記紀に基づく古代史は危うい

記紀への絶対的懐疑について

哲学者のデカルトに「方法的懐疑」といわれる懐疑の仕方がある。中世のスコラ哲学が神の存在を合理的な仕方では証明できなかったと考えて、デカルトは「神の存在証明」を理性によって行おうとして新しい方法、「方法的懐疑」を唱えた。彼の有名な「われ思う故に我あり」は、神の存在を基礎づける、その出発点になった。理性に基づく思索を打ち立てることで、彼は近代哲学の祖となる。しかし、彼が究極的に論証すべき目標は「神の存在」であった。「神の存在」そのものを疑うわけではなかった。よって、「方法的な」疑いであった。

近世哲学の頂点をなす一人、カントは通常の理性によっては「神の存在」は証明できない。道徳の要請によってのみ「神の存在」は証明され、可能になるという「実践理性批判」を書いた。カントも「神の存在」についての伝統的な論証方法をひとまず疑い、最終的には「神の存在」を証明したのである。広い意味で、カントも神の存在を方法的に懐疑したのである。

私の記紀に対する懐疑は絶対である。記紀の描き出した中核をなす帰結・結論、「ヤマト朝廷の万世一系論」に対する絶対的な懐疑である。したがって、私の議論は「ヤマト朝廷の万世一系論」の過去の議論の仕方を疑いつつ、何か別様の仕方で「ヤマト朝廷の万世一系論」基礎づけるものではない。少なくとも、記紀の時代から見て「過去に向かって築き上げられた万世一系論」そのものへの懐疑である。反対に、701年の大宝律令の完成と703年の遣唐使により国際的にその存在が確認されて以降の、「未来に向かっての万世一系」については、これを否定するものではない。

ところで、私の懐疑は次の二つの「仮説」に由来する。むしろ、二つの「仮説」と一体のものである。その一つ目は、「記紀は藤原不比等らの政治的作文である」ということにある。したがって記紀のすべてはまず疑われなければならないということになる。上山春平氏の議論から手掛かりを得たものであり、さらに氏の主張を純化した上での仮説である。これは第2章のテーマであるが、「外祖父の仮説」と名付けられている。

二つ目の仮説は、元明紀に見られる「禁書」に注目し立てられた「禁書の仮説」である。日本最古の文字記録は記紀ではなく、記紀以前に九州など各地域にすでに史書・伝承・唄などが存在していたはずである。そういう日本の真に最古の文字資料、それらの中のヤマト朝廷にとって不都合なもの、つまり「禁書」が存在し、それらのある部分が記紀などの編纂に利用され、その他は廃棄されたと想定し、これを「禁書の仮説」と呼ぶ。この「禁書の仮説」は第3章で提示され、さらに各章でも繰り返し述べられることになる。

 ところで、私が記紀を疑うときに何を根拠にしているのかを述べておかなければならないであろう。また日本の古代の真の姿を述べるとき、そう多くは提示できないのだが、何に依拠していくのかという問題がある。デカルトになぞらえて言えば、私にとっての「明晰判明」な基準、「われ思う故に我あり」に当たるべき出発点は、中国の史書類である。言い換えれば、中国の史書が私の議論の出発点であり、第一次資料である。記紀への疑問、記紀の抱える矛盾などの指摘は、中国の史書類との比較・対照によって行われる。

 もちろん、中国の史書にも誤りがあるだろう。誤解・誤記・誤植など。しかし、それらの大部分は、意図的な、あるいは作為されたものではないであろうと考える。逆に、記紀の誤りは意図的で作為された誤り、いや、というよりも造作・創作の類であろう。中国の史書にも記紀にも誤りがあるので、誤りについては「五十歩百歩」であるという立場はとらない。記紀の誤りを軽んじることから出発している定説とはこの点で大きく異なっている。

 

 このことに関連して、二つのことをあらかじめ述べておかなければならない。

 一つは、日本の古代史について書くときに、記紀に頼らず中国の史書に依拠するということは、決定的な資料不足になるのではないかという問題が起こる。中国の史書類は日本のことを書くことが目的ではない。日本国との遣使関係でもない限り、日本のことなどは記されていない。当然のことながら、日本列島の内部で起こった出来事などは、中国の史書の主要な関心事ではないからである。実際に、そうなのである。資料不足は私にとって致命的問題である。そこで私の書くことは限られてくる。特に、日本の古代史の事実は「こうであった」と積極的に書くことはほとんどできない。むしろ、記紀に書かれたこと、記紀に基づく歴史研究者の発言について、「そうではなかった」と否定的・消極的な示唆しかできないのである。そして、言うまでもなくそのような状況に追い込んだ原因は一つは「禁書」が処分されたこと、またもう一つは記紀が真実を書いていないことである。記紀の史実の造作・創作によるものである。

 二つは、日本の歴史の第一次資料が中国の史書になるというのは「愛国心の欠如」ではないかという疑いを晴らすことである。私は真実の古代史を描くことこそ愛国心の一つだと考えている。これに対して他国の史書に頼り自国の歴史を語るという「愛国心の欠如」は、すでに日本書紀がはっきりと私たちに見せつけている。自国の歴史を語る日本書紀が、中国の史書から引用し、さらに中国の史書を改作することで書紀が成り立っている。それは、書記のあちらこちらに見える。不誠実さが露見している。本稿の何か所かで、それらを指摘し、そのことに対する私の考えを述べる。むしろ、愛国心をかなぐり捨てて日本の古代史の実態を歪めたのが書記であった。ひとまずここではそう言っておこう。

 私のこの論考では、記紀の疑われるべき記述内容を抉り出すとともに、中国の史書に基づいて浮かび上がってくる日本の古代像を可能な限り描いてみたい。そしてそれを、日本の古代史研究の基礎として据えたい。

目次

はじめに

第1章   倭国の遣使先とその遣使姿勢

第2章   元明紀の「禁書」問題と稗田阿礼の役割

第3章   藤原不比等が確立した外祖父システム  

歴史を支配する一族、藤原氏

第4章   書記における中国との外交記事を検討する

神功皇后紀、推古紀における中国との国交

第5章   隋・唐との外交史について

推古紀そして舒明紀・孝徳紀を検討する

第6章   本居宣長の中国との外交史論

第7章   倭国、倭人の「倭」とは何か

第8章   旧唐書と新唐書の間

第9章   短歌から日本古代史を考える

第10章  漢字音から古代日本史を考える

今後の課題

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