倭国と日本国

『旧・新唐書』と『新羅本紀』の解釈から

                                                         2024.5.5                          6月8日改定

はじめに

結論を述べてしまう。「誰が、いつ日本国と名付けたのかは不明である」。時代としては『日本(書)紀』の守備範囲にあったが、日本という国名の由来には触れずに、いきなり『“日本〟(書)紀』という書名が現れる。「会津」、「焼津」などの地名の由来を語るのが得意な『古事記』、『日本書紀』であるにもかかわらず。また、雅な名をつけたと誇ってもいない。遅くとも『日本書紀』成立までには「日本」名はできたはずなのだが、『日本書紀』は「日本国名」の誕生については語っていない。「日本」の名を最初に使用した我が国の史書としての責任を『日本書紀』は果たしていない。これは、近畿ヤマトの王権が名付けたのではないという可能性も示唆する。例えば、

① 九州倭国が名を変えていた。「日出所の天子」

② いずれかの地域ではすでに使用されていた名前、日高見国、常陸(日立)国などにヒントを得た

③ 民間伝承の借用など

 可能性はいくつか考えられるが、文献からは日本国名の由来は残念ながら探ることはできない。この点はこの議論の全体で明らかにする予定である。

1. 『書紀』に記された中国への初見参の吐露

  『日本書紀』は図らずも中国への真実の遣使が咸亨元年(670年)であったことを無意識のうちに漏らしてしまったのではないか。まずこの点から議論を始めてみたい。

(1) 孝徳紀における唐への自己紹介 

孝徳紀の白雉五年(654年)に書かれている、唐への高向史玄理らの遣使団についての報告である。

「天子に観え奉る。是に、東宮監門郭丈挙、悉に日本国の地里及び国の初めの神の名を問ふ。皆問に随ひて答えつ。」

「国の地里(理)」を問われた、「国の初めの神の名」を問われた、そしてそれに「皆、答えた」という記述がある。この使者の報告をどのように受け止めたらよいのだろう。これは、まるで初対面の者による「自己紹介」のレベルの内容だと私は思う。そして、この記事にはいくつもの疑問符が付く。

一つには、孝徳天皇の遣いがなぜ今さら唐に自己紹介をする必要があるのか。『日本書紀』はすでに語っている。神功皇后紀、推古紀、舒明紀に中国への遣使記事を載せていることはよく知られていることだ。孝徳紀以前のこれらの遣使団は、自国の地理的な位置、信仰する神や王の名を中国に報告していなかったのであろうか。また、中国は遣使者がどこの国のどの王の遣いとして来ているのかに関心を持たず、また記録もせずにいたのだろうか。

二つには、この文面では遣使団は自ら自主的に自己紹介をしたのではなく、唐から質問をされて受動的に答えたに過ぎないような印象がある。「問われた」、「答えた」にそのことがあらわれている。これにはどのような意味があるのだろうか。

三つには、「皆、答えた」、「悉に」とあるが、「皆」、「悉に」というからには「唐」からの質問は一つや二つのことではなかったという印象を残している。

これらの疑問点については、3.の『旧・新唐書』を検討する中で私なりの答えを述べる予定である。もう一つの重要な点についての結論を述べてしまえば、近畿ヤマト王権(後の日本国)による中国への遣使は「なかった」ということである。したがって神功皇后紀、推古紀、舒明紀の中国への遣使は虚偽報告であったということを、孝徳紀は図らずも表明してしまったのではないかということになるのである。

 

 一言、述べておきたい。『日本書紀』の神功皇后紀、推古紀、舒明紀に対中国遣使記事が「あった」ではないか、それらはすべてではないにしても幾つかは史実ではないかと考える人が圧倒的多数だと思う。したがって、私の述べることは「意味不明」ととらえられるだろう。しかし、私はそれらの国交は「なかった」と理解しており、それをここで証明しようとしているのである。その心積もりでお付き合いをお願いしたい。古田武彦氏も神功皇后紀は論外としつつも、推古紀、舒明紀の中国との遣使は「あった」と認定しているので、古田史学を支持する人々の圧倒的多数、いや全員が私の考えが誤っていると考えるであろう。

 その古田氏の次の見解である。古田氏の次の見解を検討することによって私の前提が不当ではないことを述べてみたい。

(2) 孝徳紀についての古田氏の解釈を手掛かりに

孝徳紀の遣使記事に関して、古田武彦氏の『失われた九州王朝』 第四章のⅡ.「代表王者はいつ交代したか」における解釈である。『旧唐書』日本国伝と照らし合わせながら氏は次のように述べている。

孝徳紀には国号・歴史・地理の資料基礎があらわれている。そしてこのとき、例の「其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず。故に中国焉を疑う」という、唐朝側の第一回の判断もまた、生まれたものと思われる。このように、『旧唐書』の記載は、『日本書紀』の記載と密に相呼応し、唐朝と日本国との交渉の黎明期を告げている。(注)

     (注) 『旧唐書』のこの部分には年代は書かれていない。しかし、これと同種の記述が『新唐書』日本伝

にもあり、その時期が咸亨元年(670年)のこととされている。この点を念頭に置いて話を進めたい。

これについての古田氏による印象的な言葉である。「第一回の唐の側の日本国への印象」、「国交の黎明期を告げる」。しかも、それが咸亨元年の状況を表現している、とも氏は語る。すると、古田氏と私は意見が一致するはずであった。「孝徳朝が中国への遣使を初めて行った。そして、孝徳紀はそのときの状況を図らずも漏らしてしまった」、と。

しかし、氏は『日本書紀』の推古朝、舒明朝の遣使をも承認している。 時代の順序から言えば推古朝の時代が「第一回」、「黎明期」になるはずだ。舒明朝はどうなるのか。氏は自己矛盾を抱え込んでしまっているのではないだろうか。

他方、白雉五年(654年)に「孝徳朝が近畿ヤマトの王権で初めて中国に遣使した」ということからは別の問題も生じることになる。肝心要の中国の史書には孝徳朝の遣使に該当する記事はない。少なくとも「日本(国)」からの遣使記事はない。ところが、後に詳述することになるが、孝徳紀の遣使記事と『旧唐書・新唐書』の日本国伝の記事は極めて類似しているのである。この点、古田氏の指摘の通りである。氏の指摘は見事であった。上の引用からの再録である。孝徳紀における記事についてである。「中国焉を疑うという、唐朝側の第一回の判断もまた、生まれたものと思われる」。そして、「唐朝と日本国との交渉の黎明期を告げている」、と。

古田氏が愛用する言葉を借りれば、孝徳朝の遣使の年(654年)は、実際の遣使の年(670年)からは16年(=670-654)の「ズラシ」が行われた可能性がある。『旧・新唐書』の咸亨元年(670年)の記事は、『日本書紀』における天智天皇の時代にあたることになろう。もし天智天皇が『書紀』の語るような姿で実在していたとすれば、であるが。いずれにしても以上から古田氏も、咸亨元年以前の『日本書紀』の対中国遣使記事はすべて「なかった」と結論付けることができるはずであった。私は「なかった」ことを前提にして論じてみたい。

 

以上から私は、咸亨元年が近畿ヤマト王権による中国遣使の初回であったということに基づいて、「日本国」による遣使が記されている唐の史書を改めて取り上げ、さらに一般に「倭国と日本国の関係が記され、また日本国名の誕生が記載されている」と言われることがある新羅の史書についても検討してみたい。

『旧唐書』日本国伝、『新唐書』日本伝、および朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀(以下『新羅本紀』と記す)、これらからどのようなことが読み取れるであろうか。

2. 『旧唐書』日本国伝、『新唐書』日本伝について

 まずは両唐書日本(国)伝の記述の解釈である。実はすべてはこの理解にかかっていると言っても過言はない。

(1) 資料

『旧唐書』倭国伝

倭国者 古倭奴国也 去京師一万四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行

南北三月行 世與中国通

倭国とは、古の倭奴国である。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って

暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。

『旧唐書』日本国伝 

日本国者 倭国之別種也 以其国日辺 故以日本為名 或曰 倭国自悪名不雅 

改為日本 或云 日本舊小国 併倭国之地 其人入朝者 多自矜大 不以実對 

故中国疑焉 又云 其国界東西南北数千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山為限 

山外即毛人之国

    

日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは曰う、倭国

は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは云う、日本は昔、小国だったが倭国の

地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国は

これを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はいずれも大海に至り、東界と北界

は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だと云う。

『新唐書』日本伝 (新唐書では「日本伝」となっている)

咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音 悪倭名 更号日本 使者自言 国近日所出 以為名 或云 日本乃小国 為倭所併 故冒其号 使者不以情 故疑焉 又妄誇 其国都方数千里、南西盡海 

東北限大山 其外即毛人云

    

咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)

を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは云う、日本は

小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は

四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となると妄りに誇る。その外は毛人だとも云う。

(2) 『旧唐書』倭国伝と『旧・新唐書』日本(国)伝の差異

  

① 倭国伝には「中国と代々通ず」とある。遣使関係が何回も実際にあったことが表明されている。日本(国)伝にはそのような記述はない。したがって、咸亨元年が「初回である」と解することは不当ではない。ほぼ孝徳紀の自己紹介記事に対応する。

② 倭国伝には「自ら言う・云う・曰う」が無い。倭国のことは、今さら言われなくても分かっている、ということで

あろう。日本(国)伝では「自ら言う・云う・曰う」と日本国の様子や地理などが問われ、それに答えたのであろう。

孝徳紀に言う、問われたことに「皆」、「悉に」答えたという場面の唐による表現である。

しかも、それらの回答内容が「疑われ」、さらにそれらの回答に、「うぬぼれている」、「矜大・妄誇」であると

感じられ、また日本国人の発言は「不誠実」だという否定的な評価が下されている。

 日本国人のどれか一つ、二つの発言が「疑われている」のであろうか。どれか一つ、二つの発言が

「妄りに誇っている」と唐側に感じられたのであろうか。いや、そうではない。日本国の使者そのもの

が「多くはうぬぼれが大きく不誠実」、そして「使者には誠実さがない」と記されている。つまり個々

の発言内容だけではなく、使者そのものへの「疑い」が表明されているといえるだろう。このことが、

両唐書で述べられたことである。発言者の「人格批判」ともいえる内容である。発言者の誠実さが疑わ

れているとすれば、どの発言についても「疑われている」と解釈するほかはないであろう。一般に「実

がない、不誠実な」人間の発言の中に真実を見つけることは容易なことではない。

少なくない研究者が日本(国)伝を論じている。しかし、ほとんどの研究者は「疑い」や「妄りに誇

る」には注目していない。引用を避ける、あるいは引用しても解釈しない、など「疑い」を避ける傾向にある。また、これらに触れる研究者でも「疑い」や「妄りに誇る」などが係っている発言をどれか一つ、二つにとどめようと「努力」しているように見受けられる。不可思議な現象である。

   

(3) 『旧唐書』と『新唐書』日本(国)伝についての私の解釈

  咸亨元年(670年)の時点で、唐は日本国の状況を把握できていなかった。この事態を私は「唐書的状況」と

呼んでいる。神功皇后の対中国遣使記事に始まり、推古天皇、舒明天皇、孝徳天皇、斉明天皇の遣使記事はす

べて虚偽報告である。したがって、中国では近畿ヤマトの王権については何も把握できていなかったことにな

る。日本国による中国への初見参、初の遣使だからである。『旧唐書』倭国伝にはそのような記述がない。

「代々、中国と通じている」という一文は、日本国伝と対比させるために唐が意識的に書き入れたもの

ではないだろうか。日本国伝がなければ、倭国伝であえて書く必要はなかったのではないだろうか。

また他方で同時に、咸亨元年の初の来唐まで近畿ヤマト王権の側でも、九州倭国と中国との長きにわたる関係などについて把握できていなかったと考えられる。

① 日本(国)伝の咸亨元年の記事は、「日本国人へのインタビュー記事」である。

唐は日本国の使人の語ったことが「真実である」とは記録していない。つまり、発言内容のどれが真実であるか、という判断を下していない。むしろ、「全体として」唐は「疑った」のである。史実は「記述されたような発言があったこと」だけだと言えよう。この点については、②以下でも触れる。

日本(国)伝においてどれかが真実だと語っている古代史の研究者がいたとする。そのような研究者に質問したい。一つは、『旧唐書』では「日本国が倭国を併せる」のに対して『新唐書』では「倭国が日本国を併せる」と正反対のことが書かれているが、この正反対のことがそのまま放置されてきたことをどのように考えるか、という問題である。「日本(国)伝」に系統性・体系性を見出すことは不可能である。

  二つは、「日本(国)伝」に九州倭国の人が登場し、発言することはあるのかという問題である。これからも何回も繰り返すことになるだろうが、日本国伝に九州倭国の人間が「証人」として登場し、発言することはない。

三つは、発言のどれかが「真実だ」と理解する人は、その後の事態を知る後代の判断を語っているのであって、咸亨元年時点での「唐の判断それ自体」ではないと考えられるが、いかがであろう。

そして四つは、三とも関わるが、「インタビューへの回答」のどれが史実であるのかという評価は、解釈者が「自説に都合がよい発言を採用する」ことによるのではないだろうか。どうであろう。例えば、「九州倭国が日本国に自ら名を変えた」など。古田氏の見解がこれにあたる。氏はその代表例と言えよう(注)。そのような「先入観」をもって『旧・新唐書』日本国伝を読んではいけないというのが私の見解である。以上のことを念頭に置いて私は、『旧・新唐書』日本(国)伝を理解していく積りである。

    (注) 『失われた九州王朝』第四章Ⅱ、『旧唐書』の史料的価値

       

② 『旧唐書』日本国伝で確実に真実である事項

   ア. 日本国は倭国の別種であること。

   イ. 日本国人があれこれ発言したこと。それらを私は「日本国人へのインタビュー記事」と名付ける。

   ウ. 唐は日本国人の発言を「疑い」をもって聞き、そのまま記録したこと。

   エ. ここに登場した発言者は日本国人であって、九州倭国の人間ではないこと。

③ 『新唐書』日本伝で確実に真実である事項

   ア. この記事が咸亨元年(670年)の日本人の来唐を契機に記録されたこと。類似の記事が載る『旧唐書』日本国伝も咸亨元年のもの。

   イ. 日本人があれこれ発言したこと。それらを私は「日本人へのインタビュー記事」と名付ける。

   ウ. 唐は日本人の発言を「疑い」をもって聞き、そのまま記録したこと。

   エ. ここに登場した発言者は日本人であって、九州倭国の人間ではないこと。

④ 「中国疑焉(中国はこれを疑う)」

②、③の重要で共通するキーワードは、日本国人の発言を「唐が疑った」ことである。この言葉が持つ意味を「重大」と受け止めるのか否かで、『旧・新唐書』日本(国)伝の理解に大きな差が出てくると考えられる。当然それ次第で、倭国と日本国の関係についての解釈も異なってくる。

(4) この「インタビュー記事」の前提事項 —― 私の「推理」

① 日本国からの初の訪中であったため、唐は日本国について把握していなかった。これが、孝徳紀の遣

使記事が書かれた状況と一致する。「初代の神(王)の名は?」、「どこから来たのだ?」など。

② 唐は日本列島を「多元的」に見ていたであろう。最少でも三か国、ないし四か国が存在すると唐は認識

   している。つまり、九州倭国、蝦夷国、毛人国(注)、そして新たに、日本国。したがって、唐は多元史観の立

   場で日本国の人に質問することになる。

   (注)蝦夷国と毛人国を同一視するか否かで数え方が変わるだろう。

   ア. 九州倭国との関係を尋ねられる。

中国は九州倭国を熟知していた。卑弥呼、多利思北孤など王の名も知る。

また、中国からの遣使が四回あった。梯雋、長政、裴世清、高表仁。倭国が九州にあったことも唐は知

っていた。倭国人に今さら国の地理を尋ねることはない。「日本国」はこれとは対照的である。

イ. 蝦夷国  『通典』、『唐会要』に載る。倭国とともに訪唐。日本(国)人は蝦夷国とどういう関係かは問わ

れるであろう。 

ウ. 毛人国  『宋書』(南宋)の倭王武の時点でこの名の国があった。たとえ倭王武により征討され、咸亨

元年の時点ですでに毛人国が存在していなかったとしても、毛人については唐からの質問事項に入っ

てくるだろう。

 

③ 倭国との国交史から、唐の知る国や事柄、また王の名などが出され、質問される。それに使者はどう反応し

たのだろうか。 【表1】

                        

 唐からの質問事項日本国人の咸亨元年とそれに近い時期の回答・反応
ア.倭国は九州だが、きみたちは違うな。 倭国? 九州だって?
イ.卑弥呼、壹輿とはどういう関係だ? 卑弥呼? 壹輿だって? 
ウ.倭の五王は知っているな。どうだ?倭の五王? 賛・珍・斉・興・武?
エ.多利思北孤は中国でも有名な王だが。多利思北孤? 誰?
オ.蝦夷国とは友好的にやっているか?蝦夷だって? 毛深い奴らか?

これらが孝徳紀に記された唐からの質問と応答の様子ではなかっただろうか。少なくとも咸亨元年では、おそらく「皆」、まともには答えられなかったであろう。

(5) 咸亨元年とそれ以降の近畿ヤマト王権の対処

ヤマトの王権、後のヤマト朝廷は咸亨元年(670年)以降、徐々に「万世一系」路線を確立していく。『唐会要』の日本国伝によると次のように書かれている。「咸亨元年三月 遣使賀平定高麗 爾後繼来朝貢 則天時 自言其國近日出・・・」。詳細は省くが、咸亨元年から則天皇后の治世(690年開始)以前に次々と遣使に来たとある。唐や衰退していった倭国から情報を収集し、自らの政治路線を確立するなどの準備はこの間に行われていった可能性がある。

ヤマト王権は、朝鮮半島との交流はあったであろう。『日本書紀』では文字、仏教などの伝来は百済からと言われている。ヤマト王権の力量がどれだけ大きく、国土が広かろうと、中国との国交については「後進国」であったと私は判断している。近畿ヤマト王権の存在については中国の側からの認識が咸亨元年まではない。相互承認のない国交記事は信頼できないと言ってもよいであろう。中国にとっては、ヤマト王権は蝦夷国(659年)ほどの存在感もなかった。また、ヤマト王権は狗(拘)奴国(243年)よりも中国に知られた存在ではなかった。 

① 咸亨元年(670年)時点のヤマト側の驚きと衝撃

自分たち以外に、そして以前に、列島から中国に遣使者がいたのか。

唐は日本国人にとって意外な形で質問する。つまり、「多元的立場」で。九州倭国とは別種の日本国人は、倭国との関係を問われる。「別種」を前提にする唐からの質問攻めに対して、日本国人も当初は「別種」の立場で答えざるを得ない。

一方が他方を「併せる」という日本国人による回答があったということは、「別種」だったことを暗黙裡に告白している。当初は、唐の多元的立場からの質問に対して、多元的に(倭国と日本国は別種を前提に)回答する。

しかし、意思の不統一も出てくる。「倭国が日本国を併せる」(『旧唐書』)と回答する者もいた。反対に、「日本国が倭国を併せる」(『新唐書』)と回答する者もいた。

② 以上の経験からヤマト側が採用する政治的課題

ア. 王の系列を確立しなければいけない。

イ. 史書が必要であることを自覚。

ウ. 中国の制度を学ぶ必要性を認識。

エ. 九州倭国の歴史や実態を知る必要性を実感。

オ. 九州倭国と近畿ヤマトとの関係を明確にする必要性を痛感。

カ. 中国や九州倭国から情報を仕入れなければいけないと考える。

キ. 禁書の制定、特に九州倭国の文書類。など。

③ 近畿ヤマト一元史観、そして万世一系路線を徐々に確立する

 ここで一言補足しておきたい。『新唐書』日本伝の咸亨元年(670年)から粟田真人を大使とする長安三年(703年)の遣唐使までの約三十年は日本国からの遣使に空白があったように思われる。ところが『唐会要』日本国伝には咸亨元年の後も「爾後繼來朝貢(以後、次々に貢献)」と書かれている。この間に、ヤマト王権(後の日本国)は明確な政治路線を確立するまでに、かなりの時間的猶予があった可能性がある。この期間、紆余曲折していたのではないか。その姿を唐にも観察され、目撃されていたのだと考えられる。この間に確立されていく政治路線である。

ア. 早期に列島の広範囲を制覇していた、統一国家が早期に確立されていた。

     九州も近畿ヤマト王権の支配のもとに存在していた、など。中国の史書に載る倭(俀)国も我々。

「別国・別種」の立場からから「同国・同種」の立場へ。

イ. 途切れることのなく続く王統という路線の確定。

④ (4)の③の質問に対する日本国の最終的な回答 【表2】

 唐の質問事項     日本国人の回答(回答した時代は不明)直接伝えたか、その他
九州との関係は?九州との関係をことさら強調していく。 私たちは九州出身である。神武東遷(侵)。 九州地名、日向、高千穂など。不明。 神武東遷は8世紀後半以降            漢風諡号は760年代以後
卑弥呼、壹輿とは?神功皇后紀に記録。伝えず。『魏志』、『西晋書』を読んで『書紀』に記入。伝えれば、中国には嘘がばれる
倭の五王一字名に困惑。ヤマト王権は「倭王武」をヤマトタケルとして取り込んだとは言えないであろうか。また、通説的には『常陸国風土記』の「倭武天皇」をヤマトタケルと解釈している。同上
多利思北孤とは?「用明目多利思北孤(用明を多利思北孤と目する)」。用明などの漢風諡号は760年代以降に作られた。早くて8世紀後半に回答。天皇諡号の一覧を提出か。 神武から称徳まで一気に
蝦夷国とは?山外の毛人。注意するべきは、唐書類の山外の毛人と倭王の毛人とは意味が違う。倭王武の毛人は九州筑紫の東。唐書の山外は近畿から見た東方、日本アルプス以東。 このことは、近畿ヤマト王権の咸亨元年時点の支配領域は日本アルプス以西を意味するのではではないだろうか。日本アルプス以東は支配下にはいらず。不明。 近畿ヤマト側は、倭王武の東の毛人と近畿の東方の毛人を同一視することに決める。
改めて倭国とは?倭国は我々だ。元の名が倭国。同一・同種。 ある時期以降、強く主張。「倭国が自ら日本に名を変えた」のは日本国だという主張。『書紀』、『続紀』の立場の確立。おそらく『古事記』編纂開始時期以降から。よって『古事記』は「倭」の名前が多数記載される。⇒6へ

                                              

(6) 『日本書紀』は中国に見せるための書ではない

  『書紀』は官人間の意志一致、後進の教育のため。国民の思想教育。中国の史書に載る中国と倭国の国交史

は「我々の事績だった」。次第に多数の官人たちも中国の史書を読めるようになり、「倭国とは何か」という問が発せられる可能性がでてくる。過去・現在・未来に渡る「万世一系の天皇家」の立場を確立し保持するため、一元史観を貫く。対中国国交史は、中国に見せるには恥ずかしすぎる内容。もちろん、近畿ヤマト王権が咸亨元年まで中国と外交関係がなかったことは、唐にはすぐにわかる。とはいえ、たとえ見抜かれ「疑われ」ても、「確立された主張は国の内外で貫く」。

(7) 唐書類における「日本国」の由来について

 以上のような文脈で、『旧唐書』、『新唐書』日本(国)伝の「日本」の名の起こりについても、唐は自信をもって誰がどの時期に名付けたとは語っていない。したがって、「日本」の名の由来について語ることは誰にとっても不可能ではないだろうか。唐書類からはそう語るしかないであろう。また、倭国と日本国の関係も唐は確信をもっては語っていない。

(8) 咸亨元年に記された「日本(国)」とは

ところで、『旧・新唐書』の記事に「日本」国名が書かれているのはなぜだろうか。咸亨元年の時点で「日本」名はできていたのか。

咸亨元年の時点で、後に日本国を名乗ることになる国の使人が唐を訪れたことは確かである。しかし、私は、この時点で「日本」国の名が出来ていた、またその使人が「日本」国から来たと回答したか否かは定かではないと考える。

一般に、名前のない時代の国、場所、時代などを後代につけられた名前で呼ぶことは歴史では常套手段である。例えば、「縄文時代の三内丸山遺跡は青森県にある」などと私たちは語る。「縄文時代」、「三内丸山」、「青森県」という名は後代のものである。たとえば、「今言うところの」が省略されているだけだ。便宜的な言い方といえよう。これは一般的に許されている。『旧・新唐書』の「日本(国)」と記述されたのもそれと同じではないだろうか。したがって、咸亨元年時点から始まる日本(国)伝が存在するからといって、咸亨元年時点に日本国名があったとするのは早計であろう。おそらく、文武三年(703年)の粟田真人を大使とする遣唐使の時点では日本国名はできていたと推察される。そして、その国名をある時点で唐に告げる。咸亨元年の使人と同じ場所、同じ国から来ている。そこで唐は咸亨元年の使人を「日本国」の使いと認識し、史書に記すということは十分に考えられる。

また、『新唐書』では咸亨元年の個所に「倭が雅でないので日本に名を変えた」があるので、この時にすでに日本名が出来ていたと考えるのも早合点といえるであろう。先に述べた『唐会要』では、「倭が雅でないので日本に名を変えた」は何と「則天時」の条に入っている。則天時は690年から705年。これを基に考えると、ヤマト王権が名付けたと仮定しても、日本名は咸亨元年より相当に遅い時代のものになる。少なくとも、咸亨元年ではないことになる。以上により到底、日本名のできた時期を特定することはできないことになった。

3. 『新羅本紀』倭人伝・日本伝に資料価値はない

  

一部の研究者に、『新羅本紀』倭人伝、日本伝をもとに、「倭国が自ら日本国に名を変えた」という主張が見られる。古田氏もその一人に数えられる(注)。このため、氏の歴史観を支持する研究者もこの点で足並みをそろえる傾向にある。本項の議論は、拙稿:「新羅史・百済史の史料価値 及びその問題点」東京古田会ニュースNo.213の簡略版である。

(注)『失われた九州王朝』第四章Ⅳ 朝鮮側から見た「倭と日本」

『新羅本紀』倭人伝〔55〕にこうある。

倭國更号日本自言近日所出以為名

倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名を為すと。

さらに、『新羅本紀』日本伝〔149〕にもこうある。

倭國更号日本自言近日所出以為名

倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名を為すと。

両者には全く同じ文章が現れている。一字一句違わず、という状況である。「倭国が自ら倭国に改名した」ということは、『新羅本紀』が『旧唐書』日本国伝と一致させていることがわかる。朝鮮半島の史資料が失なわれたので、唐の史書から補ったために起こったことであろうか。

『新羅本紀』は、倭人伝と日本伝と区別して章立てしている点で、『旧唐書』を模しているともいえよう。しかし、『旧唐書』では倭国伝と日本国伝は記述された内容は全く異なっていた。倭国と日本国は国が異なっていただけではなく、両国の史書の内容も「別種」であった。これは当然のことであろう。ところが、『新羅本紀』では全く同じ文章であった。倭人伝と日本伝という「区別」に意味はなく、内容は「同種・同一」であった。

その意味は、日本国の自己主張、つまり「倭国も我々、その倭国が自ら日本国に名を変えただけ」、「初めから同じ国」という主張を受け入れたことを意味することになるだろう。『新羅本紀』は『旧唐書』の倭国と日本国は「別種である」を無視して記述されたことになる。

したがって、『新羅本紀』の倭国、日本国についての記述は史実とは言えない(注)。むしろ、「倭国と日本国が同じもの」という近畿ヤマト側の見解に加担していると言えるだろう。『旧・新唐書』にあった決定的に重要な語句、「中国これを疑う」も欠けていた。したがって、『新羅本紀』からも「日本」の国名の由来やその時期は明らかになってはこないのである。

   (注)  『新羅本紀』の倭国伝、日本国伝の真実性について述べているのであって、『新羅本紀』全体につ

いて評価しているわけではない。

4. 日本国の自己主張と『旧・新唐書』日本(国)伝、および『新羅本紀』

唐も新羅も、九州倭国と日本国の関係や日本国登場の歴史的真実以上に、日本国と円滑な国交による実利優先、経済優先策をとったのではないか。唐も新羅もヤマト朝廷・日本国の顔を立てるべき要因、例えば、国際情勢の変化に伴い日本国との友好関係を取り結ぼうという他の要素を考慮に入れる必要があるだろう。その結果、日本国の「自己主張」(注)が容認される。歴史の真実とは一線を画する、「政治・経済の論理」が優先されていくことになったのではないだろうか。

また、倭国も衰退して歴史の舞台から退いてしまったので、倭国に義理立てする必要はないことになったとも言えよう。

    (注)日本国の「自己主張」については、拙稿:「『旧唐書』と『新唐書』の間」で述べた。東京古田会ニュース

No.211、212

5. 「空白」の四世紀とは ーーー― 四世紀の中国の史書に日本列島の記事が無いことである

  近畿ヤマト王権、後の日本国にとって、咸亨元年が初の中国国交の開始であったという私の考えを補強するために以下のことを述べておきたい。

四世紀が日本古代史の「空白」と一般に言われる理由は何か。それは「中国の史書に日本列島のことが記述されていなかったから、日本のリアルな姿は不明だ」ということに他ならない。日本国、つまり近畿ヤマト王権について言えば、咸亨元年以前は全くの「空白」であり「謎」である。『古事記』、『日本書紀』が何を書こうとも。

  中国の史書に記載がないことをもって「日本古代史の空白」と呼ぶのであれば、六世紀もまたほとんどが「空

白」であり、また「謎」と言わざるを得ないことになる。正確に言えば、倭王武の遣使記事があるので六世紀初頭

を除いた、ほぼ一世紀近くはであるが。したがって、六世紀の大部分も日本列島の古代史は「空白」なのであり、

また「謎」という状態なのである。

ところで古田氏は、中国の史書に「近畿ヤマトの王権」、舒明朝を例にしておよそ次のように述べている。舒明朝は確かに唐と外交関係を結んでいた。高表仁も難波を訪れた。それにもかかわらず、唐の「正史」に記事が無い。その理由は国を代表する「正統の王権」は九州倭国であったからだ(注)。

(注) 『失われた九州王朝』 二つの王朝 倭と日本

しかし、これは正統の王権以外の国や地域に対してハードルの上げすぎと言えないであろうか。「正統王権」ではないにもかかわらず中国の史書に記された国、地域はいくつもある。日本列島でいえば、例えば『魏志』、『後漢書』に書かれた「狗(拘)奴国」がある。これらは正史に記されている。また、正史ではないが『通典』、『唐会要』に記された「蝦夷国」などがある。これらは主役ではないが存在感があった。これに対して「日本国」はどうであろう。中国の史書に咸亨元年までは一切、その姿や形があらわれていなかった。狗(拘)奴国や蝦夷国とは違い存在感は全くない。

したがって、四世紀や六世紀が古代史の空白であるのと同じ意味で、日本国の前身である「近畿ヤマト王権」の歴史も、中国にとって咸亨元年までは「空白」であり、「謎」のままだったということになる。中国に史書類には九州の地名や旅程は度々登場していたが、近畿ヤマトを思わせる地名や旅程はまったく存在しない、皆無なのである。裴世清や高表仁の遣使記事に近畿を匂わせる「難波」や「飛鳥」の名が出現するのは『日本書紀』においてだけであった。「難波」、「飛鳥」の記事はフェイクであるといってよいであろう。もしこれらが史実であれば、「唐書的状況」は生じなかったであろう。

6. 『古事記』と『日本書紀』の関係 –— 両者の相違と役割分担

  

 私は『古事記』と『日本書紀』とである種の役割分担をしていたのではないかと考えている。

近畿ヤマトの王権は咸亨元年に初めて唐に使者を派遣した後で、史書や大王の系列を整備し執筆する動機付けを得たのではないだろうか。両書の以下の違いに注目したい。倭国と日本国というテーマに関わる事項での役割分担である。それは、「ヤマト」と読まれる『古事記』の「倭」、ないし「大倭」が『日本書紀』では「日本」、『大日本』に変更されていることに関わる。

次のような書き変えが行われている。前が『古事記』、後ろが『日本書紀』である。

① まず、本州全体とも理解される国名である。

大倭豊秋津島が大日本豊秋津洲に変更されている。

② さらに一部の天皇名の「ヤマト」が「倭」、「大倭」から「日本」、「大日本」へと変更される。

神倭伊波礼毘古命が神日本磐余彦天皇(初代、神武天皇)

大倭日子鉏友命が大日本彦耜友天皇(四代、懿徳天皇)

大倭帯日子国押人命が日本足彦国押人天皇(六代、孝安天皇)

大倭根子日子賦斗邇命が大日本根子彦太瓊天皇(七代、孝霊天皇)

大倭根子日子国玖琉命が大日本根子彦国牽天皇(八代、孝元天皇)

若倭根子日子大毘々命が稚日本根子彦大日日天皇(九代、開化天皇)

白髪大倭根子命が白髪武広国押稚日本根子天皇(二十二代、清寧天皇)

③ あるいは天皇ではないが、天皇に匹敵する人物として位置づけられたのであろう、

倭建命が日本武尊に変えられている。

これに対して、狭義の地名ヤマトは「倭」のままに留まり、また皇子(みこ)、皇女(ひめみこ)については「日本」に変更されずに「倭」のままであった。例えば、ヤマトタケルにクサナギの剣を渡す姨のヤマトヒメは、『古事記』の「倭」比売命から『日本書紀』で「倭」姫命へ。少し文字は変わるが「倭」はそのままであった。この例のように、少なくとも皇子、皇女については『書紀』で「日本」に変更された例はない。

これにはいかなる理由があり、どのように考えられるべきであろうか。私の推測である。『古事記』と『日本書紀』には以下のような役割分担があったのではないだろうか。

① 『古事記』は近畿ヤマト王権が元は「倭」であったことを示す。

② 『日本書紀』は『古事記』の一部の名を「倭」から「日本」へと変えた、そして「倭」と「日本」は「同一・同種」で

あったことを示す。この中で倭国から日本国への移行を自然に見せる。

③ 『古事記』には一切なかった対中国国交記事を『日本書紀』には載せる。中国の史書に記載されている倭国は 『魏志』倭人伝の記録をはじめとしてすべて我々の事績だと主張する。

④ さらに、「倭」よりも「日本」の方がより格上で、価値があると表明する。

以上は、『旧・新唐書』日本(国)伝で、ヤマトの王権、後の日本国が主張したかったことそのものではなかったのではないだろうか。そして、その主張が唐によって「疑われた」、と。

7. 最後に 

 以上より、日本を最初に名乗ったのが誰か、日本の名の由来は何かについては、『日本書紀』も語っていなかった。また、頼りになると思われた唐や新羅の史書からは判明しないことが明らかとなった。したがって、私はこの点については答えを持てないという結論に至った次第である。

 倭国と日本国の関係について言えば、中国の史書が語る通り、倭国が近畿の勢力とは独立に早期から存在し、中国と遣使関係を結んでいたことは明らかである。そして九州倭国がどのように消滅し、近畿ヤマト王権(日本国)がいかなる形で広域支配を達成したのかも詳細は不明である。

 

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