九州の陸地と共に「九州内の水軍」、それも瀬戸内海の西域が恵反の勢力圏内に入っていた。

② 白村江に参戦した他の倭国の王たちとは異なり、天智や鎌足らに同調して対唐戦闘態勢から離脱し、参戦しなかった。よって近畿に出兵する「能力」を所有していた。

③ 天武は、有明海に展開する唐の一大船団群、それを“補佐”する大分君恵反配下の船団を眼下に見ながら、「列島内、親唐勢力」の筆頭が恵反であることを確信。

④ これにより天武は唐軍の力を借りる決意をする。

⑤ その後、天武は郭務悰から「ヨシ」の一言を得た。

⑥ 唐軍と恵反の協力を得た天武は、「虎が翼を得た」と評された。

このように大分恵反は高市皇子以上の活躍をすることになる。

(2) 古田氏はなぜ壬申の乱を論じたのか

その理由は、壬申の乱を論じる意欲もあったのだろう。しかし、天武紀で詳しすぎるほど詳細に記述されたはずの壬申の乱。氏はこれを詳しすぎて逆に「ヤバイ」と感じ、壬申の乱に手をつけなかったとも言う。しかし、実態は、詳しすぎるどころか資料不足につき万葉歌を根源史資料にし、氏の「構想力」によって壬申の乱のストーリーを描いてしまったと思われる。やはり、壬申の乱については語られるべきだったのかという疑問は残るであろう。

しかし、同時に氏には壬申の乱を論じる際にもう一つの目的があったと思われる。いや、壬申の乱を梃子にして論じたかったこと。それは、「九州王朝一元論」を完成させるという目的ではなかったか。

壬申の乱の背後にも「九州王朝の影」があった、「九州王朝は近畿天皇家確立に多大な貢献をした、その影響力を残した」と主張したかったのであろう、と私は推測している。

しかし、氏の描いたストーリーは、それはそれで容易には得心しがたい。氏の描いた恵反は天武以上の力を保持していたと言えるであろう。唐軍と最も親密な関係にあったのも天武自身ではなく恵反であった。恵反は乱を後押しするだけでなく、自らが天武を従えて「壬申の乱」の主役になろうと思えば慣れたのではないだろうか。あるいは、大友皇子だけでなく、天武をさえ葬り去ることができたのではないか。虎に翼をつけていたのは天武ではなく恵反であったと言えるほどである。その恵反が自己抑制して天武の「乱」の手助けに留まるのはどういう理由によるのだろうか。恵反が近畿ヤマト王権の血筋ではなかったからであろうか。氏によるストーリーには不明な点が多い。

第三節 九州倭国の天子と近畿の天皇—多利思北孤と用明の関係

さて、先に述べてきた「中皇命と舒明天皇」の関係は、例の「多利思北孤と用明天皇」の関係とそっくりではなかったか。氏がこの歌に見たもの、それは「九州王朝の天子と近畿ヤマトの天皇」の関係性が歴史資料として万葉歌という形で文字に残されていた、ということであったにちがいない。

すでに別のところで述べたことであるが、定説によっては語られることがほとんどない問題でもあり、反定説としての古田氏が取り挙げながら氏が大きな誤解をしていたために、これまでは正しい解釈が行われたことがほとんど無かった『新唐書』の「用明亦曰目多利思北孤」という一文について簡単に再論してみたい。

 古田氏の解釈では、「目」は「サッカ」あるいは「サカン」と読み、意味は「副官」とか

「家来」だと言う。この点について『太宰府は首都であった』の著者、内倉武久氏は古田

氏の説に賛成し、「目」は副官、属官の意味で、用明は多利思北孤の軍の長官、属官であ

った、と。内倉氏の言葉で言えば「大和政権自ら『われわれの王は、タリシホコ王朝の家

来でありました』と言っていると解釈せざるを得ない」と述べている。そして、「以前か

ら『九州王朝説』を主張している古田さんは『これが大和政権の実態であることは間違い

なかろう』とみている」とまで述べる。(注)。したがって、この一文の意味は氏によって、

「用明は多利思北孤の家来だ」になるとされる。

しかし、この解釈には問題が二つある。

(注)『太宰府は首都であった』131頁

(1) 氏の読解法の無理

まず、上の文は古田氏のように「目」を補佐官・家来」と解釈できたとしても、「用明、また家来

は多利思北孤であると言う」と読むほうが自然である。氏は近畿ヤマト王権の用明を九州倭国王の家来と読みたいという期待・願望があったためにこの文の意味を取り違えていたと言えないだろうか。古田氏の読み方には無理があった。

(2) 類似表現から考える

さらに、新唐書日本伝の「用明亦曰目多利思北孤」(これをⒶとする)の一文には唐関係の史書類などに類似表現が存在していたが、氏の解釈はこれらの異本の文の読み方に照らしてみても無理がある。以下は、異本からのものである。

①北宋版『通典』                   倭王姓阿毎、名自多利思北孤

②『唐類函』所蔵の『通典』             倭王姓阿毎、名目多利思北孤 

③松下見林『異称日本伝』所載の『通典』    倭王姓阿毎、名目多利思北孤

④松下見林『異称日本伝』所載の『通典』    倭王姓阿毎、名曰多利思北孤

(①②は孫引きであり、私は原典に接してはいない。)

これらの表現は、次の隋書の一文を元にしている可能性がある。

隋書開皇20年                    俀王姓阿毎、字多利思北孤 (これをⒷとする)    

  

Ⓑには阿毎という人と、それとは異なる多利思北孤の2人の人間がいるわけではない。同一

人物の「姓」と「字」に他ならない。意味は「俀王の姓は阿毎、字は多利思北孤である」と容易に読むことができる。

上の①、②、③、④は「俀(倭)王姓阿毎」が共通しているので「隋書系の資料」と名付けてもよいであろう。そして①から④のどれも、同一人物の姓と字(あざな)であると考えることができる。

ところで、①から④までには文字の違いがある。①は「自」、②と③は「目」、④は「曰」の部分である。どれも文字が似ている。ひょっとしたら、いずれかが正しく、いずれかが誤りだったのだろうか。そう考える研究者は少なからずいる。中国の史書には誤字などの間違いが多い。ここでもその類の誤字が現れたに違いない、と。

(3) 中国の史書における「字の誤り問題」について

少しわき道に入るが、当該の問題の場合は、例えば「目」が正しいと考え、「目」を「「サカン(家来・副官)」と読んでしまうと他の「自」、「曰」は誤りと捉えることになる。字の間違えは正しようがない場合が多い。特に固有名詞などはそうであろう。新唐書の天皇名では、敏達天皇が「海達」になるなどの例がある。持統天皇も「総持」とするなどの誤りが多い。同じ持統天皇が宋史では「持総」と表記されたりもする。もし、中国側が『日本書紀』にあるこれらの名を知らなければ、「誰だろう」、「そんな名の人物がいるのか」、ということにはなる。

実際、知らなかったであろう。しかし、それでも済ませてしまうことができる。中国の官人たちにとって、日本の過去の天皇名はさほど重要な関心事ではなかったであろう。しかも、天皇の漢風諡号などは八世紀後半以降になってからできたものである。したがって、それ以前の敏達、持統などの天皇名は中国側に後代に伝えられたのである。おそらく一気に。同時代を生きた天皇の名前ではないのであるから、仮に字の間違いがあったとしても、中国は「そういう名の天皇がいたのか」で済ませることはできる。文章の流れは掴むことができるからである。

おそらく科挙に合格した中国の優れた官人たちは日本の受験などには合格できないであろう。「一字一句正確に」というのが日本の試験の性格である。日本人にとっては、特に天皇の名前を間違えることなど、時代にもよるが試験の答案でない場合でも決して許されるものではない。「常識」の欠如だと言われてしまうであろう。そして、日本の優れた古代史研究者たちは、中国の史書の誤字を見つけた場合、それに対して寛大ではなかった。「こいつらはこんな字の間違いを犯している。きっと、魏志の「南」も「東」の間違いだったのではないか。方角すら理解できない連中だ。誤字や間違いが見つかったらドンドン訂正しよう!」。このような雰囲気が研究者たちの間に醸成されたのではないだろうか。そして、「巧みな修正ができる者が優れた歴史家である」、という環境まで生み出したに違いない。

この点にさらに付言すれば、定説が中国の史書の文字訂正を平気で行う風潮が作り出されたのは、『新唐書』や『宋史』などの天皇名の誤字の多さが最大の原因、あるいは遠因かもしれない。これが、古代史研究者たちの誤字探しに始まり、さらに中国人は方向感覚も持っていないなど、明らかに内容までにも手を加え改変するところまで進む。「南」と東」のように誤字ではないものまでも変更する、しかも自分の都合に合わせた「我田引水的」文字改訂が行われる風潮を創り出したのではないだろうか。これでは史資料の意味をなくしてしまうことになる。(注)

(注)本題から大きく外れるので、指摘だけにとどめる。おそらく、戦前、終戦直後の中国

に対する敵対視や蔑視も背景にあっての「誤字問題」であった可能性もあるだろう。

  

(4) 「自」、「目」、「曰」の読みと意味

本題に帰ろう。しかしである。もし字の間違いがあって、そしてそれが原因で文章の意味が取れなかったとする。このとき、科挙に合格した中国の優れた官人たちはそれを放置したのであろうか。

ここでの問題に立ち返って考えてみよう。①から④のすべての文書は中国の史官、官人たちにとっては意味が取れるものだったのではないか、と。だから、「自」、「目」、「曰」というように字の違いがあっても放置され、歴史の中を生き延びてきたのではないだろうか。これらの文字の違いは固有名詞の場合とは意味が違う。したがって、①から④までは、これらの字のままで意味が分かるように読まなければいけないだろう。『新唐書』の天皇名には誤字が多いとして片づけられて済む問題ではない、と。そして、字の違いがあったとしても、意味の通るものとして理解すること、それが私たちの果たすべき責務になるのではないであろうか。そのように努力をしてみよう。

もし、古田氏がこれらの異本の存在を知り、それらの文字を替えずに解釈するとしたならば、氏はどのように対処したであろうか。第一次資料である中国の史書は理由もなく文字を変更してはならない、原文のままに読む。これが古田氏の信念であり、方法であった。氏の回答は分からないが、氏の提示したその方法で考えてみよう。

ただし、念頭に置かなければいけないことが一つある。同じことを何回も繰り返すが、「用明亦曰目多利思北孤」の記されたのは『新唐書』日本伝であり、これを伝えたのは日本、ヤマト朝廷側である。

すると、①から④のいずれも文字を変更せずに意味が理解できるのである。次のような読み方と意味になる。

①は「倭王の姓は阿毎、名は自から多利思北孤とする」

②、③は「目」を「もくする」と読み、意味は「見なす」である。「倭王の姓は阿毎、名は多利思北孤だと目する(見なす)」

④は「倭王の姓は阿毎、名は多利思北孤と曰う」

よって、「自」、「目」、「曰」はどの字も間違いではなかったし、読解可能であった。だから、これら

すべての文字が歴史の中を生き延びてきたのではないだろうか。したがって、Aの「用明、亦曰目多利思北孤」は、「用明をまた、多利思北孤と見なすと曰う」、という意味になる。

  

用明を含む天皇の漢風諡号は淡海三船によって八世紀後半以降に作られた。したがって、用明の名が唐に伝えられたのは咸亨元年(670)の時点ではない。日本国の正規の遣唐使が「多利思北孤は用明に当たる、用明と見なす」と回答し、それが『新唐書』日本伝に記載されたのであろう。咸亨元年からかなり時間が経った時点で。

古田氏の構想する「中皇命と舒明天皇」の関係は「多利思北孤と用明天皇」と同様の関係に等しいのだろう。万葉歌の中に文字資料として「九州倭国の天子とヤマトの天皇の主従関係」の証拠を見つけた、これが氏の解釈の根底にあったと思われる。九州が本家、ヤマトは分家という想定、この枠の中から出てきたのが氏による「用明亦曰目多利思北孤」の読みと意味の解釈であった。そのような氏の誤解の原因は、氏が『旧・新唐書』の「唐書的状況」を把握できていなかったことに起因していると考える次第である。

 以上から、古田氏が「九州王朝は近畿ヤマト王権を支配していた」という構想は、ここに論じられた諸点からは成り立たないことになった。

                                              第三章に続く

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