倭国、倭人の「倭」とは何か

はじめに

 「倭」が歴史上で最初に現れたのは、中国の漢書・地理史でBC1世紀のことであった。倭国であった。さらに、後漢書のAD57年、倭国が遣使したとある。このときに印綬を授けられている。これが江戸時代に博多湾の志賀島で発見された『漢委奴国王』と彫られた金印のことだと考えられている。また、同じ後漢書の107年に「倭国王帥升等、生口(奴隷)160人献ず」とある。そして、魏志倭人伝の倭人、宋書、梁書の倭国、隋書の俀(たい)国、旧唐書の648年における倭国まで続く。新唐書では日本国のみが掲載され、倭国はもはや登場しない。

第1節 「倭」の読み方

(1) 「い」か「わ」か、という問題

(第五章第1項を一部修正して再論。主に音表記を片仮名から平仮名に変えた)

 「倭」が何を意味しているかについては、後に第3節で考察する。まずは、「倭」は何と読むのかという問題から始める。日本では普通、「わ」と読まれているが、これには何か根拠があることなのだろうか。古代の中国人が「倭」を発音する際にはどのように発音していたのであろうか。時代によって読みが変化したという説もあるようだが、これまでこの発音問題を議論しているという場面にあまり出会ったことはない。そこで一石を投じてみたい。私の推測を交えて言えば、前漢・後漢・魏という古い時代に属する古代中国音や南朝の宋などの「呉音」では「い」ではなかったか、より新しい隋・唐時代の「漢音」では「わ」になったのではないかという考えに傾いている。

読みの手掛かりの一つが、先の金印に書かれた「漢委奴国王」の読み方である。三宅米吉の説によると「かんのわのなのこくおう」と読まれ、それが教科書にも載る定説になっている。つまり、「委」は「わ」と読まれているが、少なくとも後漢の時代には「い」であったと思われる。

古い時代には「倭」の読みが「い」であったと考えられる。その理由である。上の「漢委

奴国王」の読みであるが、中国では漢字の偏や冠を取って、簡略体を用いることがよくある。例えば金属の「銅」は「金偏」を除いて「同」にするなどである。志賀島で発見された「漢奴国王」の「委」は「倭」であった。つまり、「委」は「倭」から人偏が取れた簡略体であった。実際、後漢書の「委奴国」は、旧唐書では「倭国は古(いにしえ)の倭奴国である」と人偏が付けられている。このことからも「委」は「倭」と読み方が同じであることがわかる。それをもとに考えると、「倭」の中国での読み方は「委」の読み方次第ということになる。後漢や三国の魏などの古代中国で「委」が「わ」と読まれていたとすれば、私は意見を取り下げるが、「委」が「い」であるならば、「倭」も「い」と読まれたというほうが有力と思う次第である。

ところで、東アジア史の西嶋定生氏は言う(注1)。「等」は竹冠を取って「寺」にはできない。「とう」と「じ」では発音が違うからである、と。これに対して、「侍」であれば、人偏をとってもとらなくても「じ」なので「寺」でもよい。つまり、偏や冠を取っても発音が変わらなければ取り去ってもよい、発音が変わってしまう場合には取り去ってはいけないというのが西嶋氏の指摘である。したがって、ますます「倭」の読み方は「委」の読み方次第であることが分かる。「委」が「い」であれば「倭」も「い」である。しかし、西嶋氏は卑弥呼が魏からもらった金印、「親魏倭王」を「しんぎわおう」と読んでいた(注2)。

(注1) 『シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本』P. 86~87 新潮社 1979年

(注2) 『邪馬台国と倭国』P.82 吉川弘文館 1984年

西嶋氏の説を一貫させると「倭」が「わ」であるならば、「委」も「わ」と発音するということになる。果たしてそうなのであろうか。亡くなった方に、この点を問い合わせることはできないのが残念である。むしろ、「親魏倭王」は「しんぎいおう」と読まれたのではなかったかというのが私の推測である。「倭」が「わ」で、「委」は「い」であるというネジレは西島説では許されない。発音が変わる場合には、偏や冠は省略できないからである。

 辞書的にはどうなっているであろうか。

藤堂保明氏らの一般の漢和辞典によると、「委」は「い」「ヰ」と読まれている。白川静氏の『字通』という辞典がある。「委」は「い」または「ゐ・ヰ」とある。さらに、「委」の字を含む字が多数、載っている。例えば、痿、萎、逶、餧、諉などが挙げられ、これらの音符は「委」で、読みは大多数は「い」または「ヰ」(注)である。ただし、これとは別に二つだけ読み方が違う漢字がある。「倭」が「わ」または「ヰ」であり、もう一つが「矮」では「わい」と読まれている。「矮」は例外なのであろうか。「倭」は「わ」という読みが「い」に優先されている。それはなぜだろうか。辞典づくりの難しさでもあろう。白川氏にとっては、「倭」が古代史の通念・常識で「わ」と読まれていることが「い」を優先させることの妨げになったのかもしれない。

ところで、上記の「ヰ」は「wi」の片仮名である。その平仮名が「ゐ」。現在は「wi」音が無いため、「い・イ」と表記されている。したがって、「わ」は「wa」の平仮名であるため、「わ」「ヰ・ゐ」も「wai・わゐ・わい」も、実は元来は近い音で、互いに転換しやすい音だったということが分かる。したがって、「委・倭・矮」もすべてが「wi」で同音であった可能性もあるだろう。ここでは、暫定的にそのように結論を出しておくことにする。

もう一つここで取り上げたいのが、中国の史書では一般には「倭国」となっていた国が、

隋書では「俀国・たいこく」となっていたことである。古田武彦氏は「俀(たい)」は「大倭・たいい・い」から来ているという説を採る。私も第五章で述べたように、隋が倭国の「対等外交」の姿勢に腹を立て、あるいは皮肉を込めて「倭・い」を「大倭・たいい・たい」に変え、さらにそれを「俀・たい」に変えたと考えている。

ただし、それはこういう理由からである。私の憶測を交えた現段階での考え方であるが、「倭」が「い」であるのは「呉音」であって、隋・唐の時代の「漢音」ではないと考えている。「呉音」では、「倭」も「い」と読まれた。漢の時代、魏、西晋、南朝の宋、梁までは「呉音」の時代である。「呉音」とは漢民族の王権である南朝以前の漢字音である。「倭国」の遣隋使は当然、漢民族の「呉音」を尊重して「倭」を「い」と発音する。隋はすでに「倭」を「わ」と発音するようになっていた。ここで発音上の食い違いが起こる。このときの隋の楊帝(煬帝)の考え方である。

そうか、では「倭(い)」に「大」の字をつけてやろう。偉そうに聞こえるだろう。「大倭」だ。漢民族の読み方、「呉音」では「たいい・たい」だ。ただし使う文字は「俀」だ。どうだ、満足か。「俀」は「軟弱で弱々しい」という意味だ。

    「この弱虫め、ははは・・・、かかってこないのか?」

以上の理由で漢民族の王権の時代、つまり「呉音」時代の中国では、「倭」は「い」と発音されていたのではないかという説を採る。古代の中国における漢字の読み、発音問題に詳しい方にご教示いただければと思う。

まとめると、「呉音」では、「委」、「倭」ともに「い」と読まれる。漢の時代、三国の魏、西晋、南朝の宋・梁までは「呉音」の時代である。「呉音」は漢民族の王権である南朝以前の漢字音である。これに対して、隋、唐の時代に「漢音」に変わる。「漢音」とは、隋、唐以降の漢字音である(注)。漢和辞典を信じる限り、「委」は「い」のままのようである。しかし、「倭」は隋、唐の時代に「わ」と読まれるようになったのではないかと考えられる。

    (注)込み入っているので漢音について説明を加える。先に第一章でも述べた通

り、北朝から隋・唐と続く王権は北方騎馬民族の王権である。それにもかかわらず、彼らは漢民族の継承者を自認していた。そこで、自分たちの発音を「漢音」と名付けることになった。特に唐との付き合いが長く、その影響を強く受けたヤマト朝廷の日本でも唐時代の漢字音を「漢音」と呼ぶことになったのである。

(2) 「倭」が「ヤマト」と読まれるいきさつ

 ヤマト王権、後のヤマト朝廷は、670年から中国の王権、唐との付き合いを始めた。

「大倭」が唐時代の人によって「ダイワ」と発音されるのを聞く。「ダイワ」なら卑字の「大倭」から好辞の「大和」に変えられると考えたのかもしれない。「大和」が「ヤマト」と読まれたいきさつも謎であるが、そう読む決断・決定がいずれかの時代になされたのであろう。そして古事記と日本書紀の編纂者は、「大倭」も「倭」も共に「ヤマト」と読むことに決めたのではないだろうか。これが記紀に「倭」の字を「これでもか」というぐらいに登場させた原因ではないであろうか。この点については、本章の第4節で触れる。

     

第2節 発音の再現は困難である

 読み方・発音と同様に、あるいはそれ以上に大事なのは、倭人や倭国というときの「倭」が倭人による自称であったのかという問題がある。まず、自ら文字をもって「倭」と名乗ることはなかったであろう。漢の時代から倭人が文字を操っていたとは考えにくいし、漢字を知っていれば、後に「雅(みやび)ではない」と分かる字を選ばないであろう。

それでは、文字は使わずに「い」という音で、自分たちの国名、または民族名を自己紹介したのであろうか。それは二つの点で困難であろう。「倭」とは国家名を漢風に一文字で表したものであろう。前漢や後漢の時代から倭国がそのような配慮が出来たのかは疑問である。倭国が漢風の国名を一文字で表すのは、南朝宋の時代のいわゆる「倭の五王、讃・珍・斉・興・武」の時代を待たなければならない。王名すら漢風の一文字であった。「倭」という一文字の国名の名付け方は、中国によるものであるという可能性が大きい。これが、第一である。

さらに、仮に倭国が何か国名を告げたとしても、中国がその音を正しく聞き、正しく文字に表現したという保証はない。例えば後の明(みん)の時代に「日本国」がマルコ・ポーロには「ジパング」と伝わっていた。すでに、日本人が文字を使っていた時代である。唐の時代に「日本国」は確立したのであるから、唐に漢字で日本国と伝わっていたはずである。ところが、「日本国」という文字は中国では「ジッパング」と読まれ、おそらく中国国内ではそのように読むのが伝統になっていたと思われる。もちろん、日本人は文字だけではなく「二ホンコク」、あるいは「ニッポンコク」という音とともに伝えていたはずである。しかし、中国人はもちろん漢字が読めるので、自己流に「ジッパング」と読んだ可能性がある。そこで、マルコ・ポーロに伝えられたのは「ジッパング」であっただろう。そこで、中国人には文字とともに発音でも「日本国(にほんこく)」と伝えたにもかかわらず、欧州人には「ジパング」として伝わっていったのである。

このような現象はよく起こる。例えば、フランス人が「パリParis」という文字と共に発音を示しても、ローマ字なので英語圏の人は「Paris」を自分で読める。だから、読めるように読んだ結果「パリス」になったのである。また、ドイツの「ミュンヘンMünchen」も同じである。英語圏では「ミューニック」になる。

反対のことも起こる。日本人は日常、ローマ字を使わない。だから日本では、フランスの首都は、フランス人が「パリ」と発音したとおりに「パリ」になり、「ミュンヘン」はドイツ人の発音通りになった。そして、英語の「Japan・ジャパン」はドイツでは「ヤーパン」と発音されることになったのである。

いずれにせよ、「にほんこく」は漢字が読める中国人の読み方に従って変更されて「ジッパング」として伝わり、マルコポーロは「ジパング」と聞き取り、現在の英語の「ジャパン」の始まりになっていく。「ジッパング」と「ジパング」と「ジャパン」との音のずれもかなり大きい。同じように倭国人が「い」に近い音を発したとしても、それを中国人が正しく聞き、正しく書き取ったかは疑問である。倭人が全く別の音を発したにもかかわらず、「い」と記された可能性すらある。

古代の異国間のコミュニケーションは特に困難であっただろう。文字と発音による交流がより密になった近代ですら様々な誤解、誤聴は起きてきた。「ソーイング・マシンmachine」が「ミシン」に、「スポッティ spotty」が犬の名前の「ポチ」に、「アメリカンAmerican・パウダー」が「メリケン粉」に「香港ホングコング」が「ホンコン」にという具合である。

邪馬台国、「ヤマタイコク」についても同様に考えてみる。倭人が中国で何と言ったかを復元することはおそらく不可能であろう。この時代、倭人が文字を見せて自国の名前を紹介した可能性は少ない。漢字を熟知していたなら、卑弥呼の「卑」、邪馬台国の「邪」などの卑字を使うはずがない、また使わせたくないであろう。仮に、倭人が女王の都を文字で示したとする。その文字で表記されたものが何であれ、中国の役人は、その文字についての中国の読み方を与え、さらにそれをその読みに近い卑字に変えたとしたら、復元は全く困難である。一度、中国人の読み方というフィルターを通してしまうと、さらにそれを同音の別の文字に置き換えられたりしたならば、倭人がもともと伝えた音とはかけ離れてしまうであろうし、もとの漢字が何であったのかなど推理、推測することさえ困難である。史書に文字として記録したのは中国人である。まして、漢字を見せて伝えず、単に音だけで伝えられたとしたらなおさら復元は困難である。固有名詞は特に困難であろう。

したがって、以上の問題点を考慮すると、邪馬台国をめぐる、過去の様々な議論は有意義であったかは疑問である。特に問題なのは、邪馬台国なら「ヤマト」とも読めるので、卑弥呼のいたところは大和であると語られることである。問題は、中国人が史書に残した文字を日本人がどう読めるかではない。歴史学者が漢字の知識を披瀝しあっても何も出てこない。解明すべきは、倭人がどのように発音し、それを中国人がどのように聞き取り、さらにそれをストレートな形で漢字表現したのか、あるいは少し屈折させて漢字に表したのかという問題なのである。したがって、そのような復元をするなどの作業は全く無理な要求である。しかも、「邪馬台国」は中国の史書の文字記録は「邪馬壹国」、あるいは「邪馬臺国」であった。「邪馬台国」に文字変換して議論することは大変に危ういことである。

さらに、邪馬台国の位置について、邪馬台(ヤマト)の「台」なら閉音だが、九州の山門(ヤマト)の「門」は開音の「ト」だ。だから、邪馬台国は九州の山門ではないというような議論もあったが、この種の議論は日本語の発音の議論をしているに過ぎない。問題は、開音か閉音かという微細な違いではない。日本人が伝えたものを、中国人がどう聞き、どう文字に表したか、その時に大きな変更が加えられなかったかどうかである。この種の議論からは建設的なものは何も生まれないであろう。「邪馬台国論争」は、この点でもあまり意味があったとは言えない。

第3節 「倭」は、自称ではない可能性

(1) 匈奴を手掛かりに

 以上、文字や音声から「倭」は日本人の自称ではなく、中国人が付けた名であるという可能性について述べてきた。さらにこれについて、「倭」は倭人の持つ何らかの特徴から中国人によってそう呼ばれたという可能性を探ってみたい。

倭奴、委奴は倭人の特徴からそう呼ばれた可能性は大きい。この点は古田武彦氏が指摘したことから始まった考察である。古田氏は、倭奴は匈奴との対照で呼ばれ、名づけられたものであるとする。「奴」は「人々」の卑字で「ヤツラ」。では、「倭」と「匈」はどんな意味を持つのであろうか。

 まず、匈奴から。匈奴という名で史書に文字に残したのは中国人である。胸に入れ墨をしていたので、この文字を採用したのではないかという説もある。「✕」が入れ墨を表す。「匈」とは「やかましい、かまびすしい、悪い、不吉なことの前触れ」などの意味を持つ。凶悪の凶の字も連想させる。中国人にとってのイメージから来たものである。

 匈奴と呼ばれた人々は、もともと北方騎馬民族で、紀元前から中国の領土に侵入し、略奪と殺戮を行ったと言われ、中国にとっては疫病神のような存在であった。「匈奴は野蛮で教養もなく、道徳観念も持たない民族だ」、「あいつらには匈奴という名がふさわしい」ということだったのかもしれない。秦の始皇帝(BC259~210)は、匈奴から自分たちの領土を守るために長城を築かなければならなかった。そして、その後の漢の時代に入っても各皇帝は長城を補強し、また延長していったため、万里の長城と呼ばれるまでの防御壁を築いたのである。「匈奴」と呼ばれた人々は自分たちの手で自分たちの歴史を残さなかった。彼らのことを知るためには、私たちは彼らと敵対した中国側の史書、『史記』や漢書などに頼るしかない。

特に、秦(BC777~207)の後半から後漢(AD25~220)の時代の間で、匈奴は中国との戦闘を続けている。互いに殺戮しあい、捕虜を取り合う。捕虜はすぐに処刑される場合もあるが、有能な武将などは生かされ、戦局を有利にするための人質となった者もいる。人質になった武将の中には、節を曲げずに一生を捕らわれの身となる者もいたが、中には匈奴の王族の娘などを妻として旧敵のために活躍する者も現れる。このような状況の中で、匈奴が最も強大な勢力を形成するのがBC209~BC31の頃であった。

匈奴は中国の武人から文字を習う機会もあったであろうし、代筆させることも可能であったであろう。冒頓単于(ぼくとつぜんう・BC209~BC174)のときに、前漢にあてた国書が残されている。「天地の生ずるところ、日月の置くところの匈奴大単于、敬しんで漢の皇帝に問う、恙なきや。」

漢文の正式な国書の書体のせいであろう、隋に対して「対等外交」で臨んだ阿毎多利思北弧の国書と似たものがある。しかし、冒頓単于のこの書は多利思北弧のものよりも一層、誇りの高いものになっている。まず、中国の皇帝を「天子」とは呼びかけていない。匈奴の皇帝に当たる「単于」に「大」の字も付している。そして何よりも、世界の中心が自分たちの居る場所なのだと宣言している。「我々は天地が誕生した場所にいるのだ」、「太陽や月も我々が支配しているのだ」という、高邁な精神を表明している。明らかに、世界の中心であることを誇っている中華思想の持主の中国に対して、対等外交以上の姿勢で、いわば「上から目線」で対することを宣言しているのである。

なぜ、匈奴の人々にこのような高邁な精神が生まれたのであろうか。この時点で、匈奴は前漢に対して軍事的に優位に立っていたことが一つの原因であろう。漢の側からみて「平城の恥」として知られる事態が起こる。前漢の部隊が匈奴軍によって危うく壊滅させられる事態が起こったのである。しかし、それだけではない。

彼らは騎馬遊牧民族として、漢民族とは異なる生活形態と独自の文化とを持っていた。彼らは遊牧を通じて中央アジアや東方ヨーロッパ世界の文明・文化と接する機会をもっていた。スキタイ族などから騎馬術を習得し、優れた馬の飼育を通して優れた狩猟民でもあり、また騎馬戦術にも長けていた。また、西方の国々から製鉄を始めとする金属器作成の技術を習得していた。このことによって、彼らは先進文明や先端技術を中国に依拠することなく、独自の文化を持ち、武術に秀でた勇猛果敢な誇り高い民になっていた。戦闘においては鉄器は銅器に勝る。この点では、先端技術や先進文化の大部分を中国や朝鮮半島に依存していた「倭奴」の民とは大きな違いがあった。

 したがって、彼らには中国から何かを学ぶという必要はそれほどなかったであろう。ましてや中国に「朝貢」するなどは論外であった。おそらく、中国に侵攻したのは中国人の貯えた財宝や農産物などを求め、さらに中国人を奴隷として捕獲することにあったであろう。「匈」とは「たけだけしい、不吉なことを予感させる奴ら」というのが中国側からのとらえ方であった。また、匈奴と呼ばれた人々が「キョウ」という音や、「キョウ」に近い音で自分を呼んだということは考えにくい。

(2) 倭奴は匈奴と対照的な民族

倭の意味について

 これに対して「倭」は、もともとは女性の「なよなよとした姿、弱々しいさま、柔順なさま」を表していた。また「背が低い」という意味を持つ。倭奴もやはり中国から見た民族の特徴を描写したものではないだろうか。

中国が匈奴と戦闘を繰り返していた時代に自ら進んで中国に朝貢に来た。その最初は、漢書・地理史によると、紀元前1世紀のことである。しかも倭人は遠路はるばる大海の山島からやって来た。さらに、後漢の時代の57年、倭国は例の金印を賜ったわけだが、その時の姿勢は朝貢であり、大漢に臣従の姿勢を示したものであった。漢から見て、従順で腰が低い人々であったのであろう。その倭人の姿勢が「倭」のイメージに合致したのだと思われる。また匈奴は、一説によるとコーカソイド(白人種)であった可能性が指摘されている。ノイン・ウラというところから発掘された匈奴のものと思われる墓から見つかった骨から、そう判定されたというものである。すると、モンゴロイドの倭奴は匈奴に比べて背も低かったのかもしれない。

以上から、「倭」はまさに列島人の特徴を中国の視点で表現したものだったと言えるであろう。倭人と呼ばれた人々も、「イ」という音で自己紹介したということも考えにくいことである。倭人は、中国の側からみなしうるその特徴から、「倭」と名付けられたと考えるほうが合理的である。

現代の日本人的な感覚からすると、倭人の特徴である「腰が低い」、「謙虚である、尊大・傲慢ではない」ということは必ずしも否定的な意味を持ってはいない。むしろ美徳と考える人も多いだろう。ただし、権力を持つ者に「媚へつらう姿」は見たくないものである。また、上に立つ者ほど「腰が低い」ことが望まれる。

(3) 文字を残さなかった民族

 先に引用した冒頓単于の国書に戻る。この書には、その誇り高さにふさわしくない言葉がある。「匈奴大単于」の匈奴である。中国の史書、史記や漢書の素の文に書かれたものではなく、単于が自ら書いたとされる国書の中にあるのだ。「匈」も「奴」も卑字である。蔑まれた語である。誇り高い民族の使う言葉であろうか。

 彼らは自分達の母語を文字で表記する、史書を表すなどのことはしていなかった。おそらく、中国との国書のやり取りのために漢文を読み書きすることはできていたであろう。捕らえた漢人の中で、帰順した者から漢文を習うことはできる。そして、「匈奴」の持つ意味も理解していたに違いない。では、なぜ彼らの国書に「匈奴」の文字が残されているのであろうか。

 それは、漢民族が史書を残した者の強みを発揮していたからであろう。騎馬民族の民が国書でどのように自分たちを表現しようとも、漢民族にとっては「匈奴」として記すことで共通の理解ができるということであったのであろう。

もう一つ、匈奴から漢に対する別の国書がある。BC89年に弧鹿姑単于(こかこぜんう)が漢の武帝に送ったものだ。

「南には大漢があり、北には強胡(きょうこ)がある。胡は天下の驕子である。」

この書にみられる「胡」が彼らの自称であったのだろうか。ここでは「匈奴」とは表現されていなかった。

「胡」は「胡瓜」、「胡麻」、「胡椒」などに使われるが、漢民族にとっては、西方や北方の異国や異国のものを指す言葉であったようだ。遡ること春秋戦国時代や秦の時代には、匈奴より東にいた遊牧民族は「東胡」、西にいた者たちは「西胡」と呼ばれた。明らかに、東の異民族、西の異民族という響きがある。とても自称ではなさそうである。文字で自己表現をしていなかった民族・国家の悲しさである。「胡」も中国の史書では書き換えられている可能性があることは否定できない。そして、中国の史書では、「胡」のほうが「匈奴」より外延は広そうであるが、両者の関係については定かではない。しかし、中国では「胡」よりも「匈奴」のほうが一般的な呼び名となっている。かくして、彼らは「匈奴」として中国の史書に名を残すことになった。

 「倭奴」、「倭人」、「倭国」も「匈奴」と同様であったろう。中華思想に立つ漢民族が蛮夷の国や民族をどう名付け史書に残すかは中国側の意図次第である。匈奴といえば、あの連中だ、倭奴といえば、あの連中だという共通認識が、中国人の中で成り立てばよいのである。文字をもたなかった時代に起こる悲しい事態である。

 ここで一言付け加えると、「匈奴」の文字は南北朝以降の史書にはほぼ登場しなくなった。

なぜならば、「匈奴」自身が北朝・隋・唐の王権の中核を担うようになったのだから、屈辱的な「匈奴」が使われなくなるのも当然であろう。我々こそ漢の正統な後継者であるという自負で北史、隋書、唐書を作成していったのである。

 これと類似する問題が日本古代史にも起こっている。ヤマト朝廷が残した史書類は、朝廷に抵抗し、帰順しない人々を「服はぬ民(まつろわぬたみ)」と呼ぶ。そして、「熊襲」や特に「蝦夷」との争いなどが記録されている。ヤマト朝廷が中国を真似て「小・中華」の立場に立ち、支配に服さない人々を「熊襲」、「蝦夷」と名付けたのである。「熊襲」、「蝦夷」という呼び名は、そう呼ばれた人々の自称ということはできない。また、彼らが「服わぬ」人々であった証拠もない。むしろ、ヤマト朝廷が支配地域を拡大するときに彼らの生活領域に侵入し戦闘を仕掛けていったのである。この問題はさらに検討されなければならないであろう。特に、続紀の蝦夷との戦いの記録は、ヤマト朝廷の蝦夷の居住区への侵攻の歴史を描いている。ここでは、文字を残さなかった人々が文字を残した人々によって都合の良いように、そして文字を残さなかった人々にとっては不本意な形で記録されてきたことを指摘しておくことにとどめたい。

すでに私たちは、「熊襲」、「蝦夷」と聞き、また読むことで悲しいかな一種、共通のイメージを持ち、共通の理解ができてしまう。そのように習い、慣らされてきてしまった。熊襲、蝦夷を成敗したことでヤマトタケルは英雄として持ち上げられ、征夷大将軍の坂上田村麻呂を英雄視する心理、これらはどこから生まれてくるのだろうか。私たち自身が「熊襲」、「蝦夷」との血のつながりがある可能性が高いにもかかわらず。他方では、熊襲、蝦夷とは民族的な差異とは別に、ヤマト朝廷に「服わぬ」という政治的な意味のレッテル張りであったという可能性もある。両面を見ていく必要があるだろう。

(4) 「匈」も「倭」も中国による呼び名である

 私たちは、「匈奴」、「倭奴」を見れば、当然のことながら二文字と考える。しかし、先にも述べたように「奴」は「人々、奴ら」という意味だとすれば、民族名とか国名という部分は「匈」、「倭」というように一文字である。これは漢風式の呼び名である。このことからも、「匈」、「倭」という名前が自称ではなく、中国による他称である可能性を考慮しなければいけないだろう。

「倭」の五王の「讃」、「珍」、「斉」、「興」、「武」の場合には、倭国が漢風式になじんだ時代であるので、これは自称であるのかもしれないが、逆にこれらも自称ではなく他称ということも考えられる。どちらにしても、これらは漢風式の一文字表記に他ならない。「匈」も「倭」も漢風一文字であった。また、壹与も、邪馬壹国の与という一文字表記であったかもしれない。

第4節 古事記における「倭」、日本書紀における「倭」と「日本」

 「匈奴」と呼ばれた人々は、秦や漢の帝国に媚びることなく高圧姿勢で臨み、戦闘をも辞さなかった。中国の王権にとっては「たけだけしい、不吉な」存在であった。よって、「匈奴」と呼んだ。他方、「倭奴」と呼ばれた人々は、漢の王権に対して「従順で、腰の低い」とうイメージで描かれ、そこで「倭奴」と名付けられた。「匈奴」と「倭奴」は中国にとって対極の意味を持つものとして中国によって名付けられた名前であったと言えるであろう。

 ところで、倭は中国の史書で残された列島人の名称であったが、実際には、「倭」という文字が最も数多く残される書物は古事記であり、次に多いのが日本書紀なのである。「倭」という文字が、ある意味で異常なほど数多く出てくる。まるで「倭」は自分たちで名付けたものであるかのように。古事記、日本書紀の読者は「倭」の字の多さに気付いていることであろう。では、「倭」の字がかくも頻出する理由は何なのであろうか。

 古事記における「倭」について見てみよう。地名と、特に人名に「倭」または「大倭」は多い。そして読み方はことごとく「やまと」である。代表的なものを挙げると、大倭秋津洲国(やまとあきつしまのくに)、神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、倭建尊(やまとたけるのみこと)、倭彦尊(やまとひこのみこと)、倭姫尊(やまとひめのみこと)など。その他にも「倭」は、「これでもか」というぐらい登場する。「やまと」と読ませながらも、「倭」の字を使わない唯一の例外が「夜麻登(やまと)」である。崇神天皇の叔母と言われる「夜麻登トトヒモモソヒメ」の名に使われている。本居宣長によると、「ヤマト」の起こりは「夜麻登」であったと言われている(注)。

(注)「國號考」宣長全集第八巻、P464

中国の史書類で、例えば漢の都や、皇帝の名、王子や姫の名に「漢」をつけることはない。三国の魏の時代に、首都や王族の名に、いちいち「魏」を冠することはない。古事記における「倭」の字の多さはなぜであろうか。日本の史書の伝統とでもいうのだろうか。

 これに対して、日本書紀ではおよそ半々で「倭」と「日本」が登場し、ともに「やまと」と読ませている。つまり、古事記で「倭」であった名が、一部「日本」に変えられているのである。大日本秋津洲国(やまとあきつしまのくに)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)のように、日本国全体を表す大日本秋津洲国や天皇とそれに近い位置にある重要人物に「日本」を冠している。天皇に倭は使われていない。これに対して、その他の地名や、倭彦尊、倭姫尊など皇子や姫皇子は「倭」の字のままであり、変更されていない。これらは、統計などを取ったわけではないが、倭と日本が半々になっている。

これまでのことから分かることは、日本書記では「倭」よりも「日本」のほうが高い格付けがされているということである。つまり、書記では「日本」の格が一段高く、反対に「倭」は格下げされたことになると言えないだろうか。これはなぜであろう。宣長は、残念ながら、この点には注目していない。

5. 最後に

「倭」をめぐる記紀編纂者、不比等の意図

 後に、第八章「旧唐書と新唐書に間」でも述べることと重複する部分も出てくるが、以上の疑問点について考えてみよう。670年の時点で日本国、つまり後のヤマト朝廷は「倭」が雅(みやび)ではないと主張し、国名を日本国に変えた経緯がある。古事記の編纂は712年、日本書紀の編纂は720年であったのにも関わらず、なぜ両書が雅でない名前に執着したのかと問い直してもいい。

 それは、記紀編纂者たちの焦りの表れであったのではなかろうか。ヤマトの王権は中国との国交においては後進国なのである。旧・新唐書に両方に見られるように、中国が日本国の胎動を感知したのは670年のことである。九州の倭国が前漢に遣使し倭国と記されたのが、およそ800年前のBC1世紀。すでに、倭国、委(倭)奴国、倭人などとして中国の史書に書かれている。もはや、「倭」は列島人から切り離すことができない。「万世一系の天皇家」を主張するためには「倭」は我々のことだと主張する必要がある。「倭」を自分たちに取り込む必要がある。それは何をするにしても大前提となる。古事記に「倭」が多いのは自分たちが過去から一貫して「倭」であったことを打ち出そうという意思の表れではなかったか。この地名にも「倭」、あの地名にも「倭」、この人にも「倭」、あの人にも「倭」、私たちは「倭」から切り離せないという意思表示をしよう。そう決断したのではないか。

 よって、先にも触れたように奇妙な事態が起こる。中国の史書でいえば、隋書の中でこの地名にも隋、あの人にも隋を冠する、唐書の中でその地名にも唐、どの人にも唐を冠するなどのような事態だ。そのような史書は古代日本以外には全く存在しないであろう。「倭」がこれでもかとアピールされている古事記、「日本」と「倭」がこれでもかというほど登場する日本書紀がいかに異常かについて、記紀信奉者は沈黙している。それが「当たり前だ」と思っていたなら、感覚が麻痺してしまっているとしか考えられない。「沈黙は金」ということであろうか。

 さらに、古事記に一つも「日本」が現れないこともまた、不思議なことである。712年に完成した古事記の筆者は「倭」から「日本」に変えられたことを、当然のことながら知っている。記紀の編纂者によって、古事記に「日本」が使われなかったことにも理由があるのではないだろうか。つまり、そこには「倭」が「日本」に変わったことを劇的に示そうという意図が感じられるのである。日本書紀に「日本……」が初めて登場するが、天皇の名前などが「倭」から「日本」に変えられたのがそのことを示している。そして、注目すべきことは、「日本」が「倭」よりも一段格上だという様相を呈していることであった。古い時代の「倭」と新時代の「日本」は不可分不離のものであるということ、そしてさらに、九州「倭国」を併合したヤマト朝廷である「日本国」のほうがより格上だということが表明されているのであろう。

ところで、愛国者であるはずの宣長は「倭」の意味についてそれほど屈辱的には感じていないらしい。あるいは、そう感じないようにしていると言うべきであろうか。「倭」が中国に名付けられた名だと紹介し、「柔順」という意味だと比較的に穏当に解釈しているに過ぎない(注)。宣長は、もとは「夜麻登」であったものが、かなり古より「倭」の字を使うことになったと簡単に述べるにとどめている。後に、唐書で倭が雅ではないと名を変えた日本国、ヤマト朝廷ほどの鋭敏さを「倭」の文字に対して示さなかった。これはなぜであろうか。

    (注)「國號考」、P463

宣長といえば、倭国が中国に「朝貢」に出向いたということには敏感に反応して、「朝貢」に出向いた者たちはヤマト朝廷の名をかたったものに過ぎないと、ヤマト王権の「朝貢」外交の存在を認めようとしなかった。それにもかかわらず、「中国に対する朝貢姿勢」と結びつく「倭」、つまり宣長にとっては屈辱的なはずの名前である「倭」、これについてはほぼ素通りして容認している。その理由は、彼が特に愛した古事記に、そして敬愛すべき皇尊の名などにあまりにも数多くの「倭」が使われ、さらに日本書紀にも「倭」の字を冠する人名・地名が次から次に出てくるからである。「倭」の字の屈辱さ・卑屈さを問題視し始めると収拾がつかなくなる、古事記、日本書紀をもとに、誇りをもって論ずることができなくなると悟っていたからであろう。取り去ることができないほどまでに「倭」が記紀の中で存在感を示しているのである。宣長は不比等の策略の前に辟易としていたのではないだろうか。

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