旧唐書と新唐書の間

はじめに 

倭国と日本国

 唐書は945年に完成。唐が滅びたすぐ後に書かれた。1060年に、新唐書が書かれたため、これと区別するために旧唐書と呼ばれている。この論考でも、旧唐書、新唐書、あるいは両書を合わせて旧・新唐書として表されることになる。

 その旧唐書では、日本列島からは二つの国の歴史が書かれている。倭国伝と日本国伝だ。ここには、それ以前からの常連である倭国とは別に日本国という名前が中国の史書の中に初めて出てくる。

 定説ではあまり顧みられていない旧唐書と新唐書、したがって学校の教科書類や参考書、問題集にも載っていない。日本史の好きな人でも知る人は少ないようである。旧唐書に書かれている一言、「日本国は倭国の別種である」を読んで、高校の社会科の先生である友人も旧唐書を見て驚いていた。「えっ、別種と書かれているね」、と。唐書は、高校授業でも取り上げられるべきであり、高校でも教えられるべきである。常識と違いすぎて生徒が混乱するという「良識のある大人」の声も聞こえてくるが、重要と思える資料・史料を生徒に見せない、あるいは知らせないでおくことよりも、資料に基づいて考察してもらうことの方が大切なことであり、生徒にとっても刺激的な授業になるであろう。それは、歴史に限らずどの科目でも重要なことである。

 本題に戻ろう。倭国は、旧唐書に記載された648年を最後にその遣使は記録されていない(注)。663年の白村江戦で敗戦を喫した倭国は弱体化し、衰退していったと思われる。倭国は対等外交、あるいはそれ以上の強硬な姿勢を唐に対してとってきたと推測されるが、倭国の姿勢は首尾一貫していたといえるだろう。筋を通したために自らを滅ぼしてしまったのではないかと私は考えている。これに対して、ヤマト王権の側の「推古紀」、「舒明紀」などから見ると、唐に対する関係は友好的に描写されており、書記の記述を信ずる限りでは、唐に対して白村江戦を挑むという可能性はなさそうである。日本国は白村江の戦いには参加していなかった。このため日本国、将来のヤマト朝廷は勢力を温存でき、敗戦で弱体化した九州倭国に対して優位に立ち、列島の広域に支配圏広げることになったのではないだろうか。

     (注)通典、唐会要では顕慶4年、659年に蝦夷を連れて倭国

が唐を訪ずれているが、この年については倭国主体の記事は存在しない。いずれにしても正史である旧唐書の倭国伝は648年を最後としている。なお、659年の遣使については、蝦夷問題および斉明紀の遣唐使の問題と併せて別稿で触れる。

そして白村江から数年経て日本国は唐に遣使した。これが旧唐書に書かれた日本国伝の始まりであり、中国が九州倭国の背後にいたヤマトの王権を認知した最初であった。私はそのように推定している。

以上の推定が果たして成り立つのか。そのことを含めて旧・新唐書から日本列島における二つの国、倭国と日本国について考察してみよう。

 ところで、議論に入る前に論じるにあたって必要となる旧唐書、新唐書の部分を挙げておく。この中から、何回も引用される個所があることをあらかじめ断っておく。

旧唐書の日本国伝の冒頭にはこう書かれていた。

   旧唐書A

    日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はいずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。

 新唐書の日本伝にはこう書かれていた。

    新唐書あ

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る。その外は毛人だとも云う。

 粟田真人を遣使団長とする遣唐使の記事に関わる。

旧唐書の日本国伝にはこう記されていた。

    旧唐書B

   長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。

これに対して、新唐書の日本伝にはこう書かれている。

    新唐書い

長安元年(701年)、その王の文武が立ち、改元して大宝という。

朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。

 旧唐書日本国伝には日本国の天皇名の記事は無い。

旧唐書C (引用はできない。)

 新唐書日本伝には初めて天皇名が登場する。(途中略で引用する。)

   新唐書う

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦激に至り、

およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。彦激の子

の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次

は綏靖、次は安寧、次は懿徳・・・途中略 以下、歴代の天皇名が並ぶ・・・

次は用明、目多利思比孤といい、隋の開皇末に初めて中国と通じた。 

・・・途中略・・・ 文武、聖武、桓武、嵯峨など歴代の天皇を経て、次に文徳、次に清和、次に陽成、次に光孝

 旧唐書の日本国伝の冒頭にはこう書かれていた。

   旧唐書D

    日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。

新唐書の日本伝にはこう書かれていた。

    新唐書え

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。

 旧唐書の倭国伝の冒頭にはこう書かれている。

   旧唐書E

    倭国とは、古の倭奴国である。京師から1万4千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。

  新唐書の日本伝の冒頭である。

    新唐書お

日本は古の倭奴なり。京師から1万4千里、新羅の東南海にあり、海中に在る島に暮らしている。東西に五カ月の行程、南北には三カ月の行程。

    以上は今後も適宜、再引用する。

第1節 異様な史書、旧・新唐書日本(国)伝

 旧唐書の日本国伝の冒頭にはこう書かれていた。

   旧唐書A

    日本国は倭国の別種である。〔その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はいずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。〕

  新唐書の日本伝にはこう書かれていた。

    新唐書あ

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。〔使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る。その外は毛人だとも云う。〕

旧唐書Aの日本国伝に年号は書かれていないが、新唐書あ の日本伝に類似の記述があり、そこで咸亨(かんこう)元年(670年)になっているので旧唐書でも同じ670年の出来事としてよいであろう。したがって、日本国が中国の王権によってはじめて認識され、中国の史書に記録されたのは670年であった。

本稿でたびたび触れてきたように、670年が日本国、言い換えれば後のヤマト朝廷にとって極めて重要な画期であったと言えるのである。日本国の人が初めて唐に「入朝」した。長安を訪ねたのである。日本国の名は、このときに中国に感知された。

 そこからは、倭国と日本国との関係はいかに、という問題が出てくる。旧唐書以前のどの史書にも、日本列島からは倭国の名前で語られてきた。ところが、列島から二つの国の名前が併記されているのである。倭国が日本国に名を変えたのであろうか。倭国と日本国は連続しているのであろうか。定説派であればそう解釈するのであろう。しかし日本国は倭国の「別種」と書かれている。別種とは、民族的に違う、出身地域が違う、文化が違う、使う言語が違うなど、様々に解釈できるであろう。そのすべてが異なっていた可能性もあるが、旧唐書自体ではどうであろうか。

 仮に、倭国と日本国に継承関係があり、倭国が日本国に名を変えただけであったと考えてみる。「日の出の場所にあるので、日本と名付けた」、「倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした」。なるほど、ここでは名を変えただけと主張しているようにみえる。しかし、「中国はこれを疑う」と信じていなかった。やはり、日本国は倭国からの流れではないというのが中国の認識である。「別国」である、と。

過去を振り返ってみれば、倭国の時代には倭国から中国への遣使も行われたが、同時に中国からの遣使が魏、隋、唐の時代に倭国に来ていた。この点は軽視するべきではない。中国は倭国のことはかなり熟知していると言って過言ではない。だから旧唐書倭国伝では中国が倭国の描写の際に一切、疑いを持っていないのである。上の引用文、旧唐書Eの倭国伝は言う。倭国は「代々中国と通じている」、と。しかし同じ旧唐書であっても、日本国伝になると様相が一変していた。日本国の人の語ることは「疑われている」のである。「中国と通じていなかった」証拠であろう。

さて反対に、もし倭国と日本国が連続し継承関係が認められれば、中国は疑うことは何もなかったであろう。中国は、日本国伝を倭国伝の延長線上に記述したはずである。しかし、そのように記述されはていない。旧唐書では明らかに二国の記事が並列に置かれている。両国は併存しているのである。史書としても別種であった。

また、この点は特に強調しておきたい。以下の点がこれまでの歴史研究者の視点に欠けていたと思われるのだが、「あるいは曰く」の主語は唐に入朝した日本国の人間だということである。つまり日本国側が語ったことである。けっして倭国の人間が主語にはならない。日本国伝の中の一節であるからそれは当然である。しかも、この記述はいわゆる間接話法になっている。だから中国が史実、事実として認識したものを記述したのではない。ということは、旧唐書A、新唐書あ で日本国人によって語られたことは日本国人の自己主張ではなかったか。この点を以下、詳しく見ていく予定である。

これだけでも唐書、日本国伝は奇妙な史書であり、中国は日本国の主張を疑っているのだから異様な史書という他はない。「疑わしいため信じているわけではないが、そう主張するならそれらを書いておくしかないか」という気分が行間からこぼれてくるようだ。このような史書の類例が他にあるのだろうか。

第2節 旧・新唐書にみる唐と日本国

第1項 遣唐使の年号について

「日本国の自己主張 1」

粟田真人を遣使団長とする遣唐使の記事に関わる。

旧唐書の日本国伝にはこう記されていた。

    旧唐書B 下線に注目。

   長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。

これに対して、新唐書の日本伝にはこう書かれている。

    新唐書い 下線に注目。

    長安元年(701年)、その王の文武が立ち、改元して大宝という。

朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。

 まず、旧・新唐書で同じ遣唐使の年号が違う、この問題が重要である。これを軽く見ることはできない。新唐書の性格を如実に物語っているからである。

まず、旧唐書における703年は粟田真人らの遣唐使が唐に到着した年である。唐が確認できた年であり、日本国も体験した年号である。したがって、旧唐書では唐側が事実として記述したことになる。しかし、新唐書ではこの同じ遣唐使は701年となっていた。続日本紀の文武紀によると、701年に粟田真人を遣使の代表とする遣唐使団が結成される。この遣唐使は、天候が荒れたなどの理由で、すぐには出発できなかった。そこで702年に改めて日本から出発した。そして703年に唐に到着。したがって、701年という年号はこの遣唐使団が結成された年であり、日本国側にしか認識できない事柄であり、日本国の視点である。つまり、唐は日本国側からの情報により、新唐書では粟田真人率いる遣唐使は701年と記されることになったわけである。701年は唐が体験して知りえたことではないのであり、日本国側の主張を受け入れて旧唐書の年号を変更したものと言えるのである。この年号の変更の問題を、「日本の自己主張1」と名付けておく。

これが、新唐書の性格を規定していると言えないであろうか。追加して言えば、新唐書い の「その王の文武が立ち、改元して大宝という」の部分も、旧唐書Bには無い。後代の我々が確認できることでもあり、唐が疑っているわけではないので、日本国の「自己主張」とまでは言えなくとも、日本国から唐への報告である。

 第2項 歴代の天皇名が初登場

「日本国の自己主張 2」

旧唐書日本国伝には無い記事である。

旧唐書C 引用は無し

新唐書日本伝には初めて天皇名が登場する。(抜粋で引用する。)

   新唐書う

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦激に至り、

およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。彦激の子

の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次

は綏靖、次は安寧、次は懿徳・・・途中略 以下、歴代の天皇名が並ぶ・・・

次は用明、目多利思比孤といい、隋の開皇末に初めて中国と通じた。 

・・・途中略・・・ 文武、聖武、桓武、嵯峨など歴代の天皇を経て、次に文徳、次に清和、次に陽成、次に光孝

平安時代の光孝天皇で終わるのは、唐がその後、滅びたためである。

ここでは日本書紀を含む「六国史」で記されている天皇名が列挙されている。この情報が唐にもたらされたのは、日本国において古事記、日本書紀のプロットが完成した後のことであろう。そしてさらに、文武、光孝などの漢風諡号が使われていることを考慮すれば、奈良時代の後半以降に唐に伝えられた新情報ということになる。漢風諡号は淡海三船が760年代、称徳天皇の天平宝字年間あたりに作成したと言われているからである。したがって、日本国と唐との付き合いの中でこれらの天皇名が中国に伝えられたのであろう。

おそらく、703年を現在地点とした過去の天皇、つまり記紀で知られている神武天皇から持統天皇までは和風諡号で一気に伝えられた可能性がある。さらに文武天皇以降、称徳天皇までは、当初、唐には同時代史として続日本紀に残る和風諡号で伝えられていたはずである。そして760年以降のいずれかの時期からは、それまでの天皇名が漢風諡号で伝えられたと推測できる。その後の天皇は光孝天皇までは同時代史として徐々にその都度、漢風諡号で伝えられていったと考えられる。日本国と唐との同時代史として共通の認識ができるようになったからである。  

このように見てくると、ヤマトの王権が唐以前に中国と国交関係を結んでいたと考えることはとても奇妙なことなのである。文武天皇からは日中ともに、同時代史としてその存在を確認できたであろうが、それ以前の「天皇群」、神武天皇から持統天皇までは中国の史書に一切、記述がなかった。旧唐書以前の中国の史書、漢書、魏志、後漢書、晋書、宋書、梁書、隋書、旧唐書、そのいずれにも一人の天皇名すら登場していないのである。和風諡号すら記載されていなかった。書記に言う舒明天皇から持統天皇までは旧唐書の守備範囲であろうが、これらの天皇名は旧唐書にさえ一人も記述されていない。遣使の際に、自国の王名、ないし大王名を述べないことがあるだろうか。それが中国風の流儀なのだろうか。いや、それはありえない。倭国からは卑弥呼、壹(臺)与、倭の五王の讃・珍・斉・興・武、多利思北弧、と王の名が中国に知られていた。対照的である。

ということは、やはり以下のように推察できる。日本国と中国の付き合いは670年以降に始まった。後でも触れるように、おそらく非公式の形で。歴代の天皇名もこの時点までは日本国側は伝える用意ができていなかったのではないだろうか。書記の孝徳天皇の時代(645年~654年とされる)に、中国に「神の名を伝えた」という記事があるが、それは670年のヤマト王権、将来の日本国の姿ではなかったのではないだろうか。しかし、670年の時点で本当に「神の名」が伝えられのかについても疑わしい。この時点では、ひょっとすると日本国は神武天皇さえ報告できなかったのではないだろうか。用意ができていれば、神武天皇という漢風諡号は伝えられなくとも、和風の神倭磐余彦、あるいは神日本磐余彦は伝えられたはずである。旧唐書に、いや、後漢書から旧唐書に至るまで、和風諡号すら記載されていないということは銘記すべきことである。670年は、ヤマトの勢力が中国に対して歴代の王、大王を回答すべく準備し始める契機になったのではないだろうか。だから、記紀に載る歴代の天皇などは日本国側の自己主張にすぎないのであり、中国にとってはそれらの天皇を同時代史として確認できない、中国はそういう印象をもったのではないだろうか。

もう一つ中国が日本国からの主張がなければ認識できない点を追加しておけば、先の引用(新唐書う)で下線を付した部分、「神武が天皇を号とし、筑紫から大和州に移って統治した」という点である。これなども中国が事実として確認できる事柄ではない。

以上を「日本国の自己主張 2」と名付ける。

これらが、我々が新唐書日本伝を読むときの観点・立場でなければならない。また、このことは中国との正式の、真の国交は703年の遣唐使が唐に到着してからようやく本格的に始まったという何よりの証拠ではないだろうか。これが日本国の国際舞台への登場であり、中国史書における本当の「日本伝」の始まりである。少なくともそのように判断できる状況証拠にはなるであろう。

私は、記紀懐疑論者として、日本書紀の語る持統天皇までは書記が語るような形の「天皇」として実在したとは考えていない。地域の王、豪族としてなにがしかの権力の所有者であった可能性はある。または反対に、まったくの架空の存在である可能性もある。書記にしか書かれていないのでその実在、非実在の根拠は何もないからである。しかし、仮にもし持統天皇以前の天皇が実在していて、それでもなお、中国に知られていなかったとすれば、それはヤマト王権・日本国が中国に遣使したことがなかったという何よりの証拠だと思われる。付き合いの無さを証明している。

日本国は中国への遣使実績の無さを埋めようと、かなり焦っていたのではないだろうか。だから、日本国の自己主張はそれだけ用意周到であり、強く徹底したものであっただろう。日本書紀は、日本国の基本的な意思を固めるための、また日本国の官僚の意思一致を図るための「イデオロギーの書」であったのだろう。唐は唐で国と国の付き合いとして、国益のためには日本国の主張を受け容れざるを得ない。倭国の遣使も途絶えた時代であったからである。

ところで、唐はその付き合いの中でも、例の「疑い」を晴らしたのであろうか。中国は、その後のいずれかの時点で倭国と日本国の関係を明快に認識したのであろうか。それはなさそうである。「疑い」について、旧・新唐書のどちらも訂正した様子はないからである。おそらく中国は疑い続けたと思う。

しかし、次第に日本国の主張が新唐書に反映されるようになっていく。つまり、唐が日本国を国家として承認していくことになるのである。一つの国家を承認する過程について、現代史からミャンマーの例を見てみよう。クーデターによって合法政権が倒され、国号がラオスからミャンマーに変わる。国際的には、ミャンマーを承認するか否かで意見が分かれる。日本などは早々とミャンマーを承認したが、欧米諸国は民主的な手続きを経ていないという理由でそこの政権をなかなか承認しなかった。しかし、ミャンマー政権が長期にわたり「安定し継続」すると、政権の成立過程については問題にせず、徐々にミャンマーは国際的に承認されていった。現代史と古代史との違いはあるが、一国が他の国から承認されるプロセスとしては似たものがある。

そして再度言うが、日本国を一つの王権として唐が承認する契機になったのが、703年の粟田真人を代表とする遣唐使であったのは間違いないところである。粟田真人は唐の則天武后に気に入られる。真人の教養の高さ、風情や物腰などが高く評価されている。天皇の名前や系統についてもこの時点で整えられたのであろう。中国はこのときに、日本国が安定した王権を確立していることを認識したと思われる。反対に、それまで関係のあった倭国は音信不通になっている。日本列島を代表するのは日本国だということになっていったのである。

 先に第1節で見た年号の問題、そして本節で見た天皇の記事から分かることは、新唐書は日本国側の自己主張を大幅に取り入れたものになっているということ、つまり旧・新唐書を分かつ明白な相違点がここにあると言えるのである。

 

                     第3項 入朝者の素性

           「日本国の自己主張 3」

旧唐書の日本国伝の冒頭にはこう書かれていた。下線部に注目。

   旧唐書D

    日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。

新唐書の日本伝にはこう書かれていた。下線部に注目。

    新唐書あ

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。

 この引用箇所で問題にするべきことは、唐に入朝した人物の身分である。これは簡単に片付くのだが、旧唐書Dでは、唐に入朝したのはそこの人となっていた。これに対して、新唐書え では使者になっている。咸亨(かんこう)元年(670年)の時点での旧唐書Dでは、正式の遣唐使とは見なされていなかった。まるで、ひょっこりと日本国の人間が、私的に長安を訪ねてきたという風情である。これに対して新唐書あ では、日本からの同じ人物が「そこの人」から「使者」へと格上げされているのである。これは何故であろうか。

 やはりこれも、703年以降に日本国から「670年の日本からの来訪者は単なる私的訪問ではない」と自己主張された結果だったのであろう。これを「日本国の自己主張 3」と名付けておく。

しかし、その自己主張にもかかわらずなお表を持参して朝貢といったような正式・公式の遣使という位置づけにはなっていない。ここにも中国との670年の訪問は703年の遣唐使ほどの重さでは語られていなかったのである。そして、すでに5世紀後半に南朝宋にたいして遣使した倭王武が立派な上表文を差出したのとは好対照になっている。日本国が中国との交流をもっていなかったことはここにも露呈している。さらに、このことは倭王武がヤマト王権の王ではないことの何よりの証拠でもある。

とはいえ、旧唐書から新唐書にかけて、両国の交流が深まるにつれて、日本国の主張がより強く反映されるようになったということになろう。

第4項 旧と新のもう一つの違い

「別種」が消えた

「日本国の自己主張 4」

旧唐書AまたはDの日本国伝では俄然、目を引いたものが新唐書の日本伝ではどこを探しても見あたらない、つまり消えてしまったのである。あの「日本国は倭国の別種」はどこに行ってしまったのだろうか。これを我々はどのように解釈すればいいのだろうか。

下線部に注目。

旧唐書A・D

    日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。

新唐書え

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。

      

もうお分かりと思うが、これも日本国の自己主張の結果、唐が「別種である」を取り下げたのである。もちろん、ここでの自己主張とは「倭国が自ら日本国に名を変えた」というものであり、この点を唐の時代に一貫して日本国が主張し続けたのであろう。よって倭国と日本国の二つの国は「別種ではない」、つまり「同種」、「同族」であるということになっていったのであろう。

これを「日本国の自己主張 4」と呼ぶ。

    

第5項 旧・新唐書の「倭奴国」

「日本国の自己主張 5」

旧唐書の倭国伝の冒頭にはこう書かれている。

   旧唐書E

    倭国とは、古の倭奴国である。京師から1万4千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。、、、

 新唐書の日本伝の冒頭である。

    新唐書お

日本は古の倭奴なり。京師から1万4千里、新羅の東南海にあり、海

中に在る島に暮らしている。東西に五カ月の行程、南北には三カ月の

行程。、、、

   旧唐書Eの倭国伝には「倭国とは、古の倭奴国である」と言われている。これに対して、新唐書お における日本伝で「日本は古の倭奴である」と書かれていた。その主語が入れ替わっている。これも日本国側の自己主張であり、新唐書は日本国の言うままに記述する傾向になっていくもう一つの事例である。

これを「日本国の自己主張 5」と呼ぼう。

私は既に、「倭奴」第7章で「匈奴」との関係から論じていた。「倭奴」は「倭の奴ら・倭の人々」、「匈奴」は「匈の奴ら・匈の人々」であると。これらを分けて、「倭の奴」と呼ばないのは、「匈の奴」と分けられないのと同じである。さらに付け加えれば、「狗奴国・くどこく」というのも同様である。魏志に載る卑弥呼を苦しめた隣国だが、これも「狗の奴の国」と呼ぶことが不自然なのと同じではなかろうか。

通説では「倭奴」と「奴」の文字があると、そこから「分国」だという観念が浮かぶのは、先入観のなせる技ではないだろうか。魏志の卑弥呼の国の分国に「奴国・なこく」があった。この「奴」であると。あるいは、私自身も「倭奴」とあると直ちに「匈奴」、「狗奴」に結び付けて考えるべきだという先入観を持っているのであろうか。

だが、「倭奴」は志賀島で発見された金印、「漢委奴国王」の「委奴」と同じである。三宅米吉氏であれば「ワノナノ」と読むであろう。定説も金印について三宅氏に従っている。氏は統一国家としての倭国の下に分国としての倭奴国と解している。すでにAD57年の時点で統一国家の倭国=ヤマト朝廷が出来上がっているとする。もし、「倭奴国は分国である」と主張するのであれば、ヤマト王権、ヤマト朝廷がAD57年に倭奴国を含む統一国家を既に樹立していたことの論拠を示されなければならないことになる。金印以外の何かで証明しなければならない。

私は、ヤマトの王権が670年以前に成立したという議論を「大和朝廷早期成立論」と呼んでいるのだが、三宅説は統一国家としての大和朝廷の最も早い時期での成立論だと考えている。さらに岡田英弘氏は、『倭国の時代』で統一国家である倭国の分国である奴国が「倭国の承認を得ないで、勝手に遣使した」と述べ、大和朝廷成立早期成立論に与していることを紹介しておく。

そこでもし、旧・新唐書の倭奴国が分国でないとすれば、志賀島の金印の「委奴国」も分国ではないと考えるのが自然である。中国は漢の時代から倭国の分国が遣使に来たという認識は持っていなかったのである。倭奴国も倭国も同一なのである。倭奴国であろうと倭国であろうと中国は「これを疑っていない」。旧唐書の倭国伝は決して疑われていないからである。倭国の現実でもあるし、中国の認識でもある。しかし日本国伝で、「倭国が日本国に変わる」事態に中国は「疑った」のである。したがって日本国の唐に対する登場の仕方こそが問題であったことになる。

しかし、問題を複雑にしたのは唐の側の問題もあるだろう。つまり、「疑い」を持ちながらも、日本国との国交維持のために日本国の主張はほぼ受け入れられていく。だから、日本国は古の倭奴国ではないことを十分に承知した上で、あるいはそのような疑いを持ちつつも、「日本国は古の倭奴国である」と記述したのである。しかし、中国が間違えた認識をしていたわけではない。だからこそ、旧・新唐書の両方とも、「或は言う」、「或は云う」という間接話法の形で描写されるという表現法がとられたのである。

中国の心の声、「私たちが日本国の主張を事実だと認めたわけではないですよ」という声が聞こえてくるような気がする。このように日本国が唐に対して真実でないこと、疑われるようなことを報告しただけのことなのである。したがって、定説的に、「日本国は古の倭奴国である」と新唐書が語っている、だから「倭奴国=倭国⇒日本国」、あるいは「倭奴国<倭国⇒日本国」と理解してよい、ということにはならないのである。

670年に日本国の人が唐に「入朝」した時点で、日本国の国力などがどれほどのものであったのかは不明である。しかし、少なくとも対中国との国交においては、かなり倭国からは出遅れていたのは確かである。この点では日本国は中国との「国交後進国」であったと思われる。したがって、日本国の様々な自己主張も中国にとっては意表を突くものであったであろう。中国の疑いの原因もそこからも生まれたのである。

第6項 旧・新唐書日本伝における地理的特徴について

「日本国の自己主張から考察する」

もう一つ、不思議な出来事が唐書には起こっている。すでに引用された唐書の中に倭国と日本国の地理的状況が3か所で記述されている。その3か所の引用を、重複するが並べてみよう。

旧唐書の倭国伝の冒頭である。

   旧唐書E

    倭国とは、古の倭奴国である。京師から1万4千里(注)、新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。、、、

 新唐書の日本伝の冒頭である。

    新唐書お

日本は古の倭奴なり。京師から1万4千里、新羅の東南海にあり、海

中に在る島に暮らしている。東西に五カ月の行程、南北には三カ月の

行程。国には城郭は無く、、、、

新唐書日本伝の中ほどにはこう書かれていた。

    新唐書あ    (旧唐書Aはほぼ同じなので新唐書あ で代表させる)

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言(曰)うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る。その外は毛人だとも云う。

    (注)これまで倭国までの距離は、1万2千里となっていたが、これは新羅など

の朝鮮半島からの距離である。唐書では出発点が京師(長安)からの距離になっているので、1万4千里になっている。

まず気が付くことは、旧唐書Dの倭国伝と新唐書お の日本伝とで地理的描写が同じになっているのである。次いで気が付くのは、同じ新唐書の日本伝の中であるにも関わらず、新唐書 お と新唐書 あ で食い違っている。どういうことであろうか。

 このことから検討するべきことは次の三通りである。

①「旧唐書Eと新唐書 お 」

②「旧唐書Eと新唐書 あ

③「新唐書 おと新唐書 あ」

考える鍵は「日本国の自己主張」である。

この中で②はある程度、片付いている。新唐書あ については既に第1節でも述べたように、670年に突然出現した日本の人が、倭国とは場所の情景も異なり、規模も違う日本国の状況を説明した。これに対して、唐は日本の人が「妄りに誇る」と記述した。つまり、「君たちは倭国とは地理的に違うね」、「自慢しすぎではないか」、と。別の場所、おそらく奈良を中心とした地域から来たのであるから倭国と日本国の地理的状況が異なっているのは当然である。推測であるが、670年の時点で日本国は倭国が長期にわたって中国の王権と国交を結んでいて、倭国は「代々中国と通じている」という中国の事実認識なども知らなかったのかもしれない。新参者の日本国は、「国交後進国」であるだけでなく「情報後進国」であったのだろう。

①に移ろう。第5項で述べたように、主語が異なっているだけのように見える。

旧唐書D

倭国とは、古の倭奴国である。京師から1万4千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。

新唐書お

日本は古の倭奴なり。京師から1万4千里、新羅の東南海にあり、海中 に在る島に暮らしている。東西に五カ月の行程、南北には三カ月の行程。国には城郭は無く、、、、

 主語以外にはっきりと違いがある。「代々中国と通じている」があるか否かの違いである。新唐書お にはどこを探しても「中国と通じている」という表現は無いのである。もし、「倭国=日本国」という等式が成り立つとすれば、「日本国は代々中国と通じる」という記述がなければならない。それが無いということは、「日本国は代々中国と通じていない」ということを意味する。これは、中国が日本国の主張にささやかな抵抗を行った、あるいは中国の語らない自己主張であったのかもしれない。

 また、ここで語っておかなければいけないことは何故、倭国伝と日本伝の両者で地理的描写が同じなのかという問題である。ここにも日本国の「自己主張」が反映していると思われる。どちらがどちらを併合したかにかかわらず、またどちらが日本国と名付けたかにかかわらず、倭国は日本国の前身であり、合体したのだから日本国が倭国と同じ特徴を持っているのは当然である、と。

 そのように考えると、③についても同様に解決する。670年時点で語った日本国の特徴も、当然その時代の日本国の特徴でもあるし、倭国の特徴を持つことも否定できない、と。

 中国からすれば、倭国が日本国を併合しようと日本国が倭国を併合しようと、合併して大きくなった日本国は当然のことながら九州倭国と関西ヤマトの地理・地形の特徴を合わせ持つため虚偽ではないので、訂正の必要もなかったのであろう。

第4節 旧・新唐書の理解を深めるために

 古田武彦氏と大和岩雄氏の唐書解釈について検討する

第1項 古田武彦氏の見解について

 古田氏の唐書理解の弱点が象徴的に現れている個所がある。『失われた九州王朝』から少し長くなるが引用する。そのP.359から361にかけて旧唐書の日本国伝からの引用と、それについての解釈が述べられているところだ。

『旧唐書』は、この日本国とその国号の成立について、次のようにのべて

いる。 

  A 日本国は倭国の別種なり。

  B 其の国、日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。

  C 或は曰う、倭国自らその名の雅ならざる憎み、改めて日本と

    なす、と。

  D 或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。

   ここにおいて、Aにいう「倭国」とはこの「日本伝」の前にある「倭国伝」の「倭国」を指している。つまり、多利思北孤の後裔たる九州王朝だ。今いう、新興の日本国(天皇家の国)は、この倭国の別種だ、といっているのである。つぎにBは中国の視点から見れば、一応問題のない文章だ。だが、真の問題はCとDにあらわれる。Cにおいて、国号改名の理由は、今はたいした問題ではない。問題は、倭国みずから、「日本」と改名、自称した、という点だ。ここで「倭国」というのは、この直前の「倭国伝」の「倭国」だ。それは文脈の自然な連結上、当然である。つまり、「多利思北孤」の九州王朝みずから「日本」と名のったのが、「日本」という国号のはじまりだ、といっているのである。

  これと相補足するのがDの文章だ。「日本は旧小国」といっている「日本」は、この「日本伝」でのべようとしている「日本」、つまり「天皇家の日本」だ。その天皇家の日本は、本来、一小国だった。つまり日本列島中の一豪族だった、というのである。それが「倭国の地を併せたり」という。この「倭国」はやはり前述してきた「多利思北孤の九州王朝」だ。その「倭国」を天皇家が併合したのだと言っているのである。・・・つまり、「日本」と名乗った最初は、天皇家ではなく、九州王朝だ、というのである。  〔中略〕

ここには「或は曰う」「或は云う」として、その説の伝来者は記していない。だが、その主たる伝来者は当然、まず第一に、犬上三田耜粟田真人、多治比真人県守のような、天皇家の遣唐使自身だ。その上、第二に、唐朝の内側からの「検証者」は、五十四年間の長きにわたって唐朝に仕えた阿倍仲満その人である。さらに、第三に、、、、

古田氏の唐書をめぐる見解には問題点が二つある。〔中略〕の前段に一つ、その後段に一つある。議論の都合から後段から始める。

氏は、旧唐書だけを採り上げているが、この個所については新唐書については触れていない(注)。このことが何故起こったのかは不明であるが、致命的な欠陥が現れる。「咸亨(かんこう)元年(670年)」という年号は旧唐書には無く、新唐書のみに登場する年代であった。新唐書を軽視する古田氏はこの年号の意味も軽視する。だから、日本国側の発言が670年になされたはずであるにもかかわらず、時代認識を誤っている。氏は703年以降の遣唐使者である粟田真人、多治比真人県守、阿倍仲満の名を挙げ、さらに犬上三田耜(いぬがみのみたすき)の名前も挙げている。三田耜は推古紀22年(614年)、舒明紀2年(630年)に隋・唐に遣使したと書記では言われている。このように、氏は時代を把握できていない。

    (注)古田氏が新唐書を読まなかったということではない。氏は、旧唐書には書

かれず、新唐書に書かれている「用明、目多利思北孤」の解釈について独特

な説を述べているからである。わたしは、氏のこの問題での解釈について

「続 第八章 その2」で評価する。

次いで、前段の問題点である。Aは中国の認識であるが、B、C、D はすべて日本国伝の一節であるから、B、C、Dの発言内容は「日本国の人」から発せられたものである。氏も、粟田真人、多治比真人、阿倍仲満、犬上三田耜とヤマト側だけの名を挙げたのだから、このことは認識していたはずである。倭国側の人が発言する余地はない。しかも、それらの主張は中国によって真実ではないと疑われているのである。その中の言葉のどれかをいくら解析しても真実にはたどり着かない可能性は大きいが、B、C、D について検討しよう。

Bの倭が雅でないという国名変更の理由についての発言は、氏も言う通り問題にしても意味はない。しかし、CやDは信憑性が低いのである。例えば、Cの「倭国自ら日本と為す」の真偽は不明である。繰り返すがここには、倭国の人の発言は存在しない。ということはCの発言者は日本国の人である。日本国の人が「天皇家側の人」であったとしたら、「九州王朝が自ら倭国から日本国に改名した」などと倭国の代弁するはずがない。むしろ、その後、大和朝廷は中国からは「日本国」と呼ばれ、この雅な名前を誇ることになっていくはずであるので、「九州王朝」に改名の栄誉を手渡すはずがない。「ヤマトの王権が自ら日本と改名した」の方がありそうである。

もともと、「或は曰う」、「或は云う」、、、という記述からは、その他の発言があったということも推測させる。「日本国は、日本国自ら名付けた」もあるだろう。あるいは、「私たちは以前、倭国と呼ばれていたが、自ら改名して日本になった」などの発言もありそうである。どれか一つは真実を述べている発言もあるかもしれない。しかし、全体として日本国の人が発する言葉はどれも疑わしい、というのが唐の認識であろう。

私は、上の下線部分が可能性が最も大きい発言だと考えている。「倭国自ら日本と名を改めた」というのは、「倭国とは別国であったヤマト王権が倭国を僭称し、さらに日本に改名した」、と。しかし、これを確認する術はおそらくないだろう。

第2項 大和岩雄氏の見解について

定説では取り上げられることの少ない旧・新唐書。大和岩雄氏が数少ない例外として、『「日本」国はいつできたか』(大和書房1996年)で旧・新唐書について論じている。そして、例の「中国これを疑う」についても触れている。氏は倭国が自ら日本国に名前を変えたという立場をとる。新唐書の記述の仕方を忠実に読み取っていると思われる。大和氏は述べる。

   使者が(きょう)(だい)」で「実をもって(こた)えなかった」という記事は、一般

に、尊大な態度で事実を語らなかったと解されているが、そうではな

く、事実を語っても相手に通じなかったのが、「矜大」で「実をもって対えなかった」と受け取られたのである。なぜなら、中国では国号改号は、王朝交代を意味するから、使者のいう「壬申の乱」による王朝交替(易姓革命)による国号変更を、中国風に理解した。しかし、わが国の王朝交替は中国の「易姓革命」とはちがうので、使者が詳しく説明すればするほど、使者の説明の国号変更の理由が、理解できなかったのである。 

大和 同上書 P.207,208 下線は筆者

大和氏の主張には三つの問題点がある。一つは、国号変更を「壬申の乱」と結び付けていることに関わる。「壬申の乱」そのものがあったということに懐疑的な私の立場からはその点について述べることはできないので、「壬申の乱」があったと仮定しての話だが、この乱は672年の出来事のはずで、新唐書が670年時点の事柄として壬申の乱関係の記事を書けるわけがない。わずか2年だが年代がずれている。したがって、中国が「壬申の乱」を理由にして疑うというのは筋違いである。古田氏同様、年代把握を間違えている。大和氏は、新唐書を論じない古田氏を批判しているにもかかわらず、大和氏自身が新唐書を読んでいながら年代把握ができていなかったことになる。

次いでニつは、易姓革命をめぐる問題である。易姓革命とは、王権が変わるとともに皇帝の姓も易わる(かわる)ということだ。しかし、中国の易姓革命は決して単純ではない。様々な形がある。これが典型であろうが、暴力的に王権が打倒されることもある。禅譲、つまり前王権が次王権に政権を譲る形もある。その場合にも様々な理由がある。また、粟田真人が遣使したときに対面したのが則天武后であったが、彼女は夫の高宗の死後に皇帝となり、王権の名を唐から周に変えた。そして、彼女の死後に周は再び唐に名を変えている。つまり、「唐→周→唐」と王権の名が変化した。これも広義の易姓革命と言えるかもしれない。そして、書紀に描かれている「壬申の乱」のほうが中国的な「易姓革命」の典型的な姿に合致しているのではないだろうか。日本の王権名変更のいきさつを中国が疑う理由になるとは考えられない。

もともと、「易姓革命」に関係のある問題は中国の挙げた議論に出てはない。そこは中国も問題とはしていなかった。大和氏の提出した理由は論点がずれている。

その三つは、大和氏は唐自身が挙げた理由には一言も触れていない論点を持ち出したことである。新唐書日本伝から唐が疑っている部分の再度の引用である。

     

咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので、国名となした。あるいは言う、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となる、と妄りに誇る。その外は毛人と言う。

 疑われたことは、

① 倭という名前が雅でなく、また日の出に近いところにあるので、倭国が自ら日本国と改名したこと、

② 小国だった日本が倭国に併合されて、日本国名を名乗ったこと、

③ 日本国の国土が倭国時代に比べ東西南北のいずれの方向にも広大になっていること、などである。

 日本国の人の回答は決して①②③が整合的である、統合的であるということからは程遠いものである。「ある人は・・・と言う」、「別の人は・・・と言う」、また「その他の人は・・・と言う」ということであったであろう。または、同じ人が、時間が経つと答えが変わる、ということも含んでいたのかもしれない。いずれにしても、そのすべてが唐にとっては疑わしいものに感じられたのであろう。これらの唐の疑いについて、大和氏は適切に応じていない。

 定説を主張する大和氏が大胆にも旧・新唐書についての見解を述べたことは評価されることであるが、的はかなり外れていたと言わざるを得ない。

第5節

唐の疑いへの日本国の対応について

 ところで、中国が「倭」から「日本」に変わったことに「疑い」をもっていることには、記紀の編者たち、またその後継者達はどのように対処したのであろうか。

彼らにとって大事なことは、まず国内の体制固めである。悠久の時の流れの中で天皇家が日本列島でその支配体制を形成し、今後もその体制が永遠に続くという意識をつくらなければいけない。そのためには、まず官吏の間での意思の一致こそ必要である。日本書紀が書かれた後、書記についての講読会が何回かにわたって行われている。日本書紀がヤマト朝廷形成の必要性と必然性とを示すものであり、ヤマト朝廷の高官たちの思想的統一の根拠として位置づけられたことを表している。

中国の疑いはやむを得ないものがある。したがって、中国の「疑い」の問題については、「我々の主張は主張として貫き、また少しずつ説得しつつ、国と国の関係を良好なものにしていけば、疑いは晴れないかもしれないが、大きな問題ではなくなる」というところが着地点であったのだろう。実際、粟田真人らの遣唐使以降、日本国は一つの国家として承認されることに成功した。その後も、「疑い」は両国の関係に大きな障害とはならなかった。日唐の間の関係は唐が滅びるまで、基本的には幸福な形で続いていったのである。

最後に 空白の歴史、30年間

 以上で、旧唐書と新唐書の関係についての検討は終わりを迎えた。

ところで、670年の日本国の記事から703年の粟田真人らの遣唐使まで約30年余は、唐書の日本(国)伝には空白がある。記紀をポジティブな意味での資料にできない私にとっては、中国が何も語らない30年は、日本古代史にとっても空白の30年である。とは言え、倭国から日本国への転換という極めて重大な時代の転換期である。古代史研究の先人のように積極的な主張、「こうであった」とは言えないが、消極的な主張、「そうではなかった」とだけ語ることは可能かもしれない。

そこで追加して触れておくと、記紀への徹底的懐疑の立場からは「乙巳の変」、「壬申の乱」などの事件も日本書紀では天皇家をめぐるものとして描かれているが、これらの事件が地域の王権同士の争いや小競り合いを反映したものである可能性もある。またあるいは、そのような事件が存在したのかも不明ともいえる。すでに述べた考古学者の文献史学者に対する警告的な発言を思い出そう。「考古学的には壬申の乱があったという根拠は示されない。文献に基づく研究に問題点はないのか」、と。(注)。

(注)下垣仁志 『日本史研究』No.654 P.58

今後、空白の30年間を含めて、日本書紀の記事についての幾つかの問題点を指摘し論ずる予定である。

① 斉明紀に見る「蝦夷」について

② 天智紀に見る「白村江の戦い」

③ 天武紀に見る「壬申の乱」

 これらについて、私は記紀についての懐疑をどこまで貫けるだろうか。

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