「九州王朝一元史観」を批判する ―― 多元史観の復元・確立のために     その1

                                2024.6.9

はじめに  

本稿は、2024年4月27日の東京古田会における研究発表のために書き上げた原稿を基にしている。しかし、そのときの私の主要な資料の一つが、出版されていない古田氏による講演「壬申の乱の大道、以下『大道』とする」であった。私は、以前「古田史学の会」のホームページでこの講演を見つけプリントアウトしていたが、4月27日の時点ではホームページで閲覧できなくなっていた。このため、『大道』の講演内容を御存じない参加者にとってわかりにくいものになってしまった。この第三章も、『大道』にある程度は触れることになる。この点をあらかじめお断りするものである。なるべく論旨がわかるように若干、書き改められてはいるが。

また、改めて「古田史学の会」ホームページで『大道』の閲覧が可能になるように期待する次第である。

本稿の大きなテーマは古田氏の「九州王朝一元史観」に疑問を呈することである。古田氏の「九州王朝一元史観」とは何か。氏の見解は次の言葉に端的に表されている。古田氏は言う。

「卑弥呼の時代には、大和盆地は女王国の勢力範囲に入っていたのではないか。」(注)

つまり氏によると、「九州に王権が存在した」ということに飽き足らず、三世紀の卑弥呼の時代に「九州王朝は九州にとどまらず近畿地方までも支配下に置いていた」ということになる。ということは、近畿の勢力は九州王朝によって支配される、またはそれに従属することによって、「独立した国」ではなかった、「一つの分国」として数えられるべきだと主張したことに他ならない。

さらに氏は、様々な論考でも「九州王朝の天子に臣従する近畿天皇家」という歴史観を提出している。私はこれらの見解を「九州王朝一元史観」と名付けている。

なお、私は氏の「九州王朝」という用語は使用しないで、「九州王権」、あるいは「九州倭国」という語を使っている。「王朝」はいかにも「全国制覇」、あるいは「広域制覇」をイメージさせるからである。

(注) 『古代に真実を求めて』第六集 2003年「神話実験と倭人伝の全貌」51頁

  

 近畿ヤマトの王権、後に天皇家と呼ばれる勢力以外に王権は考えられないという定説的古代史に対して敢然と立ちあがった古田氏。

『失われた九州王朝』で九州に王権があり、『関東に大王あり』で関東に王権があり、『真実の東北王朝』で東北にも王権があり、さらに、近畿にもあったであろう。

近畿天皇家一元史観に対抗するべく「多元史観」を打ち出したはずの古田氏。近畿の一元史観に対抗する意識の高揚からか、氏は反対に「九州王朝一元史観」にまで突き進んでしまったのであろうか。

 本稿は、氏が提起したはずの「多元史観」を支持する立場から、氏の「一元史観」への批判を試み、それによって日本古代の多元的歴史観を復活・確立させることを目指すものである。

「九州王朝一元史観」に突き進むために、氏はいくつかの根拠を挙げている。その中から三つに絞って問題の所在を探ってみたい。その一つ目が「狗奴国=銅鐸圏=東鯷国は成り立つのか」、その二つ目が「近畿天皇家は九州王朝の天子の家臣なのか」であり、その三つ目が「“郡評〟問題は政治性を持つのか」についてである。今回は、その一つ目、「狗奴国=銅鐸圏=東鯷国は成り立たつのか」について論じるものである。

第一章  「狗奴国=銅鐸国=東鯷国(とうていこく)」という等式は成り立つのか

第一節 狗奴国は銅鐸圏には存在しない

(1) 『後漢書』倭人伝は長里で書かれたのか、短里で書かれたのか

 『後漢書』倭人伝の范曄は述べる。

自女王国東渡海千余里 至狗奴国   狗奴国は女王国より海を渡って東へ千余里(注)

(注)『後漢書』では狗奴国ではなく「拘」奴国と記述されているが、本稿では狗奴国に

統一して表記することがある。

この一文についての古田氏の解釈である。『魏志』倭人伝では陳寿は短里で書いた。1里=75mほどになる。私はこれに賛同し、「“万二千里”考」を書いた。(東京古田会ニュースNo.125)

 しかし古田氏は、漢の時代は短里ではなく長里なので『後漢書』は長里で書かれたとする。その考え方だと1里は435m。狗奴国は女王国(筑紫)から千里で435km。余があるので少し長めに見積もって、500kmあたりか(注1)。直線距離で「銅鐸圏」の中国地方東部・四国・兵庫・京都・奈良・大阪など近畿圏に到達するのであろうか。参考として示すが、山陽自動車道経由で福岡から大阪は611.2kmになる。銅鐸圏の西の端に到達するか否かであろう。古田氏は銅鐸圏に到達すると考えた(注2)。

ダイアグラム

自動的に生成された説明

(注1) 上図は氏が記載した地図

銅鐸圏は中国地方東部から近畿地方にかけて存在した。氏は九州を中心にした銅剣・銅矛・銅戈圏を銅矛圏と呼んでいる。『邪馬壹国の論理』2010年「銅鐸人の発見」 ミネルヴァ書房 234頁

(注2) 『古代に真実を求めて』第六集 2003年「神話実験と倭人伝の全貌」明石書店 41頁

             

 ここでの問題点である。もしジグザグに進むとすれば、近畿圏には到底、到達しないだろうが、そのことについて今は触れないでおこう。

しかし、古田氏の主張には別の重大な問題点が存在する。先の同じ『後漢書』倭人伝の冒頭にはこうあった。氏も引用している箇所である。

「倭在韓東南大海中・・・其大倭王居邪馬臺国 楽浪郡徼去 其国万二千里 

倭は韓の東南の大海中に在り…その大倭王は邪馬臺国に居す 楽浪郡の境を去ること

万二千里   (徼:きょう=国境、「楽浪郡徼去」=楽浪郡の境を去る)

 この万二千里は、陳寿の『魏志』と同じ距離になっている。これが長里ではないことはすでに明白である。古田氏もこの個所については短里説を採用する。

もし長里であれば、万二千里は、1里=435mだとしてもかなりの距離になる。435m×12000=5220000m=5220km。真南に進む場合には、直線距離で軽く赤道まで到達することになる。ジグザグに進むとしてもフィリピンあたりか。定説が望むとおりに「東」にすすんだならば、太平洋の天皇海山群まで到達するだろう。ジグザグに進んでも、なお日本海溝あたりであろうか。したがって、短里であると言わざるをえない。陳寿と同じになる。

 しかしここで、一言付け加えておきたいことがある。つまり、范曄は陳寿を真似たり、写したりしたわけではないことは明確である。氏は「写した」と述べている。しかし、「万二千里」について范曄が陳寿をまねたり写したりはしていない証拠がある。出発地点が違うからだ。范曄は楽浪郡を出発点にするが、陳寿は帯方(郡)からだ。後漢の時代に帯方郡はまだ存在してない。范曄は陳寿を参考にしたかもしれないが、明らかに時代状況を反映した書き方を范曄はしているのである。『後漢書』の万二千里は范曄のものである。この点は確認しておきたい。

しかし、帯方からであろうと、楽浪からであろうと距離は同じになる。なぜなら、帯方は楽浪を二つに分割した南方側である。したがって、楽浪と帯方の最南端を出発点だと考えれば両者は一致するからである。

古田氏の見解の問題点は、同じ『後漢書』倭人伝で、范曄の「万二千里」については短里と解釈するのに対して、他方で「千里余」については長里(1里=約435m)と解釈したことにある。これは無理な解釈ではないだろうか。同じ史書の同じ日本列島についての記事である。一方が短里、他方が長里とはいかなることであろうか。何の断りもなしに。混乱の元となること必至である。

 (2) 中国の史書では倭国については短里で書かれた

「中国の史書において、列島内の記事についてはすべて短里で書かれた」ということが私の見解である。この点を再度、強調しておきたい。拙稿、「“万二千里〟考」(東京古田会ニュース 125号)でも述べたことであるが、倭国関連で里程が書かれた記事は『後漢書』、『魏志』、『梁書』、『隋書』、『旧唐書』(注)のいずれも短里であった。長里で万二千里も進むと、およそ5千kmの距離になる。地球一周の約八分の一。出発点は韓(朝鮮)半島。南に進めば赤道を超え、東に進めば太平洋ど真ん中に到達する。長里で解釈するのは不合理である。

(注) 『旧唐書』は万四千里になっているが、これは倭国への出発点が韓半島ではないからだ。

したがって、次のように一般化できる。中国の史書が列島内の記事を描写するときには短里(1里=75m)を使用していたのであろう、と。また、列島への行程でとのかかわりで示された韓半島についても里数も同様に短里ではないだろうか。全行程の万二千里のうち帯方郡から狗耶韓国までは七千里。残りは五千里。比率から言えば、やはり韓(朝鮮)半島内も短里によって描写されていたことは確実であろう。もし韓半島内の七千里が長里であったとすれば、帯方郡から狗耶韓国まで3,000kmほどになる。日本列島の稚内から沖縄までの距離に等しい。ありうることではない。したがって、『魏志』倭人伝では列島はもとより、半島も短里で書かれたことになる。

そして、もし古田氏が述べた通り「千余里」が長里だとすると、それは倭国に関して、あるいは列島に関しての「例外的」記述ということになるのではないだろうか。漢の時代は長里なので『後漢書』は長里で書かれたと簡単に決めつけることはできないであろう。「千余里」が列島についての例外であることは証明されなければならない事柄になる。

私は、『後漢書』倭人伝でも短里(1里=75m)で考察する必要があると考える次第であるが、古田氏が言うように『後漢書』の「千余里」が仮に長里であったとしても氏の理論が成立しないことを、さらに第二節の(2)で述べることになる。

 (3) 狗奴国の所在地

まずは、狗奴国まで千余里は短里=75mで計算するとどうなるかを確認しておこう。

75m×1、000=75、000m=75km。この距離は、余があるので多めに見積もったとしても、100km前後になろうか。福岡(筑紫)から東に向かって直線距離で進む。「東に海を渡る」とあるので、方角が少しずれるが、東北東の方向で山口県の南岸、宇部あたりに到達するだろうか。あるいは真東に進むと周防灘の南部に一度出てから国東半島北部に再上陸することも考えられる。いずれの場合も海を渡る。

いずれの場合でも、短里だとすると中国四国地方東部から近畿にかけての銅鐸圏には達することはない。狗奴国は銅鐸圏内には入らない。したがって、狗奴国の滅亡は卑弥呼の勢力によるという可能性は残るが、しかし銅鐸の消滅は狗奴国の消滅とは無関係であり、別の要因を模索しなければならない。

ところで、『魏志』の陳寿も狗奴国について記しているが、女王国との位置関係は不明確である。狗奴国は『魏志倭人伝』の女王国圏内の最後の国「奴国」、その南と記されている。「奴国」の位置についての定まった位置は、諸説があって定まっているわけではない。さらに、陳寿は距離を記載してはない。残念なことに、陳寿の情報からは狗奴国の所在地を探ることはできない。

第二節 銅鐸の消滅は銅矛勢力による征討が原因か

(1) 古田氏の歴史観

そして、氏の歴史観がはっきり出てくるのが、先に冒頭で触れた『古代に真実を求めて』第六集「神話実験と倭人伝の全貌」においてである。同書の50~51頁で、神武の東侵後、その後継勢力が卑弥呼の時代には銅鐸圏を制覇していたという構想である。それは主に次のように述べられている。

① 神武東侵の時期に「奈良の銅鐸が消滅する」

② 神武は「イエスとほぼ同年」であり、卑弥呼の時代より「二百年くらい前」

③ 「卑弥呼の時代には、神武の後継者は大和盆地で頑張っていた。銅鐸国家はそれを嫌がりながら対峙していた。対立して戦闘したり、婚姻を結んで和睦したりしていた。」

④ そして、 「卑弥呼の時代には、大和盆地は女王国の勢力範囲に入っていたのではないか。」

(2) 銅鐸圏に銅剣・銅矛・銅戈が少ない理由

古田氏の説のもう一つの問題点である。氏の示した地図を再度、見てほしい。もし九州の銅矛圏の勢力が銅鐸圏を滅ぼしたとすれば、銅剣・銅矛・銅戈の出土は銅矛圏と同様に多くならなければならないという点についてである。支配勢力が残したであろう痕跡が残るはずだからである。銅剣・銅矛・銅戈という文化の伝搬が行われるであろう。しかし、銅鐸圏における銅剣・銅矛・銅戈の出土は極めて少ない。つまり、銅鐸は破壊され、その製作は終焉を迎えたかもしれないが、破壊する側の文化の痕跡は極めて希薄である。また、銅矛勢力が銅鐸圏制覇をするのに相応しい数量の銅剣・銅矛・銅戈が出土したとも言えないうえ、またその広がりの面からみても銅鐸圏を制覇したとは言えないであろう。

また、反対の見方もしておこう。銅矛圏の人々が銅鐸圏を支配し滅ぼしたとする。どのようなことが起こるであろうか。征服者である銅矛圏の人々は戦利品として銅鐸を持ち帰らなかったのであろうか。銅矛圏に銅鐸は出土していない(注)。大英帝国の植民地支配を思い浮かべてみよう。インドを植民地にすることで英国は例えば紅茶、カレーなどの香辛料を持ち帰り、英国の代表的な食品や嗜好品にもなった。またエジプトを植民地にした結果が大英博物館の展示物として飾られている。支配することは被支配者側の影響とその痕跡を残すものである。

(注)「古田史学会報」178号の影山寛史氏は「さまよえる拘奴国と銅鐸圏の終焉」5ページで、次のように述べている。「銅鐸の出土分布の変遷を見てみました。銅鐸の書紀は出雲をひとつの中心域として九州から北陸まで広範囲に広がっています」、と。

しかし、古田武彦氏の示している資料からも、また井上光貞氏、安本美典氏などの示す資料からもそうですが、私の知る限りでは九州からの銅鐸の出土例はなかったと考えています。管見にて知らずかもしれませんので、資料をご提示いただきたいと思っています。九州には銅鐸が出土していないものとして話を進めます。

古田氏の掲載した地図は、皮肉なことに氏の主張を証明するどころか、氏の説の「反証」になっていたのではないであろうか。したがって、銅鐸圏は銅矛・銅鐸圏の勢力に滅ぼされたとは言えないことになる。むしろ両文化圏は没交渉であった可能性さえあるのではないだろうか。

 ここまでで、狗奴国は銅鐸国ではないという可能性について、また銅鐸圏は銅矛勢力によって滅ぼされたのではないという点について述べてきた。

第三節 東鯷人の国は銅鐸圏に相応しいか

(1) 消失期の一致が「同じ存在」の根拠になるのか

 

 「東鯷国=銅鐸圏」についての古田氏の見解である。古田氏が注目した一つの論拠が、銅鐸の作られなくなった時期と東鯷国が史書から消滅した時期とが合致していたことにあった。両者は「共に三世紀頃に至って突然消えてしまった存在」であり、共に史書類から「蒸発」した、と(注)。

 この論証方法は、かなり荒っぽいと言わざるを得ない。消滅・消失が偶然の合致ということも当然、ありうる。十分条件が満たされたに過ぎないともいえる。歴史の中に同じ時代に誕生し、また同じ時代に滅亡した文明・文化は数多くある。「時代が同じということをもって同じ事象とはこれ如何に」。

(注) 『邪馬壹国の論理』銅鐸人の発見 ミネルヴァ書房 239頁

(2) 地理的状況は対応しているのか

 さらに、以下の問題もある。

 『漢書』地理志は書く。「東鯷国は呉地・会稽から東」、と。東鯷国については距離が書かれていない。名前から言えば方角は「東」であろうか。

「鯷」は、魚ヘンに「是」。「是」=ここ、あるいは辺、端。古田氏は「一番端っこ」と考える。魚を中国に貢献した、東の端っこの国ではないか、と古田氏(注)。魚を中国に献上したということは海岸に近いところになるだろう。

(注) 同書 229頁

会稽から東に進み、その「一番端っこ」ということは九州も可能になる。会稽郡は南北に長い。場所が特定されているわけではない。三国の時代の建業(西晋の時代の建鄴、後の南京)から東を見れば、宮崎・鹿児島の東側の海岸が「一番端っこ」になる。四国の東端も可能。高知、徳島の東岸の辺りか。近畿ヤマトを囲む地点では、「一番端っこ」には相応しくない。魚とのかかわりについても相応しくない。紀伊半島の東岸が魚に縁があり、また「一番端っこ」に相応しいか。しかし、この地が銅鐸の中心地というわけにはいかない。

「東」、「一番端っこ」、「魚」に相応しい場所は、銅鐸とは縁がなさそうである。「一番端っこ」で銅鐸が出土する地域も銅鐸圏の中核という状況でもない。したがって、そこの銅鐸圏の勢力が滅びたとしても、銅鐸文化全体が滅びるとは考えにくい。全体的に見て、少なくとも氏が定義する東鯷国が銅鐸圏の勢力とはなかなか合致しそうにもない。

ところで、古田氏は自説を撤回することが時々ある。今回の問題、「東鯷国=銅鐸圏」について

も撤回されて新説が打ち出されていた。(注)

その論拠は必ずしも明確ではない。なぜ前説が否定されたのか。また、前説を論証する際に使用

された論証やその方法についても撤回されたのか。この問題が残されたままである。

(注)『古田武彦の古代史百問百答』(2015年ミネルヴァ書房 8「東鯷国の献見」につい

て45頁) など

氏の新説では東鯷国は九州の東岸(おそらく、宮崎から鹿児島にかけてであろう)となるそうだが、すると東鯷国は銅鐸と無関係となってしまう。古田氏が自説を撤回し新説を打ち出すことが度々あるが、そのときに自説を変更する理由などについてのケアが十分といえないものがある。有機的に絡み合った学説の中で「一つの説を変えることで他への影響が及ぶこと」にも注意を払わなければいけない事例であろう。その他の一例が「推古紀の遣隋使はなかった。あったのは遣唐使だった」である。これらの問題については、別稿「古田氏の”自説撤回„問題」として論じたい。 

(注)古田古代史学を支持する研究者の中に、ある場合には撤回前の「旧説」を基に議

論したり、ある場合には撤回後の「新説」を基に論じたりということが起こっているから

である。なぜ、片方を採用したのかの論拠も提示しないでは議論が進められないはずだ

が、ほとんどその根拠が示されていないのを見受けることがある。

 

第四節 狗奴国は東鯷国か

 駄目を押すことになる。狗奴国はすでに第一節の(3)で示したように、その地理的場所は東の「一番端っこ」ではなかった。東鯷国に相応しくない。そして、狗奴国は銅鐸とは無縁の場所でもあった。

 そして、さらに大事な点を言おう。『漢書』地理志で東鯷国という名前の国があったと記されていた。しかしそれにもかかわらず、なんの断りもなしに、東鯷国という名前が『魏志』や『後漢書』で名前が変更されて狗(拘)奴国として記されるということは不自然である。東鯷国の名が狗(拘)奴国に変更された、そしてその理由は何かについての記事が存在しなければならないであろう。陳寿は東鯷国については触れていなかったが、范曄は拘奴国とは別立てで「会稽海外有東鯷人」と語っている。陳寿も両者の違いを知らなかったとは考えられることではない。

以上から言えるであろう。「狗奴国=銅鐸圏=東鯷国」という等式は成り立ちそうもない、と。

第五節 まとめ

① 狗(拘)奴国は女王国(筑紫・福岡市)から東へ100km以内の地点で探す。

② 銅鐸圏の滅びたのは、銅矛勢力(九州倭国)との抗争の結果ではない。

③ もし、銅矛人(九州倭国)が銅鐸圏(近畿地方)を支配していたなら、『旧・新唐書』で中国は九州倭国を通じて、近畿までの状況をキャッチできたはずである。「唐書的状況」(注)は生じなかったであろう。

④ 卑弥呼の時代は、幕藩体制を敷いていた徳川幕府の時代ではない。秀吉の時代ですら、彼

が苦闘したのは中国地方の毛利氏だけではなく、身内とも思われた織田勢・徳川勢を抑えること

であった。 卑弥呼の曹魏の時代、またそれ以前の後漢の時代、「九州の王権」が「九州から近畿ま

でをも支配すること」は不可能ではないであろうか。

⑤ これはもちろん反対に、卑弥呼の時代に近畿ヤマトの勢力が九州まで支配領域に組み込むことがなかったことも意味することになる。

(注)『旧唐書』日本国伝、『新唐書』日本伝において唐は、咸亨元年(670年)の時点で

は日本国(近畿ヤマトの王権・後のヤマト朝廷)の状況を把握できていなかったことを、

私は「唐書的状況」と呼んでいる。(注)

    (注) 第二章 第二節 第一項 を参照

                                 第二章に続く

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