短歌から日本古代史を考える

                                    2023.8.17

第1節 万葉集を古代史の資料にすること

私は、記紀を疑っている。徹底的懐疑の立場である。記紀を疑えば、それだけ資料が不足する。そこで、日本の古代史の資料不足を補完するものとして、中国の史書類、さらに、万葉集にも注目する必要があると考えている。古代史の研究との関連で初めて万葉集に着目したのは古田武彦氏であった。氏の万葉理解の多くに私は賛同している。特に、次に挙げる二首の天香具山歌についての解釈には大きな影響を受けたことを率直に述べておきたい。ここでは、古田氏による香具山歌鑑賞法の妥当性を述べつつ、さらにそれをもとにして新古今和歌集に載る「持統天皇御製」とされる香具山歌をめぐる現代の解釈の問題点を検討してみたい。その中で、私たちが持つ歴史観と歌の解釈が密接不可分の関係にあることを示し、さらに定説の歴史解釈には根拠が薄弱であること、定説を批判する意義を歌が持っていることを述べていきたい。古田氏の『古代史の十字路』、『人麿の運命」は日本古代史を探求するうえで、また万葉歌を理解するうえで必読の書だと私は考えている。

第2節 謎の歌集、万葉集

 万葉集は有名な歌集であるにもかかわらず、数々の謎を秘めている。万葉集は、奈良時代に当たる750年ごろに、大伴家持らによって編纂されたと言われる。しかし、奈良時代から平安時代初頭を守備範囲にしている続日本紀には万葉集のことは記されていない。さらに、後に歌聖と讃えられた万葉歌人の柿本人麻呂はその名を正史に見つけることはできない。万葉集も柿本人麻呂もヤマト朝廷からは無視された存在であり、歴史の表舞台からは見えないところに置かれた存在である。万葉歌はヤマト以外で詠まれた歌がかなり多くあり、しかもその歌を詠んだ歌人、歌が詠まれた場所、詠まれた状況などが明らかになることがヤマト朝廷からすると、憚られるものを持っていた可能性があるということに行き着く。万葉歌の多くは、私の仮説の中で述べた「禁書」群(注)の中にあったものだと考えている。万葉集が正史の中で適切な扱いを受けなかった原因もそこにあったのではないであろうか。

(注)第三章「元明紀における『禁書』問題と稗田阿礼の役割」を参照

第3節 万葉の香具山と大和の香具「丘」

(1)作歌の場所と作歌者

 万葉集のそれぞれの歌には「前書き」がある。作歌者や作歌場所、さらに作歌された時代状況など、歌の理解を助けるかのような説明書きである。しかし、この「前書き」が曲者である。古田氏は、歌が第一次資料であり、歌は歌だけで味わい、前書きは単に第二次資料だと指摘した。私は第三次資料にすらしてはいけないものもあると考えている。

 つまり、作歌場所が変われば、作歌者も変わる可能性があるのだが、万葉集には「前書き」とは異なる作歌場所を、したがって異なる作歌者を考えなくてはいけない歌が数多くあると思われるのだが、果たしてそうなのであろうか。検討してみよう。

             万葉集、第一巻の第二歌

ただし、原典二か所のフリガナと教科書訳の二個所を省いて(  )にした。

左側 原典                  右側 高校教科書などの現行テキスト

山常((    ))(には) 村山(むらやま)(あれど)() (とり)()()()       (  )には 群山(むらやま)あれど とりよろふ

天乃(あまの)()具山(ぐやま) (のぼり)(たち) 国見(くにみ)乎為者(をすれば)        天の香具山 上り立ち 国見をすれば

国原波(くにはらは) 煙立竜(けむりたちたつ)                国原(くにはら)は 煙立ち立つ

海原波(うなばらは) 加万目(かまめ)(たち)多都(たつ)              海原は かまめ立ち立つ 

怜可(うまし)国曾(こくぞ) (あきづ)(しま) 八間跡((     )の)国者(くには)       うまし国ぞ あきづしま(  )の国は

 まず、この歌の前書きには、作歌者は第三十四代の「舒明天皇」とされる。この歌が天皇によるもの、そして大和で謳われたものという印象をもたせる役目を果たしている。しかし、いくつもの違和感が生じてくる。すでに古田氏が詳細に述べたことなので、ここでは簡潔に、問題点の幾つかだけを挙げておく。

 まず、「山常」、「八間跡」が共に「やまと」と読まれ、「大和」と解されている。「山常」、「八間跡」は「やまと」とも読めるからといって読み方は「やまと」に決まりとしていいものではないし、さらに「大和」に決めてよいものではない。「そうとも読める」ということは、「別様にも読める」ということでもある。

少し遊び心のある人なら、邪馬臺(台)国はどこにあるかという問いに対して、八幡平(はちまんたい)だと答えるかもしれない。八幡平は「やまたい」とも読めるよ、と。よって「八幡平」が「邪馬臺(台)」であるという。これに等しい議論である。実際、そのようなことを書いた小説があった。八幡平では考古学的な状況にも、中国の史書に度々書かれている「朝鮮半島の東南」にも合致しない。語呂合わせだけでどうにでもなるわけではない。さらに、原典の「山常」、「八間跡」は固有名詞であるとも、普通名詞であるともいえるだろう。

ここでは、現行テキストの「大和」が原典では「山常」、「八間跡」という文字であったという指摘にとどめておく。しかも異なった字を当てている。何の予備知識もなく「山常」、「八間跡」を両方とも「やまと」と読める人はまずいないであろう。現代語で「大和」と訳せる人もまれであろう。「やまと」、「大和」の呪縛から解放されて、歌を第一次資料とし、歌だけを先入観なしに味わうと、歌の趣は全く異なるものとなるはずだ。

 上の万葉歌の古田氏による現代語訳:『古代史の十字路』ミネルヴァ書房p.72

山並みには、多くの山々が群がっているけれど、なかでも一番目立ち、整っているのは、天の香具山だ。登り立って、国見をすると、国原には煙が一面に立ち上り、海原には一面に鷗が飛び立っている。

素晴らしい国だ。安岐津(あきつ)の島の、この浜跡(はまと)の国は。

(2)歌の情景―――「煙立竜」

 次の問題は、歌の情景である。

一つに目は、原典の香具山は「煙立竜」山である。定説の解説では「国見」とあることから「仁徳天皇」が民家から立ち昇る竈の煙によって、人民の暮らし振りを判断した物語に結び付けられている。しかし、「立竜」という文字が使われている。すると、もし民家からの煙ということにこだわって解すれば、民家から立ち昇る竈の煙というよりも、むしろ「火事」というイメージではないだろうか。しかし、原歌では民家が歌われている状況ではなさそうである。雄大な自然風景を詠んでいると言えるだろう。そして自然の風景で「煙を噴いている」という情景であるならば、むしろ火山の噴煙や温泉の湯けむりというほうがふさわしい。大和の香具山は、少なくとも有史以降では、火山でもないし温泉も沸かない。

 万葉歌からは離れるが、古事記にも天香具山が登場している。神代編の天照大神が天の岩屋戸に隠れてしまい、世の中が暗闇に包まれる場面だ。この場面で香具山(香山)の名が五回ほど立て続けで出てくる。この香具山(香山)は「天の金山」という鉄を産出する山の近くにある。奈良の香具山は鉄の産出地は近くにはない。この点でも奈良の香具山は、古事記の描写とも合っていない。もちろん、古事記の描写が信頼されうるかどうか、どこの山を指しているのか保証はない。また、万葉歌の香具山歌は鉄を産出する山のことを歌っているわけではないので、古事記の香具山については考察の対象には入れてはいけないのかもしれないが、そのように考えてみたい誘惑は大きい。

(3)歌の情景―――「とりよろう」

 二つ目は「とりよろふ」についてである。

私は奈良の香具()をあえて香具「丘」と呼ぶこともある。誰しも奈良の香具()を見たなら、万葉の舒明天皇歌の内容と乖離しすぎていることに驚くであろう。むしろ、失望するであろう。低すぎるのである。標高152m、奈良盆地の標高が60m~70mはあるだろうから、奈良盆地からの高さは80m~90mにすぎない。「丘」である。旅行で奈良に出かけたときの私の体験でもそうであった。香具山の近くに宿を取った。1日目はあいにくの雨。2日目は晴れたのだが。その雨の日、低く垂れこめた雨雲。その低い雨雲にさえ香具「丘」の頂上は隠れていない。香具山とともに「大和三山」と呼ばれている山の一つ、耳成山も山頂は雨雲に隠れていない。少し高い畝傍山だけがかろうじて、その頂上は雲の中にあった。別様の天候の日もあるのだろうが、雨雲にも隠れないということは、いつでも見ることができる山ということであろう。その意味で生活に密着した「丘」ではあろう。しかし、たくさんある山の中で「とりよろふ」、図抜けている、という表現とはかけ離れていることは確かである。むしろ、図抜けて低い。奈良盆地を形成する周囲の山らしい山の中には、もっと「とりよろふ」山があるにも関わらず、なぜその「丘」が香具山として選ばれたのであろうか。

 ところで、「とりよろふ」について私は「図抜けている」という意味に解釈した。古田氏は、先の歌の訳で「一番目立って、整っている」と表現していた。どちらでもよいだろう。ところが、「とりよろふ」は歌の流れ、文脈の中でその意味が判定されただけのものなのである。決まった解釈があるわけではないようである。そこで、ここに私の例の「仮説」を当てはめてみることにする。この万葉歌は「禁書」として押収された九州の古歌の中にあった。そこで、「とりよろふ」は九州倭国の地域特有の上古語、つまり「倭語・いご」といわれる言葉ではなかったかと考えてみる。この「倭語」は、万葉集が編纂された奈良時代の奈良の地方の古語、いわゆる古い「和語」とは異なる言葉である。使われた地域も、また時代も異なっていたために、理解不能となってしまった言葉の一つではなかったかと推測してみる。もし、「とりよろふ」が歌の先頭にでもあれば、「枕詞」として括られた可能性のある言葉ではなかったろうか。

(4)歌の情景―――海原とカモメ

国語辞典、古語辞典編纂にも影響

 三つ目は、海原とカモメである。大和の盆地にある香具山に海原もカモメもそぐわない。この点について、定説は「埴安の池」が香具山の近くにあったので、詩人の想像力でこの池のことを海原へと脚色し昇華させたのだろう、またその池に来る水鳥をカモメとしてイメージを膨らませたのであろうとか、あるいはユリカモメならこの池にも来るだろうなどと解釈されている。何としても万葉の天香具山を大和に持ってこなければ気が済まない強引な解釈である。

 この万葉歌の作歌場所の問題が、現代の辞書の編纂にも影響を与えていることは驚くべきことである。いや、恐ろしいことである。「海原」を国語辞典で調べると、こうある。私は最初に、手元の電子辞書、『デジタル大辞泉』を見た。「1.広々とした海。2.池や湖の広い水面」とある。『広辞苑』にも同様の記述がある。

私は、「海原」は1.の「広々とした海」のことだと考えてこれまで生きてきた。しかし、2.「池や湖の広い水面」にまで広げるのは驚き以外の何物でもなかった。そしてさらに驚くのは、その出典がこの万葉歌であったことだ。2.「池や湖の広い水面」の使用例・出典を載せているどの現代語辞書も、使用例・出典はこの万葉歌なのである。

古語辞典はどうであろうか。大野晋氏の『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)には「うなはら(海原)」の項で、こうなっている。「はてしなく広がる海。古くは池や湖にもいった。」

池という意味での出典はやはり万葉歌二、つまり、この「舒明天皇御製」歌であった。

さらに念のために、学生もよく使う、岩波の『古語辞典』も見た。結果は、やはり同じである。池や湖が万葉歌二に拠るものとして記載されている。この辞書でも大野晋氏が編者に加わっている。

ということはどういうことであろうか。「池を海原と見立てた例」は、この万葉歌だけということなのであろう。たった一つの事例で意味を確定してかまわないのだろうか。一般化しても構わないのであろうか。他に使用例があれば、ぜひご教示いただきたい。

 万葉の作歌場所を特定するという問題は国語辞典の編纂にまで及んでいるという怖さを感じた次第である。常識とか定説はこのようにしても形成されるのだという怖さである。大野氏が定説の拡散に一役買っていることは間違いがない。古田氏は様々な状況から、香具山は大分県にある鶴見岳だと指摘した。もし、作歌場所が実際に古田氏の指摘した鶴見岳であったとしたら、辞書の言葉の意味も変わってしまうであろう。鶴見岳であれば、別府湾という本物の「海原」が広がっているのだから、「池」の入り込む余地は全くない。2の「池や湖の広い水面」は、海原の項目から消え去る運命にあると思われる。「埴安の池」は、海原への昇格が取り消されることになる。現代語辞典からも、古語辞典からも。

(5)鶴見岳と香具山

 古田説に誘われて、大分県にある鶴見岳に出かけてみた。標高1375mの活火山である。平安時代に鶴見岳は大噴火する。867年、清和天皇の時代で『三代実録』にその噴火のことが記録されている。その噴火の際に、鶴見岳の頂上は吹き飛んでしまったようだ。万葉の時代には鶴見岳は今よりもさらに高かったことであろう。別府湾側の海に面している。このため、現在の低くなった鶴見岳よりも高い由布岳は、鶴見岳の背後にあるため、海側から見た鶴見岳は由布岳よりも、また他のどの山よりも図抜けて高く立派に見える。「とりよろう」とはこのことか、と思わせる風情だ。海側のふもとには日本一とも言われる別府温泉がある。温泉の湯煙が、あちらこちらに「立竜(たちたっ)ている」。鶴見岳にはケーブルカーで山の途中まで登れる。ケーブルカーのガイドに尋ねると、海の反対側では現在でも、ところどころ火山の噴煙が立ち昇っているとのことであった。

 火男火女神社(ほのおほのめじんじゃ)という名の神社がある。上宮は噴火の時に吹き飛ばされたのであろう、標識だけが現在の山頂に立てられ、痕跡をとどめていた。祭神は「火之加具土命(ほのかぐつちのみこと)」。記紀神話でイザナミノミコトが火に包まれた加具土命を出産した後に亡くなる。このため、怒ったイザナギノミコトが加具土命を切り殺す。その加具土命である。現在は火男火女神社の祭神には、もっと後代の七福神まで祀られており、やや賑やかであるが、おそらくもともとの祭神は加具土命であったであろう。古事記の神話はこの地の説話を借用した可能性がある。鶴見岳の近くには神楽女湖(かぐらめこ)がある。「かぐやま」と呼ぶのにふさわしい状況がある。

さらに、古田氏によると、大分県の旧名は「安萬(あま)」であったとのことなので、まさしく「あまのかぐやま」ではないかと。その可能性は高い。

 

 私自身は、香具山が鶴見岳だと必ずしも決めているわけではない。近所に鉄鉱石を産出する山があるようには見えない。鉄を含む金属のイオンを溶かした温泉は数多く湧き出してはいるが。また、古田氏も率直に述べている。鶴見岳からはカモメが見えないと言う難点がある(前掲書p.71)。しかし、この鶴見岳のほうがよほど奈良の香具山、いやより正確には奈良の香具「丘」よりも、格段に万葉歌にふさわしい山だということはできる。

 作歌の場所が変わると、作歌者も変わる。そうすると歌の情趣も全く別のものになってしまう。つまり、もし作歌場所は奈良、作歌者は「天皇」に決められてしまうと、この万葉歌に合わせた対象を探さなければならない。それが内陸で海やカモメとは縁のない、平凡な丘を「香具山」と名付けてしまった。無理の上に無理を重ねる。何かそぐわないものが残る。それが、前書きとともに万葉歌を読むときの不安定な感覚である。

「国見」も天皇が人々の暮らしぶりを見るというよりも、一般の歌人が山に登って「国原」、つまり広大な景色を眺めてみたということなのかもしれない。したがって逆に、万葉歌を味わうときには、前書きは信用しない、第二次資料にすらならない、このことを銘記しておく必要がある。この点は、古今集、新古今和歌集のように作歌の場所も作歌者も特定できる歌集を評価する場合とは区別される必要がある。

 以上は、古田武彦氏の理論を基にして、私なりに簡潔にまとめたつもりである。曲解、誤解がないことをひたすら願うものである。

第4節 万葉集と新古今和歌集の天香具山

 天香具山についてのもう一つの万葉歌は、「持統天皇御製」と言われる歌だ。

万葉集に載る天香具山歌はこうであった。以下、こちらの歌を「万葉・香具山歌」と記すことがある。

     春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山

この万葉歌が少し言葉を変えて新古今和歌集にも編入されている。

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

新古今のこの歌はまた、百人一首にも選ばれているため、万葉歌よりもより知られている。以下、後者の歌は「新古今・天香具山歌」と呼ぶことがある。

 最初の「舒明天皇御製」と言われる万葉歌から分かったことは、万葉の天香具山は大和の小高い丘ではなかったのではないかということである。大和以外のどこかに存在する山である。火山の噴煙か温泉の湯けむりが立ち昇る、そして海の近くでカモメが飛び交う場所。古田氏は大分県の鶴見岳だと指摘していた。

そうすると、大和の藤原京に居していたとされる「持統天皇」は天香具山歌を大和では作歌できない。また、なに人も神聖視されていたはずの大和の香具山では白妙の衣を干さない。新古今の歌人たちにとっても、そのことは自明であったと思われる。香具丘に神社があって、そこの宮司が白衣を干していたなどという憶測は不可能である。(注)

    (注)大和の香具山の辺りには2つの神社があるようだ。それらの神社は、

      一つは天香具山神社、一つは国常立神社。共に建立年は不明とされるが、

730年に税帳の資料があるようだ。持統天皇の時代よりも遅い年代の建

造の可能性が大きい。持統天皇の居城と言われる藤原京からはあまり目立

たない。神社すら目立たないのだから、衣を干してあったとしてもその存

在には誰も気が付かないであろう。

ついでに語ると、今、私は神社の歴史に興味がある。ただ、これは藤原神

道・中臣神道の影響で相当にその歴史は歪められてしまっていると思われ

る。元々の日本の神道は、祠すらもない自然そのもの、山・海・川・岩・

森・動物などが神であり、崇拝の対象であったであろう。中国から伝来し

た寺院への対抗上、立派な神社仏閣を競うように建立していく。荘厳な神

社仏閣が本来の神道からいかに逸脱していったのか、これについても探求

してみたい。

 そこで新古今の歌人たちは、万葉の香具山歌を見て戸惑う。新古今集の編者、藤原定家たちのこんな会話が聞こえてくる。

「えっ、あの香具山で衣を干すのか?ありえないぞ。」

―――「でも、万葉では衣を干したと断言してるぞ。『干したり』と歌っている。」

「うーん、ありえないけどなー。」

―――「そうだよなぁ。こうするのはどうだ?万葉歌では干すと言っているところを伝聞調とか、不確かな情報という意味にするのは。干すという、干すちょう、ほすてふ、だ。」

「そうだな。その手はあるな。嘘つきかどうかを試すために衣に水をかける神様がいたという言い伝えもあるらしいし(注)、万葉でも『干したり』と謳われていたし。それらを含めて『衣干すてふ』にするのはどうだ?」

―――「それは名案だ。それでいこう。」

「それにしても、香具山で衣をほすのかなぁ。」

  ―――「そうだよなぁ。」

「それに、持統天皇が本当にこの歌を詠んだのかなあ。それも理解に苦しむよ。」

 (注)甘橿明神(あまかしみょうじん)の伝承。この伝承は、大岡信氏の『百人一首(ビジュアル版日本の古典に親しむ②)』によると、新古今の以前の時代からはあったとされる。

一般に明神は、神仏習合されてできた神である。詳しいことは省くが、1000年ごろには生まれていた概念であるようだ。新古今和歌集の成立が1204年といわれるので、甘橿明神の伝承もそれ以前に誕生していた可能性はある。

 古田武彦氏による、『古代史の十字路』(p.87~88)における指摘である。新古今の歌人たちは、奈良の香具山の現実には合わない万葉・香具山歌は、香具山を神聖な高天原に直結するものと捉え、一種の「虚構歌」とみなしたものだとして次のように述べている。

    従来、ことに明治以来、“新古今の技巧の所為”のように論ぜられてきた。しか

   し、実は飛鳥の実景、藤原宮と香具山との配置関係を熟知する平安京の宮人たち

は、当歌が「写実歌」としては、結局実地の現実に合致しないことを知り、ため

に「写実歌」にあらず、天上なる「虚構歌」へと改作したのではあるまいか。

 新古今の歌人たちの解釈も万葉歌を「虚構」と見た可能性もあろう。だがもう一つの可能な解釈として、私は万葉歌と新古今歌では因果関係が逆転していると読めるのだがどうであろう。私が理解している限りでの新古今集・天香具山歌についての解釈である。

新古今・天香具山歌は「衣干すてふ・衣干すという」と伝聞調になっていた。伝承で衣が干してあったと聞いても、そのことが原因で夏は来ない。また、夏が来たという判断は下せない。したがって、新古今歌の意味は、まず「夏が来たらしい」という判断が先にある。空気の感触や、気温、汗のかきかた、日の照り方、木々の緑の濃淡、葉の茂り方、生き物たちの変化などからそれはわかる。そして、この夏が来たという実感が「原因」になり、そこから万葉歌や伝承を思い浮かべる。こちらが「結果」になる。つまり、そういえば「万葉歌では夏になると白い衣を干すと言われていたな、天の香具山に」、と。「白い衣を干す」というイメージが「結果」である。これが新古今・香具山歌についての私の解釈である。またこれが新古今の編者たちの理解であっただろうと考える。彼らは、無理矢理そのように解釈し納得したに違いない。

反対に万葉・天の香具山歌では、「衣干したり・衣を干した」が夏が来たという認識が生まれるきっかけ・「原因」になっている。「例年通り夏になると天の香具山に衣が干されるが、その衣が干された。もう夏が来たんだ」、と。夏が来たという認識が「結果」として表現されていると解釈できるのではないか。

つまり、夏であろうと、また季節はいつであろうと、奈良の香具山には衣は干さない。新古今の歌人を含む奈良に住む人々が、万葉の香具山歌を見たときに感じる戸惑い、後代の新古今・香具山歌の解釈者たちの戸惑い、その様子が新古今歌に描写されているのではないだろうか。

 ちなみに、私の調べた限りでは、古今和歌集(905年頃の成立)では、大和の「香具山」は歌の題材にすらなっていない。一首の香具山歌もないのである。歌に詠むほどの価値を奈良の香具「丘」には感じられなかったのではないだろうか。

5.現代の通常の解釈――新古今の天の香具山歌

 しかし、現代の新古今の解釈者たちの見解を一通り読むと、新古今・香具山歌の解釈で戸惑い・困惑というよりも、混乱しているように見える。

 新古今解釈者、あるいは百人一首の解釈者たちの、新古今・香具山歌に対する10人ほどの評釈を読んでみた。10人が10人とも異口同音の訳を掲げている。その中で最も明瞭に、しかも詳細に解釈している田辺聖子氏のものを見てみよう。田辺氏の『21世紀に詠む日本の古典10』に載る新古今・天香具山歌の現代語訳である。

    はや、春も過ぎ夏がやって来たらしい。夏になると天の香具山には、夏のならわしとして白い衣を干すというが、夏山にあれ、あのように白い衣がさわやかに干されている。

 田辺氏の訳では白い衣が干されているのは、万葉の歌だけでも、伝承だけでもない。「干されている」情景が、新古今の時代にも「眼前に起きている出来事」とされているのである。そしてすでに述べたように、田辺氏だけでなく10人が10人とも「眼前に干された白い衣」を歌に付け加えているのである。子供たちが読む、漫画百人一首のような解説にも「目の前に干された衣」の挿絵が印象深く描かれている。これにより常識としての「定説」が刷り込まれる。これが「常識」が形づくられる一つのプロセスであろう。

なぜ皆そろって「衣が干されている」と付け加えるのであろうか。それは、眼前に白い衣が干されなければ、「夏が来たらしい」という判断の根拠がなくなると考えられたからではないか。感動の原因も無しに、感動は起こらない。だから、無いはずの原因が付加されてしまった。

 逆に言うと、「眼前の白い衣」を補うことで歌は確かに落ち着くことになる。万葉歌では「香具山に白妙の衣が干されていた」のだし、伝承にもあった。新古今の現在にもそういうことがあってもおかしくない。現代の解釈者たちの間には、そういう共通の判断があったのであろう。「眼前に干されている」という状況を補うと確かに、新古今歌は落ち着く、と。

しかし、繰り返し言うことになるが、奈良の香具山に白妙の衣が干されたことはない。万葉の時代にも新古今の時代にもないし、現在もない。なぜなら、「白妙の衣が干されていた」万葉の香具山は別の場所にあったからである。解釈者の歴史観や万葉観が歌の解釈に影響を与えることの好例、それが新古今・天香具山歌であった。

6.もう一つの「てふ」の歌

 ところで「てふ(という)」という言葉が含まれている歌がもう一首ある。壬生忠見(みぶのただみ)という歌人の歌で、古今集が選集された少し後の時代に詠まれている。百人一首にも選ばれているのでよく知られている。新古今より時代は少し古いが、「てふ」の意味が時代によってそれほど変化はしていないであろうという前提で述べてみよう。壬生忠見の歌である。そして、二つの歌の「てふ」を比べてみよう。

    恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思い染しか

    訳:あの人恋してる、という噂がもう立ってしまった。ほかの人に知られ

ないように、ひそかに思い始めたばかりなのに。

 

この歌の「恋すてふ」、つまり「恋すという」という意味は、人の間で立っている噂であり、それが自分の耳にも入ってきたということである。したがって、伝聞調になっている。噂や伝聞には二種類ある。噂に根拠がある、つまり噂が真実の場合と、逆に全くの噂に過ぎない、つまり虚偽の場合とである。壬生忠見の歌の場合には、噂は本当であった。つまり、図星を突かれていたのである。そのことがわかるのは「恋すてふ」からではない。この歌の後半で、「人にわからないようにしていたはずなのに、何でわかってしまったのだろうか」という後悔とも、反省ともとれる句が続くからである。したがって「恋すてふ」それ自体だけでは噂や伝聞の域を出ない。「恋している」という心の内を吐露している句があるので、実際にも「恋していた」ことがわかったのである。再度言うが、「恋すてふ」という噂や伝聞から「恋している」という結論は導けないのである。新古今の時代にもそれは変わらないであろう。

7.新古今・天香具山歌の「てふ」

新古今の香具山歌の「衣干すてふ」も、それ自体は伝聞や伝承の域を出ない。「干された」という事実を示す言葉はこの歌の中には詠まれていないからだ。したがって、現代の解釈者による訳と解説はかなり強引であり、かなり無理をしていることになる。つまり、  「衣干すてふ」=「衣干すてふ」+「衣干したり」

という等式が作り上げられているのである。「干すてふ」の中に「干したり」は含まれないにもかかわらず。もし、含まれていたとすれば、「魔法の表現」という他はない。別の意味の「虚構歌」である。

もし、伝聞や伝承で「干したらしい」、そして「眼前にも干してある」という状況であるならば、歌は次のようにならなければいけないであろう。私の稚拙な歌を披露しなければいけなくなった。

春過ぎて 夏来にけらし 白衣(しらごろも) 今も干したり 天の香具山

などと。

「今も」は「なおも」でも、「今年も」に変えてもよいであろう。歌人の大岡信氏は、先の『百人一首(ビジュアル版日本の古典に親しむ②)』において、「今年もまた、白い着物が並び始めたそうな」と現代語訳している。字余りになるが「今年も」でもよさそうな気がする。大岡氏が「並び始めたそうな」というのは田辺氏ほど自信を持って断言していない様子をうかがわせる。「並び始めた」と言い切れないという意味では弱さがある。遠慮がある。しかし、大岡氏は正直であるともいえる。補っていいのかなというためらいがある。新古今歌の「干すてふ」という表現を前に、それを無視できないでいる。だが、その大岡氏の「言い切れない」ところにこそ新古今歌を解釈する解釈者としてのあいまいさがあるのだと思う。あるいは、新古今・香具山歌の人を惑わせる魔法、「虚構性」があるのである。これに対して田辺氏は大胆である。「干すてふ」という伝承・伝聞表現にもひるむことなく、「干してある」と押し切っている。彼女にとって、香具山は「ヤマトになくてどうする」、衣を「干してなくてどうする」という気迫をさえ感じる。

しかし、再度言うが新古今・天香具山歌は歌自体ではそうなってはいない、つまり「干したり」ではないのである。「干すてふ』である。「干すてふ」には「現実に干してある」は含まれないのである。10人の、どの解釈者の訳も、現代語訳というよりも現代「誤訳」というべきであろう。万葉歌の本当の天香具山は奈良にはなかった。これに対して、新古今歌の香具山は奈良の香具「丘」であった。歴史の定説、万葉歌の定説によって、解釈者たちの鑑賞眼が曇らされていることになる。

一般に、見えるはずのものが先入観を抱いているために見えなくなることをスコトマ(scotoma)という。例えば、レオナルドダビンチの『最後の晩餐』には一人の女性が描かれている。しかし、「イエス・キリストの弟子は全員男性であった」という、常識という名の先入観を持ってダビンチの絵を見ると、その女性の存在に気が付かない。実は私も、『ダビンチコード』という映画を見るまでは、その女性に気づかなかったのである。ダビンチの絵画、『最後の晩餐』が「ダビンチコード」という映画の撮影用にあえて描き直されて使用されていたのではないかとさえ疑ってみた。実際の『最後の晩餐』を改めて見て確認した次第である。常識という名の先入観は何とも怖いものである。

これとは反対の現象が新古今・天香具山歌の解釈をめぐって起こっている。先入観を持っているために、見えなかったはずのものを「見えたはずだ」、「見たはずだ」、「見た」と言っている。皆で、声をそろえて言っている。この現象をイリュージョン、幻影・幻覚・幻想と呼んでもよさそうだが、幻影・幻覚・幻想は先入観を持つ、持たないにかかわらず生ずるので少し違うような気がする。アモトックス(amotocs)と呼ぶべきであろうか。スコトマ(scotoma)の綴りを反対に並べただけの私の造語である。いずれにしても、これも万葉の香具山が奈良にあったという常識という先入観のなせる業であった。

8.新古今の新しい作歌法とは

さらに、新古今・天香具山歌を解釈した10人の中の何人かは、万葉歌の「干したり」を「干すてふ」と変更したことが新古今風の歌風であるとまで主張している。田辺氏は、「万葉の断言調、直言調を嫌い」、新古今は「衣干すてふ」と「婉曲で優美で暗示的な口吻を好んだ」と言う。大岡氏によると、新古今は万葉のように「実景写実」を重視するのではなく、新古今が古来からの伝説をもつあの香具山に今年もまたというように、「意味のふくらみを重んじた」ということになる。

両氏ともに、「衣干すてふ」の表現に新古今の新しい作風を発見しているのであるが、しかしこれが新古今の作風の問題であるのなら、他の新古今歌にも同様の「新しい作風」があることを指摘してもらいたいものである。おそらく新古今の中で、この香具山歌以外に、そのような「暗示的な口吻」や「意味のふくらみ」を持たせた歌は見当たらないであろう。

特に、伝聞調の「衣干すてふ」が「実景写実」をも含意するというような表現をしている歌は皆無であろう。そのような「魔法」の表現は他には存在しないはずである。古代史における定説、言い換えれば古代史についての先入観は、短歌の解釈理論にも重大な影響を与えるという一例であると言う他はない。

9.本歌取りと新古今和歌集

新古今歌が新しい歌風を作り上げ、定式化したとすれば、それは「本歌取り」にかかわるものが代表であろう。あえて言えばではあるが。本歌取りとは、新古今より古く誰にでもよく知られている歌の一部を自分の歌に取り入れる作風のことである。新古今の編者、藤原定家ら新古今の歌人たちが確立したと言われる。

本歌取りの例である。

本歌:   万葉歌 「柿本人麻呂」の歌と言われている

ひさかたの 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春たつらしも

本歌取り: 新古今歌 後鳥羽院の歌

ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 霞たなびく

 後鳥羽院の歌は万葉歌と言葉や情景が似ている。後鳥羽院が「ほのぼのと」という言葉を選んだことによって、確かに万葉歌にはない柔らかさが歌に醸し出されている。ただし、これは言葉の選び方の問題である。しかし、この後鳥羽院歌のどこにも「魔法のような手法」は使われていない。「香具山に霞がたなびくことが、春が来たというあかしである」という意味を、万葉歌とは表現を変えて歌っただけと言える。万葉の「夕べの歌」が新古今では「明け方を思わせる歌」に変えられているだけである。当然、新古今の歌人や彼らの歌を鑑賞する貴族階級の人々は、「人麻呂」の歌を知っている。したがって、彼らは万葉の時代から後鳥羽院が歌う新古今の現在までの時間の流れを、「昔も今も」という形で味わうことができる。この意味でふくらみがある。

もちろん、「人麻呂」歌と言われる万葉の「天香具山」は奈良のものではなく、別の場所、例えば九州のものであった可能性は大きいであろう。そして後鳥羽院の歌の香具山は奈良のものであった。歌の対象は違っている。しかし、歌の対象が違ったとしても、後鳥羽院の歌の表現としては特別に無理をしているわけではない。鷗も煙も海原も登場していない。春になれば、奈良の低い「丘」にも霞が立つであろう。したがって、本歌取りの作風によって、新古今の歌は古い歌の情景を思い浮かべつつ、新古今の現在の情景や状況を歌うことになる。当然のことながら、古い歌から現在までの時間の流れを含むことになる。このことから、一般に新古今には「婉曲」や「含み」の表現が多くあらわれることになるのである。決して「魔法の技法」ではなかったであろう。

古田氏が指摘した明治以来の解釈者たちは、まともな解釈から逃げ「天上の虚構の歌」にする必要はなかった。また最近の解釈者たちも、まともな解釈から逃げ「新古今の魔法の技法」として神秘化する必要はなかった。ただ、万葉歌・天香具山と新古今歌・天香具山では対象となる山が異なっていたと認めればよいだけのことである。

10. 最後に

 この章で述べたかったことは、古田氏の万葉歌の解釈と、「古代史の真実を探り出す力」を万葉集が持つという発見に依拠しながら、新古今・天香具山歌について考察を加えることであった。古田氏は、日本書紀には九州王朝の記録や伝承が多々、取り込まれ利用されていると考えている。例えば、「景行紀」における九州統一譚は、九州王朝が九州統一したときの真実の歴史に基づき、それを利用したもの、剽窃したものであると述べている。倭国の中国との国交の記事、遣使記事もそうであろう。万葉集だけでなく、古事記や日本書紀に載る古歌もそうであったろう。万葉集の「前書き」は、まさしくその剽窃行為を隠蔽するものがかなり多かったと言えるだろう。

 九州の王権の事績を剽窃することを可能にしたもの、つまり剽窃の材料となったものが、第三章における私の仮説、続日本紀の元明紀に見る「禁書」として語られたのではないかと考えている。「禁書」には九州王朝のものが数多く、含まれていたはずである。ヤマト王権、ヤマト朝廷は、押収した「禁書」に基づき古事記、日本書紀を編纂し、日本古代史の機軸を造作・創作したのであろう。私は、古事記、日本書紀のこの造作・創作に見られるあらゆる綻び、矛盾を見つけ出し、古代日本史についての真実を抉り出したいと考える次第である。ここで述べたことは、「古代史の真実を探り出す力」を万葉、さらに新古今を含む歌が持っていること、その一端を示すものであった。

私の力量では、また、記紀を徹底的に疑う私の立場からは、積極的な古代史像を述べるところまでは進めないであろう。消極的な形で、定説が語る古代史像は「成り立たない」ということに留まるであろうが。

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