谷川清隆先生の説への疑問と若干の私見

  

2024年6月9日 谷川清隆先生講演会を前にして 6月8日に改定

                          2024.6.1 國枝 浩

1.「天群の人々」と「『書紀』のβ群を書いた人々」は同じではないのでは?

  (1)「天群の人々」は(九州)倭国の人々で『書紀』執筆には関与していない。

 (2)「地郡の人々」と「『書紀』のα群を書いた人々」は同じ地域の人々といえる。

        α群、β群、泰群の人々は『書紀』を執筆した人々を分類したものではないか。

    いずれも近畿ヤマトの人々である、と。

2.天群の人々が(九州)倭国の人々で、『書紀』執筆に参加していないとするとします。このとき、地群の人々は「天文事象」を記した資料は、倭国(天群の人々)の残した文書であった。それを没収し利用した、ということになるのでしょうか。

  持統気の泰群が天群と地群の混合的性格を持つということは、地群系の資料に天群系の資料が新たに加わったために起こったとは言えないでしょうか。

3.森博達氏は、『書紀』編纂の“首謀者„は藤原不比等だとするが、この点への賛否についてです。私は賛成しております。『書紀』執筆に誰が携わったか以上に、誰が実質的な編纂者であったのか、に興味があります。

先生はどのようにお考えでしょうか。

4.「なぜ、地群の人々の遣使は中国の史書に記載されなかったのか」について。

 隋唐帝国は、「地群の人々」が「①倭国の一地方勢力であったから」、「新興国であったから」②七世紀中は史書に記さなかったのか。

谷川先生の「『日本書紀』推古・舒明紀の遣隋使・遣唐使――天群と地群」『古代に真実を求めて』24集 199ページ より

(1)①について:古田武彦氏は倭国が同じ地域を「代表する正統な王権」であるときに、近畿天皇家はまだ代表王権ではなかったから、と述べた。(『失われた九州王朝』第四章)

これに賛成ですか。

私見:地域を代表する正当な王権でなくても、また一地方勢力であろうと、分国であろうと、中国は知りえた国々は史書に残していたのではないか。

『漢書』地理志

には東鯷国も書かれていた。『魏志』、『後漢書』における狗(拘)奴国、倭国を構成する「奴国」などの様々な分国、また南匈奴・北匈奴、『通典』、『唐会要』の蝦夷国、など。

近畿ヤマト王権はそれらの国々よりも存在感がなかった。咸亨元年(670年)までは。

(2)②について:『旧・新唐書』は咸亨元年の日本国人(近畿ヤマト人)の記事を載せている。これがヤマトの王権(日本国、後のヤマト朝廷)の中国への初の訪問ではなかったか。

さらに、粟田真人を代表とする長安三年(703年)の遣唐使以前にも日本国(近畿ヤマト)からの遣使が記録されている。『唐会要』は日本国伝で咸亨元年の後の記事として、「爾後繼來朝貢(以降、次々と朝貢に来た)と書いている。これは7世紀のことである。

唐は咸亨元年以降、日本国(α群の人々)のことを認知し、史書に記していた。

(3)改めて、なぜ『書紀』推古紀・舒明紀の遣使記事は中国の史書に記されていないのか。

 咸亨元年まで日本国(近畿ヤマトの人々・α群の人々)は中国に遣使していなかったか

らではないか。

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